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夏休みに考える「当たり前」のトリセツ

「当たり前だろ!」って言われると、
(てか、全然当たり前なんかじゃねぇよ)
って思うくせに、自分も、
「当たり前だろ!」って言っちゃう習性がどっかにあって、
言われると自分は言わないぞって思ったり、
そのくせ言っちゃうから、言っちゃった後に反省したりする、
「当たり前」って言葉。

ワタシなりにはそんな付き合い方をしてきてます。

ワタシで言うと、
目の具合の問題で、いわゆる自分の中で、
当たり前だったことが、当たり前じゃなくなってることがあるんですよね。

新聞の文字を読むのは当たり前じゃなくなってたり、
道ですれ違う人が誰なのか?
って判別が当たり前じゃなくなってて、
過去と今の違いが「自分」の中で起きてることを、
以前を指して、
「当たり前」って言葉を使うのは
アリ。な感じはするんです。
自分と自分を時間軸で比較した時の
「当たり前」

それとちょっと違うのは
他人と自分を比べた時に
「当たり前」って言葉を使っちゃうのは人間関係におけるリスクだな。
って思うんですよね。

お刺身にはわさび醤油。
で、日本酒ー!

これ、当たり前で良さそうですけど、

革靴を裸足で履いて、気に入っちゃえば見知らぬ女子にも微笑んじゃう
ジローラモさんとかイタリアの人からしたら、
カルパッチョで白ワインっしょ!
とかって胸元ガッツリ開けて言われそうだし、
女子に微笑みかけるのは当たり前。

ノーアウト1塁2塁だったらバント。
とか、
甲子園ったら砂を持って帰る。
とか、
高校球児はボウズ頭。
とか、

当たり前っぽいことはもう当たり前じゃなくて、
なんなら、
当たり前をスカしたりするのが
奇襲だったり、
粋だったり、
オモロかったりするのに、

「当たり前」ってのを声高に言い散らかしちゃうのは、
バレバレで見透かされたり
野暮だったり、
オモロくない。
ってのが、リスクって思ったりすんのかな?
なんて考えると、

当たり前なんてことあんのかな?
とか、
当たり前なんてないんじゃないのかな?
とか、
だったら、当たり前みたいな言葉もこんなにも使われる言葉として生き残るって、
生命力ツエーなって感心させられます。

当たり前って
当前ってことで【とうぜん】で、
当然【とうぜん】ってのから成り立ってるらしく、
出世魚みたいにして、
「当たり前」になった。

ってことが本当ならなんとなく、
ご先祖の「当然」って文字をよく見れば
自然に当たる。
ってこと?
で良いのかな?
ダメ?

や、まー、良くないすか?、
自然に当たるのが当たり前って意味で、
良くないっすかね?
って思う。

自然にってのと逆で、
意図的に当てようとするのは、
当たり前なんかじゃない。
相手を負かそうとしたり、
相手にイライラして使う、
「当たり前だろ!」は自然に当たってなくて、
意図的に当てて、自分の理屈が正しいと表現したい。
この時の「当たり前」は結局なにも生まない上に時間がかかって
相手の「当たり前」との争いに発展しちゃうだけ。
自然に当たってないから。
当然じゃないし、当前でもないから、
「当たり前」じゃない。


ワタシが口には出さずとも
脳みその中に「当たり前」って言葉が登場する時って、
アナウンサー的に「当たり前ですね。」
ってトーンじゃなくて、
プロレスラー的に「当たり前だろ!ウラー!」ってトーンで出てきます。

相手を
挑発する。とか、
威嚇する。とか、
そんな時に登場してきて、
イライラがマックスなっちゃうと、
「当たり前だろ!」って言っちゃう。
てか、
「当ったり前だろ!!」って、
ちゅちゃい「っ」まで活用しちゃったりする。

そしたら、

「当たる」んですよね。
相手と。
ぶつかっちゃう。
それぞれの「普通」とか「常識」とか「当然」とか「本来」とか。
いろんな武将みたいなのも参戦してきて、
総当たり。


だから、「当たる」「前」なんでしょうね。
「当たり前」が登場してる時って。
脳みその「当たり前」をそのまま口にすると、
当たっちゃよ。
ってサイン。

だから、使い方は気をつけないといけない。


じゃー、
自然に当たる。
ってのはなんだ?

「当たり前」の前は「当前」で、
その前は「当然」だったとして、
自然に当たるってのはなんなんだろう?
って考えると、

人間関係での「当たり前」は誰かと争う前ってサイン。
だとしたら、
自然と向き合った時の「当たる」「前」
なのか?
って、ことだとすれば

ここんところのとんでもない
生命の危険をも脅かす猛暑は、
地球って星の表面で起きてる温度の上昇からなんだろうとして、
大雨とか、昨日のデリラ豪雨とかも
それが少なからず影響してんだなんて話も聞いたりしてれば、

ま、
「当たり前」
なのかなと。

もっと言えば、
ワタシが有する人体という不思議な自然界に起きてる、
目が見えるとか見えないとか、
それも、
「当たり前」
なのかなと。


ちょっと宮崎駿さんの映画の見過ぎかも知れないのですけど(^^)

「当たり前」だと信じて疑わないようなものも「当たり前」じゃないよ。、
人はそれぞれなんだよ。
人は違うんだよ。
って教えてくれてる気がするし、

「当たり前」だなんて思いたくもないことも「当たり前」なんだよ。
人がそれを起こしている。
人は同じなんだ。
だから、きっとわかり合えるよ。
って教えてもくれてる気もします。


今日は実家に行ってきます。

送り盆って言うんですかね?
電話で母は、
「今、家に帰って来てて、今日またお墓に帰る日なんだよ。」
って言ってました。
いつもお墓の中なんだかにいる人たちが何人なのかわからないんですけど、
あの狭い部屋にウジャウジャ帰ってこられてる。
ワタシにとっては全く
「当たり前」じゃなかった風習にちょいと委ねてみて、
見えてる人と見えない人と明るいうちからみんなで酒飲んできます。

見えない人もマスクとかしてれば笑えるんですけどね(^^)


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