見出し画像

1000文字小説 オッサンの傷あと

オッサンの左腕には大きな傷あとがあった。いつもは物静かでひとり酒場のカウンター席を温めてはチビチビ決まって同じ焼酎を呑んだ。

週末になると深酒して皺だらけの顔を赤らめ人が変わったように饒舌になる。偶然居合わせた隣客に絡んでは毎回同じ話をうんざりするほど繰り返すのだった。呑むと古傷がうずくのか左腕の傷あとを真っ赤になるまで摩るのがオッサンの癖だった。
オッサンの話はいつも唐突に始まった。話は決まってヒソヒソ小声からだった。

ある日のことオッサンが近所の川で釣りに興じていると凄まじい引きの大物と遭遇した。今までに経験したことがない強大な引きだったという。それでも獲物は逃さずと必死に引き上げようとするも、川へ一歩二歩と引きずられてゆく。しばらく激しい攻防が続いたとオッサンは大げさな身振り手振りで語った。持久戦に持ち込んだが一向弱まる気配がない。シャチでも掛かったのかとオッサンは訝った。
「ほんで、何が出てきたと思う?」
信じてもらえないがと前置きし、水面から体調3mはあろう巨大ワニが顔を出したという。ナイルワニに違いないとオッサンは何故か断言した。ワニに驚愕した隙に付け込まれ、遂には川中まで引きずり込まれてしまった。無我夢中でワニとの死闘を繰り広げたのだという。
ここからの話がとにかく長い。ワニの鼻柱にカウンターを入れてやっただの背後から羽交い絞めにしてやっただのとオッサンの武勇伝が延々と繰り返された。そうして話の最後には必ずこう言った。

「その代償がな、この傷あとなんや」
腕を巻くって左腕の大きな傷あとを常連客らに誇らしげに見せるのだった。ワニの爪にやられて三〇針も縫う大怪我だったと傷あとを撫でつけた。

それからほどなく、あの酒場に立ち寄った。いつものようにオッサンはカウンターで焼酎を飲んでいた。顔面を紅潮させ、居並んだ常連客に身振り手振りを交え例の武勇伝を熱弁している真っ最中だった。
「裏の川原で散歩しとったら、突然野犬に襲われてな。わしの命狙って来たみたいやねんけど、わしも男や。なめられてたまるかいな」

よろけながらファイティングポーズをとり

「野犬の群れに向かって行ったんや。どつき回したるつもりでや。そしたらアホが一匹、牙むき出して噛みついて来よったんや」

と、親父さんは焼酎を一気に流し込み、
「その代償がな、この傷あとなんや」
 誇らしげに左腕の大きな傷あとを撫でつけては、あどけなく笑った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?