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それでもなぜ私は英語学習を続けるのか?

私にとっての英語とは?

英語
この言語は、私にとって多くの悩みの種を与え続けてきたものであり、かつ多くの気づきを与えてくれたものでもある。40年足らずの人生の中で何度「英語さえなければ」「日本語が世界標準言語だったら」と思わされてきたことか_。

ただ、そもそもよく考えてみると、なぜ私は英語学習を続けているのだろう? そもそも英語とは、私にとってどんな存在なのだろうか?

英語は、言わずと知れた世界的な国際コミュニケーションツール(言語)である。国際ビジネスにおいて、たとえ日本と韓国といった非英語圏同士のコミュニケーションにおいても英語は標準的に利用されている。またオリンピック等の国際的なイベントにおいても公用語として利用されている。

英語は、ビジネスシーンのみならず、プライベートシーンにおいても有用なツールではないだろうか。私の大好きな海外旅行において「英語が読める、話せる」と旅はより充実したものになるし、Netflixなどで放送される海外ドラマも英語が聞ければ字幕なしで見ることができるので、より臨場感を味わう事ができるのではないだろうか?

更に英語は、学校、特に小・中・高校という場においては、最も重要な「科目」の1つであるとも考えられる。私の時代では大学を受験するにあたり、英語受験なしで入学許可が下りる総合大学はそれほど多くなかった。得意・不得意、好き・嫌いに関わらず、学生にとっては乗り越えなければいけない「」のようなものだった。

本題に戻るが、では39歳の私は、なぜ英語学習を続けているのだろうか??

わからない。少なくとも「科目」としての英語学習は、今の私にとっての動機ではない。ただ、もし「ビジネスでより成功するために英語学習を続けているのか?」「旅行先でより流暢に英語を話したいから続けているのか?」と聞かれたなら、私はNoと答えるだろう。では何のために_。

中学・高校時代の私と英語

もう少し丁寧に過去から振り返ってみる。「科目」としての英語は、私にとって悪夢のようなものだったと今でも思う。
そもそも英語の前に「国語」が苦手だった。日本語ですら本を読むことがおっくうで、テストではクラスの底辺を争っているような人間が、どうして外国の言語を学ぶことができようか。当時の私にとって英語とは、ただ単語を丸暗記し、ひたすら英文を日本語に訳していくだけの「つまらない」「不得意」で「嫌い」な科目でしかなかった。高校2年、3年の時のクラス担任は英語教師だった。毎朝英単語テストが実施され、私はいつもそこで散々な結果を残し続けた。担任からは呆れられ、英語に関しては見放された存在だった。そのような状況下で私は英検2級に合格する。自分で自分に驚いた。2次の面接試験は、1度不合格となるも2度目挑戦では「ハッタリでもいいからとにかく話さないと何も始まらない」と思い、面接中は単語羅列のような回答をしまくったと記憶している。この経験が私の英語コンプレックスを多少なりに中和したが、それでも「苦手」「嫌い」の根幹を揺るがすものではなかった。

大学時代の私と英語

大学に入り、私にとっての英語は、「科目」から、就職に有利と考えられる「スキル」へと徐々に変化していった。「やらなくたっていい。だけどできなくて困るのは将来の自分。」という認識がいつも頭の片隅にあった。「英語をなんとかしたい_。」だが、どこから手をつけたら良いか全く想像がつかなかった。アルバイトで得た少額の資金と親からの出資によって、私は当時の英会話スクール大手の1つに通い始めた。当時は「駅前留学」「お茶の間留学」が代名詞のその英会話スクールで、私はそのどちらにも挑戦した。始めの方こそコンスタントに通っていたが、次第に1月に数回が半年に数回になり、ついには年数回の間隔で続ける始末だった。今振り返れば動機が将来への漠然とした焦りから来ていたため、「具体的に何のためにするのか?」が定義できておらず、さらにその先にある「何から手をつければ良いのか?」が冷静に分析ができていない状態で、ただ闇雲に走り続けていたと思う。暗中模索の時代だった。

そのような状況下で私をモチベートしていたのは海外旅行だった。海外へ行き、そこで英語を上手に話す日本人を見るたびに、私は「英語が話せる人ってかっこいい」「もっと英語でコミュニケーションできるようになりたい」と感じ、いつも消えかけていた心の火を再燃させることでなんとか繋ぎ止めていた。

社会人としての私と英語(20代)

社会人として働き始め出すと、私のモチベーションはさらに下降の一途を辿り続けた。仕事に翻弄され続けたこともあり、海外旅行にも一切行かなくなったことが災いしたか、それまで辛うじて繋ぎ止めていた英会話スクール通いも年1回以下の頻度になった。ただそんな状況でも、英語習得を先延ばしにしている自分の行動に対し、後ろめたさは時折感じていた。「いい加減このコンプレックスから解消されたい」そう思いながら社会人最初の数年を過ごした。

留学は私に残された当時最後のカード(切り札)だった。私はこのカードを自分が保有していることを大学生の頃から知っていた。ただ、カードを切るタイミングだけをなかなか見出せずにいた。社会人5年目で仕事にも脂が乗り始めた2008年の夏、27歳の私はワーキングホリデービザでカナダに行くことを密かに決意する。誰にも事前相談することなく私は留学センターのドアを叩いた。大きな決断だった。大学時代の期限切れパスポートを更新しビザ申請。ようやく準備が一段落したところで事件が起きた。隣の部署への人事異動告知だった。様々な思いが駆け巡ったが、私は私に対し、一度切ったカードを取り下げることを許さなかった。私を育ててくれた会社に対し、譲れる最大限の期限を提示し、きっちりとその期限をもって退職した。だらしない性格の私にとっては、それくらいの「覚悟」が必要だった。

留学は楽しい側面がある反面、人生における「賭け」でもあることを私は理解していた。
「何があっても1年で、自分の力で出せるだけの結果を出して帰国する。」
これが目標だった。渡航直前の私のTOEICスコアは500点未満であった。私は改めて、今の私にとってどのような学習法が一番合うのかを考え直すことにした。インターネットで検索し、英語初心者にとっての学習法について調べ、とあるPDFと音声で学習できる英文法教材に出会った。数千円で買えるもので、これがドンピシャではまった。英語はどのような構造で文ができているのか?どういう風に文章を作れば良いのか?を30歳手前にしてようやく「理解」した。

カナダに到着してからの1ヶ月は落ち込む毎日だった。多少なりにも日本で英会話クラスを受講してから渡航したにも関わらず、クラスメイトや先生が何を言っているかほぼ全くわからなかった。私が中学から15年近くかけて学習してきた英語力は、全くと言ってもいいほど海外では使い物にならなかった。何とかmotivationを保たなければと思い、必死に英文法教材と英語のポッドキャストを退職した会社の仲間から贈られたiPod nanoで聞き勉強した。滞在していたバンクーバーの街には大きな中央図書館があり、多くの学生がそこで勉強していた。私も放課後は図書館で勉強することを習慣化した。開放的な空間も相まって自己学習は捗った。

1ヶ月が過ぎると英語にも耳が慣れてきた。簡単なコミュニケーションであれば、多少は話すこともできるようになった。2ヶ月が経ち語学学校の終わる3ヶ月目以降の具体的プランが必要になってきた。「何が最適な次の選択肢だろうか?」そう自分に問いかけ、私はインターンシッププログラムを提供する別のスクールへ行くことを決めた。日本人留学生の間では、骨の折れる教育プログラムで有名な学校というフレコミだったが、実際に通ったところ、実際そう感じるカリキュラムだった。1ヶ月半のインターンシップを含む3-4ヶ月の短期プログラムには、Discussion、Presentation、Cold Callingなどが含まれていた。自分の言いたいことがうまく表現できず悔しいことも多かったが、今となってはこの時の経験は大きく私を成長させてくれたと感じている。またこのスクールでの経験の中で得た何よりも大きな気づきは、7年近く頑張ってきた仕事の経験が私の身を助けてくれたということであった。つまるところ、海外のビジネスシーンにおいても自分を売り込むためには、英会話力という「テクニック」よりも、類似する経験や体験といった「コンテンツ」の方が重要だということにその時気づいたのだ。

インターンとして現地企業において仕事をすることは、なにものにも変えがたい素晴らしい経験だった。幸いにも前職経験に関連した素晴らしい企業で働かせてもらい、プログラムの最後には大そうなお礼まで頂いた。ここでも感じたことは、「言葉がうまく話せなくても、情熱と誠実さがあれば、思いは伝わり、良い関係性を築くことができる」ということだった。この時、私の目指すゴールが見えたような気がする。「卒なく話すことではなく、想いを伝えられるレベルまで英語力を向上させることが、私の目指す到達点だ。」と。

その後もワーキングホリデー中は、実戦重視で英語力に磨きをかけた。旅行、アルバイト、ボランティア、時には日曜礼拝にも参加し、現地の留学生と交流した。craigslist(当時北米ではよく使われていたオンライン掲示板)でシェアルームを探し、旅行のチケット予約も街中の日系ではない現地のtravel agencyや鉄道駅で行った。私は次なるステップを目指し、バンクーバーを離れトロントで残り数ヶ月を過ごすことにした。この移住をきっかけとし、カナダ全土を横断する一人旅に出かけ、それまでの自分を振り返った。同じようにモントリオールに移り住んだバンクーバー時代の友人に2個あるスーツケースの1つを預け、カナダ本土東端のハリファックスまで旅を続けた。英語力はまだまだだったが、それでも少しずつ「やればなんとかなる」が増えていることを実感した。

トロントでの生活はまた新たな価値観を私に与えた。バンクーバーに比べアジア人比率は下がり、人種のルツボと呼ばれるだけの多様な民族がそこでは暮らしていた。それぞれの人がそれぞれの人生を生きているように見えた。私に残されたカナダでの時間はそれほど多くはなかった。底が見え始めた軍資金を補うためにアルバイトをしつつ、TOEIC対策のため現地の学校へ入学した。文法学習、英語実戦経験が奏功し、TOEIC対策コースは、当時の私にとってちょうど良い重さのバーベルのようなものになった。点を伸ばすためのTipsがスッと理解でき、それが正答率を高めた。帰国前に受講したTOEICでは800点を超えることができた。1年前には想像もつかなかった高得点だったが、それと同時に私が感じたことは次のとおりだった。

「TOEICが800点あっても、全く話せるようになった気がしない。。むしろこのスコアが自分を苦しめるのではないか?」

私はまた目標を見失った気がした。恐らく将来仮に900点を取ったしても、この気持ちは続くのだろうと悟った。では何を目指せばいいのか?新たな課題を感じつつ、30歳を過ぎたばかりの私は帰国の途についた。

社会人としての私と英語(30代・前半)

帰国後の就職活動は、私がうっすら感じていたその懸念通りに進んだ。仕事で求められるレベルでの英語力不足の上、退職から再就職までのインターバルと、営業経験のみの簡素な履歴書が私を苦しめ、選考は私が期待していたように進まなかった。とりわけ「英語力」については、800点のTOEICスコアが採用担当者に注目されることはなく、「業界での営業経験」に関する質問が専ら面接での話題だった。

幸いにもとある企業が私を救ってくれた。グローバル企業であるその会社は、従業員の半分は私から見ると、ネイティブに聞こえるほど英語を堪能に話すメンバーで構成されていた。入社数日で私は気づいた。

「私に対して英語力は誰も求めていない。私に求められているのは、これまでの仕事経験(営業)から来る私の知識やスキルだ。」と。

複雑な気持ちだった。つまるところそれは、仕事上で英語を使う機会が提供されないことにつながるからだ。実際に日々の業務で英語を使う業務は私の業務範疇外であることが多かった。改めてビジネスにおける厳しさを実感した。周りでは私と同世代、もしくはそれよりも若い世代のメンバーが電話越しに英語でコミュニケーションしていた。その姿はとてもcoolでカッコよく見えた。「私にもいつかこの人達のようになれる日が来るのだろうか?」そんな憧れのような感情で目の前に広がる景色を眺めていた。

きっかけは突然の出来事だった。「シカゴで開催されるイベントの手伝いに行ってもらえないか?」と上司から声がかかった。嬉しかった。仕事で英語が使える場面に挑戦できる、そしてそれが海外であることにワクワクした。ただこの後押しがあったのも、そもそも私が会社で果たすべき役割をしっかりと担い、周囲から認めてもらえていたからに他ならなかった。

海外出張においても「果たすべき役割をしっかりと全うする。」

これこそが私に与えられたこのfirst business tripの課題だった。私は、ネイティブスピーカーからすればなけなしの英語力でコミュニケーションを行い、イベントを訪れた日本からの顧客と現地スタッフの間を取り持つ役割を果たすことに奔走した。イベントは私には成功裏に終了したように見えた。実際このイベントをきっかけに日本での新たな営業先も獲得した。英語を通じて人と人を繋げ、その経験を通して自分も新たな可能性を発見しチャンスを広げていく。これこそが当時私が目指したい英語活用のかたちだったのかもしれない。

英語でのビジネス挑戦はさらに続いた。社内のグローバルミーティングへ参加する機会が与えられた。1週間のロンドンへのbusiness tripだった。この時が私にとって人生で初めて英語を使ってpresentationを行う機会だった。今思っても当時の私はとても緊張していた。成田からヒースローに向かう飛行機の中でも何度もpresentationの資料を見直しミーティングの初日を迎えた。時差ボケもあり、寝不足の状況の中、私は必死に会議メンバーに日本のビジネスに関する状況を説明した。うまくいったかどうかは記憶にない。記憶に残っていないということは、恐らく大きな問題はなかったのだろう。

この旅で学んだことは、会って話すことの大切さであった。当時ロンドンの担当者とグローバルシステムの導入についてdiscussionを続けていた。思うように導入が捗らず、私もそのロンドンの担当者もお互いにモヤモヤを抱えていた。emailでのコミュニケーションはぎこちなさを呈していた。私はこの絶好の機会をpartnershipを改善する機会に充てたいと考えていた。2日間半のグローバルミーティングの後、私はその担当者と直接話すことにした。小さな愛娘さんがいると聞いていたため、日本からちょっとしたお土産を持っていき、システム導入において今日本チームで問題になっていること、日本メンバーの価値観や考え方、更にはお互いのプライベートなどについてざっくばらんに話した。その時の会話が、その後のシステム導入にどれほど影響したかは今となっては忘れてしまったが、少なくとも言えることは、この時の直接の対話が、その後の担当者との関係性、日本チームとの関係性を良くした、ということである。5日間のロンドン滞在最終夜に食べたfish and chipsの味と共に、今でもそのエピソードは色褪せていない。

社会人としての私と英語(30代・後半)

それは2014年1月、この月末にケニアへの新婚旅行を目前とした中での人材支援エージェントからの1本の電話で始まった。

エージェント:
「先日電話面接したX社から2次面接をしたいと依頼があるのですが、都合はつきますか?」
私:
「あ、その時期は新婚旅行なので難しいのですが、日程調整可能でしょうか?」

数日後、再度連絡があった。エージェントが言うには、X社が2次/最終を一緒に実施するので、本社のある関西まで来てほしいというのである。その日程は新婚旅行から帰国する2日後であった。
事前に課題が渡された。とあるケーススタディで、ある状況において、あなたは何を提案するか?といった類のものであった。これをpresentationして欲しいというのである。2次面接も含め全て「英語で」とのことであった。
私は驚いた。1次面接は電話での英語面接だった。これは面接というよりカジュアルチャットに近いもので、私はそれまでの経験や今後私がX社に入って叶えたい「夢」的なものをざっくりと語ったに過ぎなかった。

「まさかこのような機会がもらえるとは・・」嬉しさと緊張が入り混じる複雑な心境だった。私は何も達成していなかったが、その時既に何らかの充実感に包まれていた。そのポジションは私にとって、英語力、業務経験のどちらにおいてもチャレンジングなものであった。ただ、1次面接の感触は悪くなかったので、次があればもっと自分をアピールしていこうと考えていた中での思いがけない申し入れであった。「今の私にできる最大限のpresentationをしよう」そう心に決めて、私は新婚旅行の中で時折presentationの構想を練った。旅はそんな私に適度な穏やかさを与えてくれた。見渡す絶景に心が揺らされ、「まぁ失敗したって大したことない」という気持ちにさせてくれた。

面接の出来は上々だったように思えた。事前のイメージトレーニングも奏功し、想定外の質問はほとんどなかったように思う。私はウキウキとした気持ちで帰りの新幹線でビールを飲みながら面接を振り返った。しかしながら、その好感触とは裏腹に面接結果はいつまで経っても告げられなかった。雲行きが怪しいと感じていたところに、別のエージェントから思ってもないポジションの紹介を受けた。外国人の担当者で、英語で半ば強引な勧誘のようにも感じた部分もあったが、「望み薄の結果を待つよりも、この新しいチャンスに乗っかってみるもの一案だな」と思い、受けてみることにした。人生は何があるかわからない。最終的に、この時のちょっとした判断が私の今を作ることとなった。

数日後、関西の就職エージェントより不採用の通知があるとほぼ同時に、私は今の会社に入るための最初の面接を受けた。全て日本語の面接であったが、これまでの海外経験等は面接官からの回答の中に織り交ぜることができた。2次の人事担当者との面談では、英語の必要性について私から質問し、最後に数分だけ英語でのコミュニケーションを行った。その担当者は、「君の英語力は十分ではないが、努力して話そうとする姿勢が感じられる。もし君が希望するのであれば、この会社ではチャンスをきっと広げられる環境があると思うよ。」といったような事を私に言ってくれた。とても嬉しかった。その面接から最終面接を経て約2週間後、私の内定が決まり、2014年4月、私は人生2度目の転職をすることになった。

転職後しばらくは英語を使う業務から離れることとなった。外資系企業のため、チャンスはあちこちに転がっているように思えたが、それでも私の担当業務の中に海外の担当者とコミュニケーションが生じるようなものは当初含まれていなかった。「これでは英語力がまた下がってしまう。。」そう思いつつも日々の仕事に忙殺される毎日を送っていた。

会社は過渡期で組織はどんどん変わっていった。メンバーの出入りが多く、その度に組織改編や業務分担の見直しが起こり、私もその渦に巻き込まれ少しずつ担当業務も変わっていった。私は得意に感じていたpresentationをさらに磨きつつも、英語を伸ばせるフィールドを求めているようだった。会社からの補助でTOEICをコンスタントに受講し、英語力低下が起きていないかを確認していたが、結果的にスコアは700点台前半に低下していた。それとは裏腹に仕事の評価や基本給は満足のいくレベルにまで上昇しており、もはや年収アップのための「英語」ではなくなりつつあった。改めて「なぜ英語を学習するのか?」が自分自身に投げかけられているような気がしていた。そんな最中の2018年4月、ゴールデンウィークも翌週に迫ったある日、私は部長から急な呼び出しを受けた。

「シンガポールに家族で行くことはできる状況か?」といった内容の言葉が部長から発せられた。「どう言うことだろう?」と思いつつも、二つ返事で「大丈夫、だと思います!」と答えた。話を詳しく聞くと「そのポジションに求められている要件と、私が当時与えられていたポジションや私のスキル特性が、ポジションにマッチするのではないか?」と考え私を候補として選出した、とのことであった。ただし、まだ本決まりではなく最終的な選考がある。とのことで、それに選ばれるためにも、英語力特にスピーキングを鍛えておくように。と告げられた。

私は興奮冷めやらぬままに即刻妻に電話を入れた。妻も興奮していた。そして英語力を伸ばすために、知り合いの夫妻が海外赴任した際に利用していたオンライン英会話プログラム(DMM英会話)を紹介してくれた。数日後のゴールデンウィークを皮切りに、私はオンライン英会話の受講をスタートさせた。当時私には時間がなかった。それは最終選考が数ヶ月以内という差し迫った状況の他、子育ての真っ最中で、街中の英会話スクールに行く時間など持てない状況であったからだ。私はこの25分の英会話プログラムを毎日受けることで英語力を伸ばそうと試みた。過去の経験から間隔を開けないことが英会話力上達には一番効果的だと分かっていたからこそ、「毎日」という選択が最善な方法だと認識し、学習の効果性はあまり考えず、学習を継続することにフォーカスした。

3ヶ月後、シンガポール行きは白紙になった。期待をしていただけに少し残念な気持ちにはなったが、この頃にはオンライン英会話は毎日の朝の習慣として定着していた。そのため、残念な気持ちとは裏腹に、「英語学習をするための良いきっかけを作ってもらった。」といった感謝の気持ちも同時に湧いていた。その後も毎朝のオンライン英会話は、私の生活に規則性を与え、私が自分らしく生活するためのかけがえのないものへと変化していった。次第に休講、旅行などの理由で受講できない日に違和感を覚えるまでになった。実感値としても、リーディングスピード、読解力、発音などで改善を感じるようになった。

その後も、機会がある度に、部長や上司は私に英語を使える機会を与えてくれた。私にとってその「機会」は、もはや「恐怖」や「悩み」ではなく、「ワクワク」や「成長機会」といった認識にいつしか変わっていた。もはや私にとっての英語は、決して得意とは言い切れないが、はっきりと「好き」なものへと変化していたのだ。

10年後の未来に向けた私と英語

これまでの過去を振り返って、私は試行錯誤と言うよりも暗中模索を繰り返しながら、英語を「つまらない」「不得意」で「嫌い」なものから、「好き」なものへと変化させてこれた。
ただ、ここでふと思うのは、果たしてこの先10年で「不得意」を「得意」にすることができるのだろうか?という疑問だ。少なくともTOEICで900点や満点を目指すことは、なんとなく私の目指したい地点ではないし、英語を成り合いにした仕事についたり、それで収入を得たりしたい訳でもない。そもそも「得意」を目指すのであれば、ボキャブラリーはもっと増やす必要があるし、ことわざやスラングもそれなりに使いこなせる必要があると思う。こういった類は日本語においても苦手分野であるからこそ、全く気が乗らない。

では、私がこれまでやってきたことは何だったのか?私は英語を「嫌い」から「好き」にするためにここまで続けてきたのだろうか?
違う。私は英語が話せるようになることで、海外の人たちとより円滑なコミュニケーションが取れるようになり、かつての同僚だったあのメンバー達のように、coolな立ち振る舞いを身につけたかったからではないか?そう考えてしっくりきた。私は「その姿」に近づけている実感があるから結果的に英語が「好き」になり、続けようという意欲に溢れているのだと。

また、英語学習の体験・エピソードを通して、私は大きく自分の価値観、ひいてはキャリアや生き方を変えることができた。つまり「学習体験」そのものが、私の次なる可能性を生んできた。転職、海外出張、海外赴任の打診など、思いがけない偶然の出会い(Serendipity)が私にきっかけを与え、モチベーションを与え、その度に私は何か大切な気づきを得て、私の行動(behavior)や思考(way of thinking)を変えてきたのだと思う。

では、10年後に私はどうなっていたいのか?答えは簡単だ。更に英語学習を続けていく中で生じる様々な出会い、体験、感動に身を任せることで、更にcoolでカッコいいと思える自分になる事だ。
そのためには、他の「得意」(Strength)や「好き」(Like)と掛け合わせて実践していくのが良いだろう。私の場合、「得意」や「好き」なことのうち「presentation」や「旅行」が英語学習との相性がよかったように思う。これからもこの2つと組み合わせつつ、更にこれから新しく加わる「好き」とも掛け合わせてこれからの学習体験を楽しく続けていきたい。そう感じた2020年8月の梅雨明けの爽やかな夏の朝、私は今日もオンラインレッスンを続けるのである。

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