見出し画像

小山田圭吾さんから学ぶこと / 自分とは違う相手を認めるということは自分を認めるということ [健常者と障害者の違いって何?]

久々にワイドショーを見た

どこもかしこも小山田圭吾の話題ばかり。インタビュー記事の内容が気になりちょっと調べてみた。

衝撃の内容を知った時、私の鼓動は激くなり怒りや恐ろしさ、憎悪などドロドロとした黒いものが自分の内に湧き出てきた。

彼をバッシングしているワイドショー。
彼を責めている障害者団体。
彼を指名したオリンピック委員会を指摘する司会者。
記事の出版社を責める人々。

全てにおいて納得している自分がいた。
彼のした事はとても許される行為ではないからだ。


でも…
本当にそれだけでいいのだろうか。

確かに彼の行為は許せない。

でも、彼を責め立て追い詰めて辞退させて…それで彼は心底改心することができるのだろうか…
彼が排除されることによりこれからいじめがなくなっていくのだろうか…

そもそも、彼の話したことは本当に事実なのだろうか。
自分が犯罪に近いような過ちをしたという認識がないどころか自分をカッコ良く見せるために武勇伝のように話をしたのだとしたら、そのために事実を膨らませてはいないだろうか。

もし全てが事実だとしたら、なぜ彼はそんな酷いいじめをしたのか。
なぜ彼は大人になったのにも関わらず、人の気持ちが理解できないような人格形成されたのだろうか…
それはきっと彼だけではない気がする。

みんな誰もが問題はある

私の息子は知的障害がある。

もし私の息子が同じような被害にあったらきっとすぐには彼を許すことはできないだろう。
仕返ししたい!やり返したい!と最初は憎くくて憎くくて耐えられないだろう。

障害があることはその子のせいじゃない。
そもそも障害があること自体悪いことじゃない。
障害あるなし関係なくみんなの違いを分かりやすく教えてくれる大切な大切な存在だ。

障害の裏にはそんな理由がある。

そして私自身は見えない障害をもっている。
だから周りから理解されない辛い思いはよく知っているつもりだ。

自分で自分をコントロールできず日常生活にも支障が出てしまい苦しくてどうして良いのか分からなくて、まるで出口のない暗黒の迷路を彷徨い続けていたような若かった当時、限界を感じて思い切って家族に相談したこともある。
親と一緒に病院に行き診断名があることに驚いた。私だけがおかしくなったんじゃないんだ…不思議と安堵したことを覚えている。

しかしその後の方が地獄だった。
病院で診断名は出たが軽度だと診断されたことで、「ほら!やっぱりあんたはただ自分に甘えているだけだ!」「そんなに障害者になりたいの?」と責められどうすることもできない行為は笑われ、協力も理解も得られずさらにどん底に突き落とされた過去がある。自分が生きていた中で最も辛く苦しい経験だ。それは今でも更新されることはない。
一番苦しい時に一番理解してもらいたい家族に自分を信じて受け止めてもらえなかったことが何よりも辛かった。
私にとったら決して軽度なんかじゃなかった。

生きていく力さえ失いそうになっていたそんな時、一筋の光が空から降りてきた。

"死ぬくらいならまだやれることがあるはず!"

本当に天使が舞い降りてきそうな綺麗な一本の光が私の少し手前を明るく照らし、前へ進めと私を勇気づけてくれた。

その後自分に合う病院を必死で探し、仕事を辞め家を出て自分と向き合いずっと模索し続けてきた。
自分を取り戻した私は良き出会いをもらい結婚して障害のある息子が生まれた。そんな息子のお陰でまた様々な人達との出会いがあり、新たなたくさんの学びをもらった。今は息子だけでなく自分の障害も受け止め、自分の持ち合わせた特性のバランスをなんとか保ちつつ障害と共存している。
しんどい時もあるけど、この障害がある自分を少しずつだけれど好きになってきている。

これは私に障害があるが故の辛い経験ではない。
健常者だって誰にも言えない、人には理解されない苦しみや悲しみはきっとある。
私に悩みを告白された時の母。その後幾度か私に責め立てられた時の母がきっと人生のどん底の状態だったのだと思う。
母の育った堅く厳しい家庭環境や責任感の強い母の性格、当時の母の身体的にも精神的にも過酷な状況からとても現実を受け止められる余裕などあの時の母にはなかったのだろう。

特にあの当時はまだ今より情報量も少なく、目には見えない、分かりにくい障害のことを理解出来なくても仕方ないことだった。そして私を何とかしなければいけない、甘やかしてはいけないという母なりの愛情だったのだと思う。母の背後にある目には見えない理由を今の自分なら理解できる。

母を許すことができたら自分を許すことができた。みんな誰もが目には見えない、その人のせいではない理由があることを知った。そして誰もが目には見えないけれど愛があるということも…

そんな愛を与えてくれた母を責めてしまった私にも見えない理由はあった。
その時にはまだいない将来生まれてくる子供に同じ悲しい思いを決してさせたくなかった。だから何が正しく何が間違っていたか、私はただ真実を知りたかった。

私にはその時の自分ではどうすることもできない苦しみを抱え困り果てていた。そんな自分を私は母に理解してほしかったんだ。大切な人だからこそ自分を信じてほしかった。たとえ母のせいではない理由があろうが愛があろうがやり方が間違っていたことに変わりはない。

苦しむ私を責めた母、そして愛する子を想う母を責めて苦しめた私。どちらもその時には仕方のなかった理由はあったけれど、間違っていたことは事実なんだ。

その全ての真実から目を逸らさずに、そこから何を学びこれからどうしていくか。それは全て自分次第。
自分のせいでもない、誰のせいでもない苦しみを憎しみに変えて人を責め続けるか…
自分や相手の見えない理由を知り、愛に気づき、自分も相手も許していくのか…
そして悲しい経験を肥やしにして自分の成長や自信に繋げていくのか…全ては自分で自由に選べる。


貴重な体験や贈り物をくれた母に、今私はとても感謝をしている。母にも同じ思いを感じる。
そんな母を私は誇りに思う。
そして障害を持っている自分を好きと言える私は障害のある息子が大好きだ。

障害のある人だけでなく誰にでも目には見えない悲しみや苦しみ、そして欠点だってある。
完璧な人なんて誰もいないのだから。
障害のある人は許されて、診断名がつかない人は許されないのだとしたら、それは健常者差別だ。

だからこそ相手が障害者であろうが誰であろうが、欠点があるから責める、いじめてもいいのなら、地球上の全人類全ての人達を責め立ていじめてもいいことになる。

誰もが欠点があり、一枚の紙の裏表のようにその裏には美点や人を想う愛もある。
そしてみんなそれぞれにその特性を生かしたその人だけの、その人にしかできない役割があるものだ。
目に見えない障害は目に見えないところにあるものの大切さを教えてくれる。
目に見える障害、重度の障害を持っている人達もまた命の尊さや人が生きる意味、人としての喜びなど人間の本質的なところ、目に見えないところの大切さを教えてくれる。そして大切な医療発展への貢献や働く場の提供、さらにその無邪気な笑顔で人を癒やしてくれる。

目に見える障害を持っている人達も見えない障害を持っている人達も、人にとって本当に大切なものは何か、というとても大事なことを教えてくれる大切な存在。
でもそれは障害者だけでなく誰もがその人にしかできない、その人だけの役割が必ずある。だから無駄な人間なんてこの世に誰一人として存在しない。

息子は主人が帰宅するとお喋り好きな私に主人を譲ってくれる。泣いている子がいると心配そうに近寄っていく。怪我をして血が出るとサッとティッシュを持ってきてくれる。いつもは抱っこ、抱っこと甘えても私の腕が痛い時は我慢して歩いてくれる。
優しい心や人を大切にする力、我慢する力は私より長けている。情けない話だが…
そして彼が苦手なところは私が補う。

何よりも息子の面白い表現力やツンデレなところ、そしてキラキラした笑顔が私は大好きだ。
ここにこうして生きていてくれるだけで幸せにしてくれる大切な存在。きっと息子も同じ想いだろうと思う。

みんなそれぞれ欠点や美点の場所が違うだけで、欠点と美点の凸凹の差が違うだけで、健常者も障害者もみんな一緒。
ただ唯一違うところはその欠点により本人が著しく困っているかどうかにある。

本人が困っているから周りも困る。
周りが困れば本人もまた困ることになる。
周りを困らせている人は本人が一番困っている人だ。

障害のある人は美点と欠点の凸凹の差が激しい分苦手なことが大きい。日常生活や人との関わりの中での困り感が大きければ、それは障害になる。それだけ困っている人達だ。

目に見えない障害は見た目からは分かりにくいが故に周りから理解されにくい。
目に見える障害は不自由さや偏見、差別に苦しむ。
その障害や当事者の気持ちの無理解が障害者と健常者の間にある壁になっている。障害というのは両者との障壁をも意味する。
だから障害者が困っているというよりもむしろ取り囲む周りの環境が障害者を困らせている、と言った方が正しいかもしれない。

障害を持っている人は苦手なところだけが目立ってしまい本人も周りも欠点を意識してしまいがちだが、凹が大きいということはその裏の凸も大きいということ。
特別な才能を持っている過去の偉人達の中には障害を持っている人も数多くいる。
彼にとって音楽こそが大きな欠点の裏の大きな美点ではないだろうか。

その有り余る才能を発揮するには、同じ一つの特徴の裏にある大きな欠点をコントロールしていかなければならない。

でもそれは凸凹の差が大きい人だけの話ではない。人は誰もが欠点があり困り感のない人なんて誰もいないのだから。
みんなに偏りがあり誰にでも悩みはあるのだから診断名なんて付けようと思えば誰にでも付けられる。だからみんなが障害者であり健常者だ。
そして誰もが他者に理解されない障壁を抱えている。
みんな一緒に問題を抱えているのなら、それぞれの苦手を理解し合い、せめて障壁を取り除いていくべきではないだろうか。

それぞれの得意を認め合い、誰もが持っている不得意はそれぞれ違うみんなで補い合っていく。
だから違うっていい。みんな違うから補い合えるのだから。
そのためには一人一人が持ち合わせている才能を開花し自分だけの役割を果たしていくこと。
自分のためにも人のためにも。

そのためにも美点と欠点のバランスを整える必要は誰にでもある課題だ。
障害者をいじめた彼も、彼をバッシングしている健常者も、障害を持っている息子も、見えない障害を抱えている私も。


人の行動には理由がある

彼の生い立ちは分からないが、もし幼い頃から周りの大人に自分を大事にされた経験がもしなかったとしたら…
人の気持ちを思いやり、大事にすることがはたして当時の彼にできただろうか。
彼の幼少期がもし映画化され、なんて酷い…なんて皆が号泣するような悲しい経験をもししていたとしたら…
今と同じように寄ってたかってみんなでバッシングすることができるだろうか。

自分自身を大事にされない経験は虐待やネグレクトだけではない。

本当の自分を信じて受け入れてもらえなかったり、自分を理解してもらえず叱られてばかりだったり、逆に叱ってもらったことがなかったり…
人を傷つける行為をしても、それはいけないことだと教えてもらった経験もなく人の気持ちを察することができなかったのかもしれない。
それも一つのネグレクトだ。
生まれてからの環境からくる愛着障害は生まれ持った発達障害と同じような症状に陥ることもある。

または厳しすぎる家庭環境がストレスを与え、やり切れない想いを外で発散していたのかもしれない。
そんな親のしている事を無意識に学んでしまったのかもしれない。
生い立ちが人に与える影響はとても大きいものだ。

でもその親にだって理由がある。

親も同じように厳しい家庭環境で育ったのかもしれない。
もしくは虐待されたり放任で育ったのかもしれない。
音楽的才能があるが故の彼の偏りを親自身が理解できず受け入れられなかったのかもしれない。

理由には理由の背景があり、さらにその背景の理由だってある。
後天的な理由だけでなく先天的な理由だってある。

感情をセーブすることが難しい生まれもった特性もある。

理由は一つじゃない。
いろんな複雑な理由が絡み合って人間形成されていく。
小山田圭吾という人間が出来上がったのは元々の彼の性格に加え、親や彼に関わった大人達や周りの環境、そして今の時代の常識が大きく影響している。
本人だけでなく取り囲む環境やシステム、現代の思考と常識を変えていかなければいじめは減ることはないだろう。

武勇伝のように語ったいじめの内容が雑誌に載り、彼がオリンピック音楽担当になったことが、障害者差別やいじめを軽んじている現代の常識を物語っている。

しかしたとえどんな理由があったとしても、悲しい過去があったとしても、彼の行為は間違っている。そこに変わりはない。

自分にどんな理由があろうが、相手にどんな理由があろうが人を傷つけてもいい理由なんてどこにも存在しないからだ。

だからこそ今、一人一人が自分の行動を見直すべきではないのだろうか。

人を傷つけてもいい理由などないのなら、たとえ相手が間違っていても相手を責め立て傷つける行為は正しいことなのだろうか。
どうしてもその時はそうせざるを得なかった理由がその人にあったのなら、相手のせいではない理由を見ずにバッシングすることは、彼がしてきた過去の過ちと同じようなことだと感じてしまうのは私だけだろうか。

間違った行動をした相手を責めるな、と言っているのではない。
中には責める人がいてもいい。それと同じように責めるのではなく違う視点から解決法を探る方法があってもいいのだと思う。

感情のコントロール法

人の感情は仕方ない。
人の感情なんてその人の自由だから。

相手を責めたい、やり返したい、怒りや憎しみ、どうすることもできない気持ちは否定することなど何もない。

その人の立場や状態、性格、今までの過去の経験によりみんなそれぞれの感じ方がある。
そこを人からとやかく言われる筋合いは何もない。人の心は全てが自由だ。

その自由な自分の感情をぶつけることで相手は人の心に気づき、そこから改心することもある。
しかし度が過ぎるバッシングは相手も自分も滅ぼすいじめと一緒だ。
同調圧力に流された多くのバッシングは集団リンチのようなものだ。
相手のことを思う助言や本当にいじめをなくしたいという想いからの行為の否定ならいいが、正義に託けてただ自分のストレスを当てたり自分を正当化するために相手を責めているのなら、その行為こそいじめを助長してしまう行為になる。
同じバッシングでもバッシングの仕方や何のために、何を目的でしているかによって全く違ったものになる。

何度も言うが、間違っても彼の行為を正当化しているわけではない。彼のせいではない理由があったとしても行動は間違っているからだ。

私自身も最初は彼を責めた。許せなかった。
今もまだ怒りはある。当事者ならさらに比べものにならないくらいの怒りや哀しみ、悔しさがあるだろう。
ただ、その感情を当てるだけで本当に根本的な解決になるのか、と問いたい。
感情のままに流されてそのまま行動に移すだけなら、それは彼のした過去の行為と一緒だ。

これは自業自得だ!あんなやつと一緒にするな!という声がたくさん聞こえてきそうだが、きっと当時の彼も同じように自分がそんな酷いことをしているなんて気づいてなかったのだろう。

そんなにみんな清く正しく美しい人ばかりなのだろうか。
バッシングしている人は今まで過ちを犯したり人を傷つけたことは本当にないのだろうか。

いくらなんでもあんな酷いことなんて自分はしていない! としても、彼と自分とでは抱えているものや持っているものも違う。
感じ方や捉え方もみんなそれぞれ違う。
自分のものさしでは計れるものではない。
もしかしたらその当時一番困っていたのは彼だったのかもしれない。
理由は目には見えないところにだってある。

理由の理由、そのまた理由を探っていくと誰のせいでもない理由が必ずある。
まずはそこに気づくことが根本的な解決に繋がっていく。

もう二度とこんな悲劇が繰り返されないようにこれから本当にいじめをなくしていくのなら、いじめた相手を責めたて同じ過ちを繰り返すのではなく、まずは彼の見えない理由を知り負の連鎖を断ち切ることだ。


同じようにバッシングしている人にもみんなそれぞれの理由がある。
だからそんな自分を責める必要は何もない。
彼と同じように。
反省は必要だが自分を責める必要はない。
責めて改心するならいいが逆に同じことを繰り返す結果になることもあるからだ。

人の脳はイメージしたものに近づこうとする。
こんな人にはなりたくないなあ、と思えばなりたくない人を脳がイメージしてその人に近づこうとする。
逆にこんな人になりたい、とイメージすればなりたい人に近づいていける。

過ちを犯した自分や人を責め続ければ悪い行為をイメージしまた同じことを繰り返す。さらにそんな自分を責め自信を失い、心に空いた穴を埋めるために自分を正当化しようとまた人を責める。
ずっと同じことの繰り返しだ。

誰もが完璧ではないのだから誰もが欠点がある。その誰もがある欠点を責め、悪いところの意識を強めるのではなく、なりたい自分をイメージしそこに近づいていけばいい。

だからこそ彼も、彼を責めている人も、みんなが自分や相手のせいではない理由や背景を知り、そこから誰のせいにもせず、なりたい自分に自分を変えていけばそれでいい。

オリンピック委員会や記事の出版社に対しても、人を責めるのではなく、有能な適任者が役割を与えられるようなシステム作りや、当事者達だけではなく国民全体の価値観を変えていく方向へ視点を向けていくべきだ。

恨み辛みからは、さらなる悲しみしか生まれない。
周りを困らせているように見える人は、実は本人が一番困っているもの。
みんなが苦しみ悲しんでいるのなら感情論ではなく、一旦頭を冷やして一人一人が冷静に今何をすべきかを考え行動していくべきだ。

"これからみんなが笑顔になれるにはどうしたらいいのか…"

自由な心に、そんな思いやりの思考というフィルターを通して行動に移していく。

しかし頭では分かっていても感情が勝ってしまいなかなか出来ないもの。
人の感情はその人そのものであり自由だからだ。
どれが正しく間違っているなどないのだから感情は否定はしなくていい。だから感情に任せた行動をしたからといってそんな自分を責めることもない。

ただそんな自分を好きになれないのなら、自分を少しでも変えていきたいのなら、どうすることもできない感情はそのまま受け止め、その自由な心と行動の間に前進的な思考を入れていけばいい。

心=行動  感情のまま(時にはいい)
心→思考→行動 
心→思考行動

少しずつ思考と行動を一致させるように自分を変えていく。そうしてなりたい自分に自分から近づいていく。
感情のコントロール法は決して感情を変えることではない。仕方のない感情はそのままにして、思いやりの思考を入れ具体的な行動に移していくことだ。

もちろんそれは簡単なことじゃない。
だからこそ自分でも自分をコントロールするのは難しいのだから人を変えることなどできないのだ。

人に向けた人差し指をいかに自分にも向けるかで自分を変えていける。
自分が変われば波紋が広がるように周りも少しずつ変わっていくもの。

人差し指を向けるというのは決して責めることじゃない。信じて見直すこと。
ありのままを信じて受け止め、そこから成長していくことを願うこと。
自分にも、そして相手にも。
問題や課題のない人など誰もいないのだから。
だから誰も責める必要なんかない。

誰のせいでもない見えない理由や愛に気づき、人も自分も少しずつでいい、許していく。
そして人を通して、今回の件を通して、自分を見つめ直し一人一人が今、自分のできることをしていく。それが大事な自己成長に繋がっていく。

人は手段であり自分が目的。
手段である人を目的にするのではなく、人を通して自分を成長させていく。それが一番の目的。
そして目的だけでなく手段だってとても大切なもの。
人のため、相手のために自分に何ができるか考え行動していくことは、相手の成長だけでなく更なる自己成長にも繋がっていく。
自分の自由な心、感情は無理に変えなくてもいい。時には素直に従ってもいい。できる時に自分の行動を変えていけば次第に心も変わっていくものだから。
目的と手段。自分と人。その双方のバランスを保つことが何より大切なこと。

小学校の当時の彼にそれが出来ればいじめなどしなかっただろう。
でもはたして今現代の大人でも、それが出来る人はいったいどのくらいいるのだろうか。

彼には自分自身を知り、誰のせいでもない理由に気づき、自分も人も許してそこからまた過去を背負いながら再び自分の道を歩んでほしい。
今回の経験を学びに変えそこから少しでも成長していってほしい。

それはいじめられた側も一緒だ。
過去の辛い経験や人を憎むのではなく、自分も誰のせいにもせず、その学びを肥やしにして成長していくこと。そしてその貴重な経験から得た共感力や想像力で自分にしかない役割を見つけること。
それが過去のトラウマからの一番の克服法であり自分の更なる揺るぎない自信へと繋がっていく。

自分を大事にされなかった経験のあるいじめた側もいじめられた側も立場は違えど同じ痛みを知っている。

学びから得た人を思いやる心が、自分と同じように幼い頃に空いてしまった心の穴を持っている多くの人達を癒し、みんなの穴を少しずつ埋めていくだろう。

それこそが本当の改心ではないだろうか。


彼は「小山田くんの嫌なとこ」というタイトルで同級生に作文を書かれた、と語っている。
どっちが先かは分からないが彼(小山田氏)は相手をいじめた。だから作文で仕返しされた。
その後執念で相手に仕返しをした。
そして今回は世間から仕返しをされた。
ずっと同じことの繰り返しだ。

やられたらやり返す、のではなく、痛みを知っているのならやり返さない勇気をもってほしい。それが真のカッコ良さ、というものだろう。
相手のためにも。
自分のためにも。
そしてバッシングしている人達も。

人を責めればスッキリするし気持ちがいい。
自分が優位に立てるし、そんな自分を正当化できるから。そして何より楽だからだ。

きっと彼も自分を正当化したかったのだろう。
自分もいじめられたから。相手が弱いから。自分の内に空いた寂しい心の穴を埋めるため自信をつけたいから…
そんな自分でも気づいていないような正当化する理由もあったのではないだろうか。

でも人を責めても自分の穴は埋まらない。
ますます大きく空くだけだ。

自分でも気づかないうちにそんな自分を自分が責めるからだ。
自分に対する不信感をまた自分の内に入れてしまうだけ。
そしてその穴を補うためにまた人を攻撃する。


常識の常識を変える

人は人を責める。
人を責めれば自分を肯定できると思っている。
自分がやっていることが正しい。それ以外は間違い。
それが今現代の根強い思考だ。
自分に合うものだけが自分にとっての常識であり正しいものになる。だから他者を認められない。

だが、その常識は人によってそれぞれ違う
たとえ自分には合わないものでも相手が合うものは相手にとったら正解なのだ。
自分の捕まっている綱だけが常識なんかじゃない。

それをあっちの綱はあーだ。こっちの綱はこーだ、なんて人の綱に文句をつける必要は何もない。
必ずどの綱にも良いところや足りないところはあり完璧な綱なんてどこにもない。
だから自分の持っている綱だって同じだ。
当然良いところも足りないところもある凸凹の綱だ。

だからこそお互いの足りないところを補い合うことができる。みんな一緒なら補うことは不可能だ。いろいろな綱があってもいい。あるからいいんだ。

唯一の過ちは親や周りの大人達が、たった一つの価値観、たった一つの道しか子供に与えないこと。
もしその綱がその子に合わなかったら…
何度挑戦しても上に上がれず、次第に手は痺れ挫折すれば真っ逆さまに地の果てに落ちるだけ。

でも様々な綱を与えてあげたら…
自分の持っている綱がたとえ合わなくても、あっちの綱かな?こっちの綱かな?とひょいひょいと飛び移ることができる。
そして自分の合う綱が見つかればあとは少しの努力で自然と上に登っていけるものだ。

その子に合わない綱しか与えずお尻を叩きながら必死に登らせようとしても一向に登ることはできない。
叩いている方も叩かれている方もお互い頑張ってるのに次第に苦痛になりストレスが溜まり、登れず困っている子供を自分の思い通りにさせようとさらに親は叱りつけ叩く。
親の期待に応えようと何度も挑戦した結果限界を感じ、親の選んだ合わない綱を離して悲劇が起こることもある。
他にその子に合う綱がちゃんとあるにも関わらず…

叩くというのは虐待や叱りつけることだけではない。褒めることも一つの誘導だ。
過度の期待が子供を追い詰める。
叱るも褒めるも子供自身ではない親のジャッジだからだ。

子供は親の期待に応える道具じゃない。
たとえ子供のためでもその子に合わない綱を登らせるのはそもそも無駄な努力だ。
気合いとか根性とかでどうにかなる問題ばかりじゃない。
その子に合う綱かどうか見極めることが先決だ。

もし親が与えた綱がたまたま子供に合う綱だったとしても、それこそ子供は自分の綱のみ正しい!と他者の綱を認めることが出来ず、人との関わりの中でのトラブルが続出し、なぜそうなってしまうのかも本人では理解することが難しくこれからの多様な世の中を渡っていくことはとても困難になるだろう。

そんな風に子供に一つの綱しか与えられなかった親もまた同じように一つの綱しか与えられず苦しんできたのかもしれない。その親の親も、そのまた親も…
悲しい想いを代々繰り返しているのなら自分も誰も責めるのでも否定するのでもなく今、ここから自分が行動を変えていけばいい。

その子の合う綱は親には決められない。
親も子も違うのだから。
むしろ生物学的にも親とは異なる特性の子供が生まれてくることが多いのだそう。
親子が似るのは容姿と病気だけであとは周りの環境から学び取ったこと。

自分とは違うタイプの子供を育てるということは親にとっても学びになる。
だから子供は親に足りないところを補ってくれる最大の愛を持って生まれてきてくれる。
そんな大切な存在である子供から何を学び取るのかが親にとっての成長の鍵となる。
だからこそ子供にだけでなく親は自分にも指を向け、子供を通して自分を成長させていく。そんな姿勢を子供は見て学ぶ。

"困っている相手を変えるのではなく自分を変えていく"

そんなお手本である大人の姿を見てきっとこれから未来のある子供達は、相手の立場になって考え行動に移していけるようになっていくだろう。
いや、むしろ固定観念のない純粋無垢な子供達から大人が学ぶべきこと、といえるかもしれない。


親の価値観では決められない自分の綱は子供が自分自身で探して選ぶしかない。
そのためにはいろいろな道があること、いろんなやり方や考え方、捉え方があることを知ることが必要になる。

だからといって一人の親が多様な思考を持つなんて簡単じゃない。親だって人間だから。
自分の考えをしっかり持っている人ほどそれは難しい。

親には親の価値観があるがそれを人にも押し付けるのではなく、親以外の価値観があってもいいということ。
親が自分を正当化するために他人のしていることにいちいち文句をつけるのではなく、こういう考え方、捉え方があってもいいんだってことを、親自身が自分とは違う他者を認める姿勢を見せること。それもやり方の一つだ。

親だって完璧じゃない。苦手なところは無理せず人に頼ること。自分を知り自分を守ることは子供も守ることになるだけでなく、自分以外の人を認めることにもなる。
そんな自分も人も大切にするありのままの親の姿を見せることもまた一つのやり方であり、困った時には助けて!と言えることの大切さを子供に伝えることにもなる。

答えは一つじゃない。
決まりなんてない。
自分に合う考え方、捉え方、方法は自分で考え決めればいい。全て自由だ。
その自由な思考を人からの影響を受け変えていくかどうか決断するのも自分自身であり自由。
人の意見をそのまま受け入れるのではなく、自分が持っている自分だけの思考のフィルターを通して自分のものにしていけばいい。だから他者が考え決めたものも全て自由なんだ。
責める必要など何もない。

常識の常識、考え方の考え方を問い直す。理由の理由。そのまた理由の目には見えないところを見ることが今の時代に必要なことだと強く感じる今日、この頃である。

大人の役割とは/多様性を受け入れるとは

親は自分とは違う子供から新たな思考を学び、子供は自分とは違う親から影響を受け成長していく。

未来ある子供達が自分の持っている可能性を十二分に開花させるためには、これから関わっていくたくさんの人達を認め合い、多様な人々を受け入れる隙間や柔軟さを与えてあげること。
それが人生の先輩である大人の役割。

自分とは違う相手を認めるということは自分を否定することではない。
相手にはあるものが自分にはないけれど、逆に自分にあるものが相手にはないこともある。
だからお互い補い合いながら、支え合いながら生きていく。

違うって悪いことじゃない。むしろ良いこと。
自分とは違う他者を認めるというのは同じように凸凹の自分を認めることだ。それが多様性を受け入れるということなのだろう。多様性の中には自分も含まれる。
もしかしたら彼もまた一本の綱しか与えてもらえなかったのかもしれない…

どんな理由があったのかは彼にしか分からない。いや、彼自身も気づいてないことがあるかもしれない。
自分と向き合い己を正しく知り、自分の綱だけでなく他者の綱を認められるように自分も人もまずは許してあげてほしい。
そこから新たな道が始まっていく、のではないだろうか。

他人事ではない。自分事として…

まずは自分を大事にできなければ人を大事にすることなどできない。

みんなが自分が幸せになることでいっぱいいっぱいになっている今の世の中。

小山田圭吾は今何を思うのだろう…


【追記】 責めるべきところは人じゃない


責めるべきところは人ではなく周りの環境やシステム、そして常識。
しかしそれらもまた責めるのではなく、さらにより良く進化していくために前向きに問い直しをしていくことが大切であり、それを一人一人が意識して自分の行動を変えていくことで可能性の塊である子供達が安心して自分らしくいられる未来を創っていくことができると信じている。

自分のできることを勇気を出して少しでも行動に移していく。自分を好きになれるような行動を自分らしく、楽しみながら積み重ねていくこと。そしてそんな大人の姿を子供達に見せること。
それが今この時代を生きる大人の役割ではないだろうか。

思いやりのない人間を創っているのは周りの思いやりのない人ではなく、思いやりのない対応や洗脳。人の行動であり"人"そのものじゃない。

愛のない人など誰もいないのに、愛がないと責め立て洗脳する。本人は自分には愛がないと思い込み自分自身を責め、自分を守るためにさらに人を責める。
だから彼を責めている人達も彼と同じ状況だ。彼も、責めている人もみんな寂しがっている。
でも、いじめた人、いじめられた人、人を攻撃する人…そんな風に自分を責めている人も誰もが人を想う愛は必ずある。
そのことにみんなが気づいてほしい。

"優しい愛があなたの内にも必ずある。だからもう大丈夫"

そう伝えたい。

それは洗脳ではなく真実だ。
自分を守るために人を責める…ただやり方が間違っているだけでそれは自分を愛している証拠。
自己愛は決して悪いことじゃない。人には必要不可欠なもの。自分が満たされていけば、少しずつ他者も愛せるようになっていくから。

そして、愛がなければ人を魅了するような音楽など作れるはずもないのだから。








この記事が参加している募集

#とは

57,786件