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#52 そこにヒントがある気がしてる

お、いらっしゃい。
毎週ありがとうな。
覚えていて店に来てくれる、それだけでうれしいもんさ。

オレは先週きついトレーニングを終えて、2週間後のレースに向けて少しずつ、練習負荷を下げて体を回復させてる最中。
でも、まだまだ疲れがとり切れてなくて、仕事してても眠くてさあ。
一昨日かな、行きつけのスナックにたどり着いいたときには、半眠りで(笑)
いつもはぼったくるお姉ちゃんもここんとこ、安くしてくれて助かってるよ(笑)

・・
あ、人がこないだ字書いてるの見て、気づいちゃったんだけど「ら」って、どっちから書く?
点からだよなー。
でも下のクリンっていうのを書いてから、最後に点打ってるヤツいてさ、なんか気持ちわりーって(笑)

「ら」って元の漢字は「良」だから点から先。

・・
ひらがな、カタカナっていう日本の文字は平安時代に確立したわけだけど、日本人が自分たちの文字をもてたっていうのは画期的だった。

和歌を仮名で書くから、漢字だったところを平仮名にすることで、ダブルミーニングの掛詞が使えるようになった。

■ 花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに 

「世」は「世代」という意味と「男女の仲」という2重の意味の掛詞。
「ふる」も、「ずっと降り続く雨」と「年をとっていく私」の掛詞。
「眺め」は「物思いにふけっている間に」と「長雨を見つめている間に」と掛詞。

こんな掛詞ができるのは、それまでの聞くだけの和歌から、書き言葉としての和歌に変わって、何度も読者が読み返せるからさ。
もちろん、「ふる」や「ながめ」のように、同音異義語を思いつきやすいという日本語の特性も、平仮名が生まれることで、日本人は意識して表現できるようになったんだ。

・・
中国大陸からの文書や詩文を読み、記録するのは漢字。
主に男性が漢字を使って仕事をしていた。
そして大陸から学ぶのをストップして、自分たちの文字を持ち始めた日本。
この平仮名の最初の担い手は女性だったっていうのがすごかった。

世界で初めて女性が物語を書いたのは紫式部だ。
それだけでもすごいことだ。
だが、さらにその前に、オレがファンの清少納言が『枕草子』を書いたっていうのは、ファンだけに、実に誇らしいな!(笑)

枕草子はなぜ書かれたのか?
それは、清少納言という、いち女房が、彼女が仕えた中宮、天皇の奥さんだった定子のすばらしさを伝えたかったからだ。

・・
当時14歳の一条天皇と結婚した定子が17歳。
その17歳の定子に、仕えたのが清少納言28歳。

このあたりの人間模様を知っていると、『枕草子』が身近に理解できる。


まず、中宮定子という女性。
藤原道隆の娘であり、当時男性の知識だった大陸の文化や詩文などにも通じていた。
それでいて明るく、過去の習慣、伝統にとらわれない才気煥発な才媛だった。

3歳年下の一条天皇は14歳。
年上の女性で、明るくて頭のいい定子のことを、本当に好きだっただろうな。

晩年の定子が、宮中の勢力争いから出家してしまうんだけど、一条天皇は、新しい奥さんの彰子がいながら、掟破りに、宮中に戻してしまったほどだ。


で、清少納言。
清少納言はペンネーム。
宮廷歌人の清原元輔の娘。
だから、彼女は彼女なりに、名門の娘であり、勉強家。

以前話したと思うけど、古代から女性は年頃になると人前には出なかった。
男が言い寄って和歌のやり取りなどをして交際するのが正式だった。
それでも、平安時代になっていくと、女性も宮仕え、宮中で働く一般採用の道もできた。
つまり、家から出て、顔を出し、宮中で天皇皇后のお世話をする「女房」という仕事に就くわけ。

清少納言は、初めて宮中で勤めて、仕えた相手が中宮定子だった。

だから、清少納言からすれば、定子は憧れのアイドルであり、心から尊敬する女性だった。年齢は関係ない。

・・
有名な場面だが、

■ 宮の御前に、内大臣の奉り給へりけるを、
 「これに何を書かまし。上の御前には、史記といふ書をなむ書かせ給へる。古今をや書 かまし」などのたまはせしを、
 「枕にこそははべらめ。」
 と申ししかば、
 「さは、得てよ。」

中宮定子のところに、内大臣が立派な紙(草子)をお持ちになった。
定子は「これに何を書こうかな。帝は、大陸の史記を書き写すでしょうから、私は古今和歌集を写そうかな」などと言うので、私はついつい「私めは、この紙の束を枕にしますかねえ」と軽口を言ったら、「そうね、あなた持っていきなさい」ともらってしまった。

分かるだろ、ここから「枕草子」って題になっていくんだ。

・・
普通は皇后は人に見られてはいけないのに、人目に付くような場所にも堂々と出ていく定子。
宮中の外の雪の様子を聞くのに、わざわざ清少納言に「香炉峰の雪いかならん」と、「あなた中国の話知ってるでしょ」ととんちをかけて語り掛ける定子。

清少納言は、明るく元気で知的な定子が大好きだった。

・・
その定子の父親の道隆が病没する。
すると定子を排除しようとする動きが始まる。
清少納言もその中で濡れ衣を着せられる。
心身ともに疲れ果てた清少納言は、宮仕えを半年休む。

そんな中で子どもを産み、宮中の中で耐えていた定子は、清少納言に手紙と「紙」を送った。

二度目の「紙」。
これで決心して、定子への最大限のリスペクトを表現したのが、『枕草子』だった。

■ 春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは、すこしあかりて、紫だちたる 雲のほそくたなびきたる。

「春はあけぼの」
この第一文はなぜ書かれたのか。
それは、定子が言った「古今和歌集でも写そうかしら」に対する答えである。

定子は、これまでの知識や伝統を知り、新しいものを取り入れようとした才媛だった。

古今和歌集の序文「仮名序」では、仮名文字の大家、紀貫之が、春の歌は「朝」と「花」で歌われてきたと書いている。

それはそう。
でも仮名序を読んでいると、たくさんのことを言っているのでごちゃごちゃしている。
それを、清少納言は、「花」をカットして、「春はあけぼの」と短く言い切ったのだった。「花」がいいのは当たり前、当然なら書かなくていい。

定子のもとで仕えてきた自分は、そのプライドをかけて、紀貫之を超えてみせたわけだ。

それだけじゃない。
「紫だちたる雲」は「紫雲」当時めでたいことが起きる兆しであり、天皇そのものを表す色だった。
つまり、ここまでで、当時の定子や同僚の女房たちは、定子の目指した宮中の姿を暗示的に書いていると気づいただろう。

引きこもっていた清少納言は、この『枕草子』を献上し、それとともに再び宮仕えを始めたんだ。

・・
定子と清少納言の関係。
年齢じゃないんだよな。
ともに互いを理解しあってる。
定子は、一条天皇の子どもを産み、自分の役割を終えて死ぬ。
清少納言は、その後、定子の素晴らしい姿を具体的に描いて、完成させた。

んまあ、オレに清少納言を語らせると朝までしゃべっちゃうからな!(笑)
だって、オレの好みの女だからなあ(爆笑)

・・
話ずれるけど、今、皇室について「男系」「女系」論争ってあるじゃん。
あれって、どっちも自分が正しいと思ってるからいつまでたっても結論出ないよな。

正しい結論があったとしても、そもそも、第三者が何がいいと言えるものなのかな。
オレは、陛下や宮様がお考えになって決めることだと思う。

なんかさ、ずっと歴史があるから大切だっていうと、オレが不謹慎ながら陛下の身になると、「オレはカブトガニか!」って思うけど(笑)

そんなことより、抜け落ちてることがあると思うぞ。

■ 日本人が、天皇陛下を大切だと考えているかどうか

定子は明るく元気で、知性的だった。
清少納言が、定子を心から尊敬して、『枕草子』が書かれた。
そういう、お互いに頑張り、大切な人をもって語り継ごうとする、そんな関係を持てたとき、人は欲にまみれず、一心に生きようとするんじゃないかな。

陛下は、今上天皇もしっかり勉強を積んで、まじめに取り組んでいる。
だからオレは、陛下がどうするかは陛下に考えてもらえばよくて、それより、オレたち国民こそ努力してないんじゃないかって思うな。

自分が損だと思うと、相手をとにかく責める。
将来の子どものことより、今の自分の欲に忠実だったりする。

そんな国民ばかりになっていたら、どんな天皇陛下がいらっしゃっても、国民が日本を壊してしまう、現に壊していってるんじゃないかって思うよ。

・・
中宮定子と清少納言の関係。
そこにヒントがある気がしてる。

AIの『STORY』って歌。
「私」と「キミ」の関係は、別に男と女だけでなくてもいいような気がする。
聴いてみようか。

■ 限られた時の中で
  どれだけのコトができるのだろう
  言葉にならないほどの想いを
  どれだけアナタに伝えられるだろう
  ずっと閉じ込めてた
  胸の痛みを消してくれた

  今私が笑えるのは
  一緒に泣いてくれたキミがいたから

  一人じゃないから
  キミが私を守るから
  強くなれるもうなにも怖くないよ

  一人じゃないから
  私がキミを守るから
  あなたの笑う顔が見たいと思うから

互いに思い合うことで強くなっていく。
それが日本の強さなんだろうと思う。

ん?
オレとお前?
それは勘弁してくれ!(笑)
まあ、オレとお前は糖質のないドライジンの関係か(笑)

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