アインシュタイン(満26歳)のノーベル賞論文は穴だらけ - Part One
1905年、科学史で「奇跡の年」と呼ばれるこの年、スイスの特許局3級事務員(つまり特許申請の審査係)だったアルベルトくんは、3月14日生まれの自分を祝福するかのように、その3日後にこんな論文をある科学誌に投稿して、翌3月18日には受理されました。
タイトルは(日本語にすると)「光の発生と変換に関する、発見的着想からの一見解」。
“Über einen die Erzeugung und Verwandlung des Lichtes betreffenden heuristischen Gesichtspunkt”
この論文こそが、アルくんに16年後ノーベル物理学賞をもたらした、歴史的論文である…そんな風に彼の伝記や科学史の書物では紹介されていて、私もずーっとそういう理解をしていて、ことあるごとに「相対論で授与されたんやないんで、よー間違われるけどやー」などとドヤ顔で述べてきました。
しかし昨日、邦訳されたものを頭からじっくり再読していくにつれて、私の頭の上に巨大なクエスチョンマークがいくつも点滅しだしたので、ドイツ語原文や、英訳版にもあたってみて、このクエスチョンマークの正体に迫ってみることにしました。
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この論文がどういう風に始まるかは、前にご紹介したとおりです。
冒頭段落についてはすでに日本語訳で紹介済なので、以下その続きをお見せします。DeepL さん今回もよろしくね。「うんいいよ」
ああこれちなみに二番目の段落です。一番目については上の紹介記事にあります。せっかくなので以下、一番目と二番目のものを、通しで再掲載するので、目を通してみて、皆様がどうお感じになるか、どうかお聞かせください。
物理学者が気体やその他の熟考可能な物体について形成してきた理論的な考え方と、いわゆる何もない空間における電磁気的プロセスに関するマクスウェルの理論との間には、形式的に深い違いがある。物体の状態は、非常に大きいが有限な数の原子や電子の位置と速度によって完全に決定されると考えるのに対して、空間の電磁気的状態を決定するために連続的な空間関数を使用するため、有限な数の量では空間の電磁気的状態を完全に決定するのに十分であるとは考えられない。マクスウェルの理論によれば、すべての純粋な電磁現象のエネルギーは、したがって光のエネルギーも、連続的な空間関数として理解されるべきであり、一方、現在の物理学者の見解によれば、重さのある物体のエネルギーは、原子と電子にわたって拡張された総和として表されるべきである。一方、点状の光源から放射される光線のエネルギーは、マクスウェルの理論によれば(あるいはより一般的には、あらゆる起伏理論によれば)、絶えず増大する体積に連続的に分布する。
連続的空間関数を用いた光の波動理論は、純粋に光学的な現象を表現するのに適していることが証明されており、おそらく他の理論に取って代わられることはないだろう。回折、反射、屈折、分散などの理論が実験によって完全に確認されているにもかかわらず、連続的空間関数で動作する光の理論が、光の発生や光の変換の現象に適用されたときに、経験との矛盾を引き起こすことは十分に考えられる。
♪ じゃーん、じゃーん、じゃじゃじゃじゃーんじゃん ♪
私が映画会社の偉い人なら「こんなわけのわからない前口上、客が引くからもっと短くてわかりやすいのにせい!」と文句を付けると思います。
しかしアルくんはめげずに、さらにこう熱く語りかけてきます。
黒体放射、光ルミネッセンス、紫外線による陰極線の発生など、光の発生と変容に関する他の現象群に関する観察結果は、光のエネルギーが空間に不連続に分布しているという仮定の下でよりよく理解できるように思われる。ここで考える仮定によれば、ある点から発せられた光線が伝播するとき、そのエネルギーはより大きな空間に連続的に分布しているのではなく、空間の点に局在する有限のエネルギー量子から構成されており、それらは分割されることなく移動し、全体としてのみ吸収・生成されることができる。
これから述べる視点が、研究者の方々の研究に役立つことを願いつつ、私がこの道を歩むに至った経緯と事実をお伝えしたい。
ご本人が当時どういうお気持ちでこの熱い前口上を論文冒頭で一ページ半も使って述べたのかはわかりませんが、当時これを読んで「むむ、これは何か壮大なドラマの始まりを予感させるぞ…」などと思ったかたは、おそらくレーニン…ではなくて零人だったと思われます。
この前口上には言及がないのですが、アルくんがこの前口上において脳裏に思い浮かべていたであろうエネミー(仮想敵)は、たぶんこの方です。
うーん美青年。はたちの頃です。その後こんな風に変容なさるわけですが。
マックス・プランク教授です。アルくんより21歳上ですので、ほぼ親子の年齢差ですね。彼はすでに1900年「プランクの放射公式」と呼ばれる数式を打ち立てて、ドイツ科学界を震撼させていました。
この公式です。これまで何度かご紹介していますね。この公式を使うと…
以下の観測データを、正確にグラフに描けてしまう優れものです。
熱の高さ、というか熱エネルギーの大小によって、光の強さがどんな風に変化するか、いろいろな実験や観測によって、上のグラフになっていたのですが、それをプランク先生は「私の作った公式を使えば、このグラフと一致するカーヴが描けるぞよ」と高らかに ―― というのは話を盛っています、ご本人はむしろ慎み深い方でした ―― 宣言したのです。
1900年のことでした。
うーんいい曲です。お気に入りです。ここでお題に戻ります。この1900年より4年後、つまり1904年のこと、アルくんはプランク教授のこの成果について、毛色の変わった論評を論文で行っていました。
その内容については、以下で触れたとおりです。
実はさらに一年前に、こんな論文をアルは上梓していました。
順に説明するとですね、アルくんは「エントロピー」について、ずーっと考えていました。
それまで「エントロピー」については気体の研究を土台に論じられてきたのですが、彼は1903年論文のなかで「気体に限定しないで、液体でも固体でも、ある条件が揃ってさえすればエントロピーの法則があてはまる」と算出したのです。
その発見を足掛かりに、1904年には、くだんの「プランクの公式」に近いものを独りで導出していました。
「プランクの公式」に近いもの… そうです。もともと「プランクの公式」には元ネタがありました。ここでは「ウィーンの公式」と呼んでおきます。ウィーン教授による公式なのでウィーンの公式です。
この公式は当時同じテーマで研究していたほかの学者さんから「ウィーンの公式は、なるほど観測データにかなりよく一致しているが、導出の仕方があてずっぽう的でどうも気に入らない、非科学的である」と批判されていました。
詳細は長くなるので省きますが、そう批判したくなるのもわからなくない、かなり強引な仮定をウィーン教授は置いて、そしてこの公式をねじ繰り出していました。
プランク先生はむろんこのウィーン公式のことは知っていて、同時にこの公式がある温度から先になると観測データのグラフから逸脱していくことにも気づいていました。
うむむどうしよう…
実はこの頃、化学のほうで「エネルギー」と「エントロピー」のペアを使えば、それまでうまく説明できなかった化学現象がうまく説明できることがはっきりしていました。すでに19世紀後半に、一部の化学者がそのことに気づいていて論文も出ていたのですが、あいにく微積の数式がいっぱいで、大半の化学者は目を回してしまいました。「わしらは物理学者やあらへんし、こんな微積の式を見せられても、ついていけへんねん…」と。
プランク先生は物理学者でしたので「エネルギー」と「エントロピー」のペアを、微積を駆使して使い倒す能力をお持ちでした。ウィーンの公式が、論拠不明でありながら観測データには(部分的に逸脱するけれど)よく沿う謎を、この「エネルギー」と「エントロピー」のペアで謎解きできるんちゃうかと考えて、難解な微積の計算をこれでもかとやり倒して、とうとうウィーンの公式よりももっともらしい公式を作り上げました。それが後に「プランクの公式」と敬称されることになる式でした。例のブツですブツ。
ここでアルベルトくんの話に戻ります。プランク教授より21歳若い、そして当時無名のアマチュアであった彼は彼で「エントロピー」について独り思索を深めていました。
かつて物理学者たちは「エントロピー」について、気体の研究を土台に論じてきました。しかしながら化学者たちがそこにおそるおそる参入してきて、気体分子という直観的にイメージできるものに頼らないで、数式のまま「エントロピー」について考える潮流ができつつありました。
「水素と酸素を混ぜ混ぜして、点火すると水になるのは、明白な事実やないか。水になるときどのくらいの熱を発するのか算出できればわしらそれで十分やし、エントロピーはその計算に使えるのやから、その正体が何なんやなんてことはわしら化学者には関わりのないことでござんす…」と公言するような化学者が当時本当にいたのかどうか存じませんが、代弁するならばそんなところだったと想像します。
そういう科学研究哲学が、当時の物理学者のあいだでも浸透していったように思います。このあたりの割り切りぶりについてはエルンスト・マッハによる当時の有力な科学哲学と関わってきますが話すと長くなるので今は省きます。
ああそういえば当時のアルくんはマッハ哲学の崇拝者でした。「エントロピー」の実体論には嵌らず、彼得意の思考実験を使って、気体液体固体を問わずエントロピーの法則を応用できると、気づいたのです。そして翌1904年には、くだんの「ウィーンの公式」に近いものを独りで導出していました。
このことが、彼に自信を与えたようです。「プランクの公式」は「ウィーンの公式」を否定的に呑み込んで作り出されたものやけど、わしの計算によると「ウィーンの公式」はそれほどオカルトなものやあらへんみたいや。うまく立ち回れば、プランク先生とは違う山路を上って「プランクの公式」まで行けてまうんやなかろうか…
して「違う山路」とはなんでありますかアルくん?
「うーん今のところわしも上手にことばにでけへんでおるんやけど『ウィーンの公式』って気体分子運動の式に似てるんや。前からそれ気づいてたんやけど。光って電磁波、つまり『波』やとどの偉い先生も断定しちょらっはるやん、せやけどもし、光が気体分子運動の式みたいなもので言い表せるとしたら、それってつまり『粒子』ってことやないやろか?」
…わかりません。
「そうやろわしも今のところ自分で何いうとるんかわからへん。それでな、論文では "Energiequanten"(エネルギー量子)と記しておいた」
実は論文の後のほうになると、アルくん"Energiequanten"(エネルギー量子)ではなく"Lichtquant"(光量子)を使い出します。
私の想像ですが、彼はこの論文を書き進めながら、自分の考えというかあるイメージに輪郭が生じていくのを感じていたのだと思います。書き綴りながら思索していくの。そしてシンプルにして大胆不敵なアイディアが、手のひらに舞い降りてくるという。
舞い降りるほうにすれば神の恩寵でしょうけど、そういう書きものを読まされるほうはたまりません。横柄な上司気分で「いいから結論を先に言いたまへ」と窘めたくもなります。
そもそも以上の前口上(ちなみに論文の2ページ目三分の二まで続く)では、念押ししますがプランク教授についても、プランク公式についても、いっさい言及が見られない。4ページ目の前半で、ようやく出てきます「Hr. Planck」(プランク教授)と。
論文全頁のなかで、彼についての言及はわずか四か所(それも実質3回)です。
むしろウィーンやボルツマンについての言及が目立ちます。
このことから感じられるのは、プランク公式は肯定する(というか肯定するしかない)けれどプランクによるこの公式の導出法については、あの手この手でけちをつけてやるわという、アルくんの不遜といえば不遜な態度です。
これは自信のなさでもあります。自分のあるアイディアを、一大理論の大伽藍にまで育て上げて、そして相手の理論をそのなかに呑み込んでしまわない限り、勝利宣言できないのです。無名のアマチュア物理学者が、幼少より才能を発揮しまくったという大御所に、横綱相撲を世に見せつけねば、このまま無名の人生で終わってしまう…
それに、論文の脚注を読んでいくと、アルくんもうひとり仮想敵を脳裏に描いていますね。誰だと思います?
この方です。
ジェームズ・クラーク・マクスウェル教授!
奇しくも彼の没年(1879年)に、アルくんは生まれています。ジェームズくんは土星の輪が無数の破片でできていることを解析力学を駆使して証明するは、ファラデーの電気実験データを数式に落とし込んですっきり説明して学歴のない彼を感涙させるは、気体分子運動論とエネルギー論を融合させて気圧の算出法まで開発するは、アメリカの孤高の物理学者ギブズの論文をおそらく世界でただ一人理解して励ましのプレゼントを贈るはの、ウルトラ才人でした。
しかし…
プランクもマクスウェルも、近似的な方程式を導出しているにすぎない!
若オオカミ・アルベルトくんによる、背伸び混じりの雄叫びが、今回取り上げている論文の行間から聞こえてくるようです。
ただですねえ、後の機会に検証していきますが、穴が多すぎますねこの論文の構成。もし時空を超えて当時のアルくんに便りを送れるのなら、こう書き送ってあげたくなります。
"Hallo, Albert. Ich bin eine japanische Fan von Ihnen. Ich habe verstanden, was Sie in dem Paper ausdrücken wollten. Bitte erwägen Sie, den Text und die Struktur gemäß meinen Vorschlägen zu überarbeiten, und der Nobelpreis wird Ihnen gehören!"