見出し画像

「この院生はノーベル賞を授かる」とアインシュタインが評した論文(1924年)

世間様には「シュレディンガーの猫」で知られる、ペドのあの物理学者エルヴィン・シュレディンガーが、中堅学者から一気にスーパースターに躍り出た論文(1926年1月)について語ってみようと思って、それを読み込んでいくにつれて、同論文のなかではどういうわけか言及されていない元ネタ論文のほうに私の興味が移っていきました。ド・ブロイというフランス人学者の博論です。

「ジャポネの野口英世の真似っ」なんちゃって


「ド」がついていることから察しがつくでしょうが貴族さまです。おじいちゃまはフランスの首相経験者。お兄様でブロイ家当主のモーリスさまは軍人で実験物理学者。その弟であるこのルイ・ド・ブロイくんは、第一次大戦のときは電波技師として従軍し、エッフェル塔を根城にしていたそうです。戦後はお兄様といっしょに、自宅の実験室で研究を続け、ソルボンヌ大学に進み、大学院でいくつか面白い研究を行っています。


この頃の物理学界の動向について手短に紹介します。彼がちょうど院生の頃、アインシュタインがノーベル物理学賞を授けられてます。1922年。前年もらえるはずが一年遅れての授与発表でした。その裏事情についてはここにちゃちゃっと整理しておいたので、興味のある方は興味を寄せてください。


彼のノーベル物理学賞授与と時期を同じくして、アメリカでアーサー・コンプトンという方が、ある画期的実験を行い、アルベルトくんの説を十分裏付ける観測データを揃えてみせました。コンプトンはそれをもとに、後に「コンプトン効果」と呼ばれることになる合理的解釈を打ち出し、それがアルくんにノーベル賞をもたらした「光電効果」研究をさらに裏付けるばかりか、アルのより大胆な説「光量子」の正当性証明の強力な足掛かりとなったのでした。(彼が光量子説を提唱した最初の論文読解はこちら)


ルイ・ド・ブロイくん(以下「ルイくん」呼ばわりします怒っちゃ嫌です)はアルくんの大ファンでした。彼の研究に刺激されて、光が粒子的すなわち「光子」であるならば、質量がゼロではなくわずかに存在すると仮定してみたら、何か面白い発見があるんちゃうやろかと想像を広げました。

彼の脳裏には、アルくんのくだんの「光量子」のほかに、特殊相対性理論(E = mc² がでてくるあれ)や、それを四次元空間に拡張させて論じたミンコフスキー時空、それから1922年に行われて翌年に論文発表されたコンプトンの実験が「光子はエネルギー hν、運動量は hν/c」と前提することでアルの光量子説を裏付けてみせたことがあったと想像します。

余談ですがアメリカのルイスが、アルとは独自に光子説を研究していて3年遅れで発表していますが、アルくんと違って光子に質量ありと前提しているぶん保守的なものに留まりました。ちなみに「光子」という呼び名を発明したのもルイスくんです。英語で photon ですフォトン。コンプトン実験はルイスの研究からも強く刺激されて達成されました。すなわちアル光量子説がうまくルイス光子説を消化したものとなったのでした。


アインシュタインの相対論と光量子説、後者の正当性を裏付けることとなったコンプトンの実験成果、それからもうひとつ、ルイ・ド・ブロイ院生くんの脳みそのなかを駆け巡っていた先行研究があります。この方のです。

レオン・ブリルアンというフランス人学者です。恥ずかしながら私はこの方の名前すら今まで存じ上げませんでした。しかしウィキペディアにある履歴を拝見するとすっげえ優秀さんさんなのですね。反省はんせい。

このレオンさまが1919年に発表あそばした…まてよ前年12月に第一次大戦がようやく終わっていますね。この方はフランス軍より除隊後パリ大学に戻って研究を再開。その最初の成果が、こういうのでした。

「伝播によって不連続的に受け継がれていく力学作用;原子の量子論的力学の試み」(Actions mécaniques à hérédité discontinue par propagation ; essai de théorie dynamique de l’atome à quanta


ページ数を数えてみたら、2ページちょっとの短いものでした。ニールス・ボーアが1913年に提唱した、例のあれを、このレオンさまが第一次大戦による長い長ーい兵役後(1919年!)にある面白いアイディアで接近してみたものです。

例のあれとは、これですこれ。高校物理のラストぎりぎりに習う(かもしれない)これです。

光は波であるとともに、どういうわけかとびとびに生ずるのはどういうことであるかという謎に、ボーアが上のような原子模型+ある非常にシンプルな公式を使って、実験値とよくなじむ計算値が出せるようなものを、ほとんど焼け排泄物的にひねり出したものです。日本語でやけくそともいいます。しかし計算値が実験値とよく合うことにくわえ、絵にすると一目でわかる簡便さもあって、物理学者たちのあいだで短期間で受け入れられていました。

このモデルでも光の波と粒子の両面性をきれいには説明しきれなかったのですが、レオン・ブリルアンさまは、海の波のイメージでなんとか説明できるのではないかと考えたようです。津波って速いと時速およそ900キロで海を高速移動しますが、移動するのはエネルギーであって波自体は移動しないのです。つまり津波には二種類の波があるというわけです。このアナロジーで、ボーア模型のアイディアから何かかっこいい数式が導出できるんやないやろかと考えたのが、この論文でした。

むろん現代の目で読むと素朴すぎます。レオンさまのこの論(1919年)によると、エーテルという媒体を、秒速数十キロで第二の波(津波におけるエネルギー波のイメージ)が伝わっていくと考えれば、この第二の波によって光の波動性と粒子性は両立されると読めます。


エーテル…また古式ゆかしき仮説を繰り出してきたものです。いっぽうルイ・ド・ブロイはアインシュタインの研究崇拝者でした。その彼が、どうやってレオンさまによるエーテル波のアイディアを、エーテルを当てにしない相対論に沿うように大手術して構築に取り掛かったのか…


次回がもしあるようなら、つづく!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?