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彼の1921年度ノーベル賞は翌年に決まった

アルベルト・アインシュタインの、数ある研究のなかでダントツに時代を先駆けて、そして理解されるのに時間がかかったものといえば「光量子説」でした。

その最初の論文(1905年3月)を、少しずつ解読・解説しました。畏れながら申し上げますいろいろ学ぶところ非常に大でした!

このシリーズで私はあるつまらないミスをしていたようです。それも二つです。

第一に、光量子説でノーベル物理学賞を授けられたのを「1921年」と繰り返し記述してきました。これ正しくは翌年です。1922年。この年にコンプトンによる実験で、アルの説でないと説明できない観測データが揃ったことで、急遽ノーベル賞委員会は彼への物理学賞授与を決めたのですが、それは「1921年度」の物理学賞として、でした。

どういうことでしょうね? 調べてみると、昔のノーベル賞物理学委員会は「本年は授与に値する研究成果なし」と判断するとメダルやらないことがありました。1921年度も、候補者のなかにメダル授与に値するものなしと判断されていますね。

しかし翌1922年、日本時間で11月10日、授与が発表されたと記録にはあります。

当時の朝日新聞より

少々変なのです。コンプトンがこの実験成果を論文にして公表したのは翌1923年3月でした。いちおう前年12月に講演で語っているのは確認できますが、アルへの授与発表が11月ですので、委員会はもっと早くにコンプトンの実験結果と分析を知っていないと、因果律が壊れてしまいます。

そのあたりのことを説明してくれるものを探しました。こんなのがありました。ただ「受賞講演を1922年7月に行っている」(ありえない!)と年表にあったりと、曖昧さが残ります。こちらはもう少し踏み込んで説明していますが、出典がわからない。

この説明を信じるならば、1921年に物理学賞の授与が行われなかったのは、アインシュタインの二大研究「相対論」と「光電効果」(「光量子説」ではなくて)が授与に値する研究かどうか、見解が割れたからです。ありそうな話だなーって思いましたが、裏を取りたいな。後で探ってみよう。

あ、こんなのがありました。英語です。日本語での解説も他の方によってあなされているのでそれも後で読もう。

「相対論?わしゃ好かん」
(アレニウス)

それから一連のシリーズで私がしでかした第二のミスは、アルのメダル授与を「光量子説」の功績にだとしたことです。厳密には「光電効果」ですね。当時のノーベル物理学委員会は「理論物理学への貢献、特に光電効果の法則の発見に対して」(“for his services to Theoretical Physics, and especially for his discovery of the law of the photoelectric effect”)と授賞理由を述べています。相対論の名を避けたのが微笑ましいです。もめたのでしょうね委員会内部で。

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