「事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである」

「事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである。」
って女性お笑いコンビのニッチェが言ってるみたいで。
や、ニッチェじゃないっすね。
ニーチェって人だそうです。
ニーチェさんと言えば、
①人気YouTuberのニーチェ。
②韓国の新人アイドルグループのニーチェ。
③ドイツの哲学者ニーチェ
④ベトナム発祥でニューヨークでバカ売れしてるスイーツショップの店長さんのニーチェ。
⑤サッカーのアルゼンチン代表監督ニーチェ。

どのニーチェさんが言ったかなんて事実は存在しないのであって、
存在するのは解釈だけなのである。
意味不明すぎる書き出しになっちゃいましたが、
今朝読み終わった(聴き終わった)本に出てきたニーチェの言葉なのでした。

(ん。わかるわ。)
って、ぼんやりと共感したんですよね。
明け方に目が覚めてしまって、
もう寝れないなとサクッと諦めてiPhoneにイヤホンを差して、
ベッドに寝転びながら聴くってそれでしたから、
ぼんやり共感のぼんやりは正真正銘のぼんやりだったんです。

そんな、ぼんやりのくせにその言葉が頭から離れず、
そいつが脳みそのシワをストレッチさせるものだからシャキッと目は冴えて、
そうとなればで、せっかくの休日の朝は涼しくなった秋の入口を満喫しようと決めて、
短パン履いてのジョギング姿を完成させて
近くの馴染みの土手に向かいました。

そして、走ったきたんです。
白杖を短パンのポケットにしまって、
久々に開いたジョギング用のアプリで、
久々の久々で「スタート」のボタンをタップして、
7キロ、走りました。

視覚障害者ですから1人で走るのは危険なんですけど、
永遠に続いてるかのような江戸川の土手も、
ありがたいことにワタシの自宅近くの限られた一部は、
車道で言えば2車線はある幅広なところで、
ワタシが避けられなくても周りが避けてくれる余裕があって段差もない。
何しろは20年以上に渡って、
ジョギングしてきた場所で、
目が悪くなってからの散歩はここだけと決めていて
付き合いの長さだけでなく関係も人知れずにグッと深い
ズブズブの仲と公言した1,150mの距離。
ここを3往復とちょこっと。
アプリのタイムラップをイヤホンで確認しながら走りました。

始めの1キロは850秒。
(おっそっ)
なんて思いながら、
(ま、危険だからゆっくり走れ)
と自分に言い聞かせての
2キロ地点でのラップは836秒。
そこから、
3キロ85
4キロ748
5キロ725
6キロ659
6分台なったわ)
ゼーゼーと上気させて人に二度見されるくらいの大汗ながらに気合が入って
7キロは636秒。

この間、ところどころでニーチェさんの言ってること考えてたんです。
耳からラップタイムという事実が入ってくるんですよね。
コンピューターの音声がワタシに事実を教えてくれるようであり突きつけてくるようであり。
使い続けてきたアプリのそんな機能も
よくよく考えてみれば気持ち悪いことだとも思ったりもして。
アプリを操作するだけで、
ワタシは人工衛星にキャッチされて、
どこからどこまでをどれだけの時間をかけて移動したのかを教えるという事実。
誰かに監視されてるかのような事実。
(キモっ)て解釈とか
(こわッ)て解釈もあるし
(助かるぅ)って解釈も当然ある。
これによって人は、
(いらんな)とか、
(やめよ)とか、
(もっとイイのないかな)とかあるよなと。

なんて走りながら考えてたら、
(てか、これも結局は事実ありきの解釈じゃん)
って思うわけです。
(事実なんかよりも解釈こそが人を動かしていることは共感するけど事実は存在しないか?)
ってシャキシャキしてくる。

もし、
古くからの友人であるニーチェと居酒屋で酒でも飲んでたら、
「や、言ってることはさ、なんかわかるっちゃわかるんだけど、
事実は存在しないって言い過ぎじゃねぇ?」
とか言いそう。
そしたらニーチェなんて答えるのかな?
なんて考える。
軽く酔っ払ってるニーチェは、
「お前のタイムが何分何秒なんて事実は存在しないも同然なんだよ。」
とか言うかなと。
したら、こう言ってやろうと。
「おーおー。わかるよ。オレがフルマラソン走ってた時に比べたら歩いてんのか?ってくらいに遅いんだよ。
悲しいくらいに遅い。
そう解釈もしちゃうけど、こうしてまた走れてるとした喜びみたいなのに着目した解釈もある。
いま、フルマラソンしてる人には遅いと解釈されるかもしれないけど、
走らない人には走ってるだけでなんかすごいって解釈もあれば、
走るって意味がわからんって解釈もある。
とかって、自分の解釈も他者の解釈も解釈の持ってきかたによっていくらでも存在する。
てか、そういうことじゃないの?」
とか言ってやりたい。
で、さらに、
「でもね、そこには事実は存在してるじゃんよ。
事実ありきの解釈なんじゃないの?
お前の言い方ってずいぶん格好イイけどちょっと乱暴でもない?」
って言ってやりたい。

とかって思いながら走ってる。
こんな思考も人工衛星にキャッチされてたら恥ずかしい。
そのくせ、こんなことをブログに書くという自分がいる事実は、
気持ち悪いとも解釈する。

「てかもー、なんなんだよ!ニーチェー!!」
って言いたい。
ニーチェには酔っ払いのワタシに目を合わせずに
「すいませーん。ホッピーセット!白で!」
って言って欲しい。

結局、走って脳はシャキシャキしながら結局はぼんやりで。
でも、事実なんかよりも、
解釈ってやつの存在感ってやつで、
人は行動してるよね。
事実なんてないも同然だ。
解釈によって行動は変わる。
ってことをニーチェが言ってるかは、
飲んだことないんで知らないんですけど、
考えさせてもらった朝でした。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?