天才ディラック(24歳)の1926年論文を解読するのだ・その11
ディラック論文(1926年8月)の最後の節の解読にかかる予定でしたが、思うところあって今回はレンマ(補題)的な語りをしようと思い、予定を変更します。
この論文の第四節で、彼は唐突に気体分子について論じだします。それも電子のアナロジーで、です。電子ということはシュレディンガー方程式が絡んできます。
もっとも気体分子についてこの方程式でいきなり語ると「飛躍がある」とツッコミされると恐れたのか、論文内ではこの方程式をこれみよがしに提示はしないでいます。
しないのですが波動関数は出てきます。シュ方程式の解は波動関数です。つまり間接的にシュ方程式について触れてはいるのです。
ただどうして気体分子が波動関数で表されるのか? そこが曖昧です。
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彼がアインシュタインの1924年12月論文を強く意識していたのは確実です。なにしろそう言明しているから。インドの無名の物理学者ボースからある日論文を送られて、アルくんが目を通して大ショックを受けて、その論文を自らドイツ語訳して学会誌に投稿し「このインドからの論文を受けて、私も後日もう一本寄稿するつもりである」と末尾に訳注として宣言し、そして同年12月に受理された論文のことです。
ボース論文と、実はもうひとつの論文に刺激を受けた内容です。
ド・ブロイの例の研究です。電子から何か波が出とるんやないかという、あの研究のことです。もともとアインシュタインの光量子説に刺激されて取り掛かった研究だったこともあって、当のアルくんが読めば「おおこいつわしと同じ頭で回っとるな」な内容でした。
ボースの論文については前に解説したとおりです。それに目を通したアルくん、持ち前のウルトラスーパー洞察力でもってして「このアイディア、気体分子に応用できるんちゃうやろか?」と思いついたのです。
光を気体分子のアナロジーで捉えるという大胆な技でノーベル賞をもぎ取った彼ですので、ボースによる光子の新説に感動するや「よし気体分子に応用しちゃろ」と考えたのも、ごく自然な成り行きだったのでした。
それが1924年12月論文でした。
ざっと目を通して、最初驚きました私。波動関数について言及がないのです。
しかしよく考えたら、電子の軌道を説明するのに波動関数を使うアイディアは翌翌年(1926年)にシュレディンガーが最初に提唱したものですので、アルくんのくだんの論文に波動関数が出てこないのは、時系列的にみればそうなるわけです。
ここでポール・ディラックの1926年8月論文に話を戻します。このときにはシュ方程式も、その解が波動関数になることも、前衛物理学者たちのあいだでは知られていました。同方程式の論文(いわゆる第一論文)をアルくんも当時激賞していましたからね。ポールくんも論文中で言及しています。
ただ気体分子を論ずるにあたって、波動関数がどうして絡むのか、そもそもこの関数がどうして電子ではなく気体分子に絡むのか、そこのところは検証しないで、いろいろ数式を提示してささっと駆け抜けていくスタイルでした。
そこが腑に落ちなくて、それでポールくんの思考過程をジェレミー・シャーロック・ブレット with 露口茂の吹き替えではっきりさせようとこれまで頑張ってきました。
しかしこの技をもってしても、波動関数がどういう風に気体分子運動に重なるのか、やはりはっきりしません。それで少々悶々としていたのですが…
今はわかる気がします。ポールくんは簡明な式で語り切れるのなら、それでよしというスタンスの方です。一貫してそういう研究スタイルでした。
そもそも電子に関してさえ波動関数の正体は当時(1926年8月)不明で、同関数の二乗が電子の存在確率になると他の学者さん(マックス・ボルン)が言い出すのはもう数か月後のことでした。
気体分子を波動関数で表せるとして、それは分子の何を表しているのかなどという厄介な議論は避けて、固有関数の議論にさっさと進んで、当時すでに確立して久しいエネルギー&エントロピーの議論に入って、そして理想気体の運動方程式「$${PV=nRT}$$」を導出してみせて「見れ~ちゃんと山頂まで着いたで~」とクールに締めくくる… ポールくんの淡々とした人柄&天才性がうかがえる、そういう著述スタイルです。
波動関数はそもそも何を表しているのか?そういう議論をさしあたってスルーして先に進んでいったのが吉と出た…といえそうです。
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アインシュタインは常人でない洞察力の持ち主だったぶん、そういうスルーができなかったようです。1924年12月論文には、むろん波動関数は出てこないのですが、彼は波動の存在には気づいていたようです。
ビリヤードの球がいっせいに飛び交うなか、球どうしが何か網の目のように結ばれていて、しかもその網の目は何か波打っているようだ… そんなイメージを、気体分子(が極低温にあるとき)について抱いていたのが、同論文の行間からうかがえます。
それはどういうものであるか?ド・ブロイの例の研究について論文中に言及がちらっとあるのも、自分の抱くイメージが彼ひとりの妄想ではなく他の学者も抱いているものであると強調するためだったように思えます。
これがきっかけになってシュレディンガーがド・ブロイの論文に興味を抱いて熟読し、あの方程式を(かなり強引にでしたが)導出したのが翌1926年1月のことでした。
それがさらにポールくん24歳の明晰な頭脳に霊感を与え、アルくんの論文と融合し、簡素な数式に落とし込めればそれでいいとする彼のスタイルのおかげで、泥に足を取られず先に進めたわけですが…
アルくんはというと、1924年12月論文の頃より、ひとりで悶々としていたようです。同論文中でボース=アインシュタイン凝縮というざん新なアイディアを提示し後に実験で確認され激賞されることになっても、彼はなおも腑に落ちないでいたようです。なんやねんこの波は?と。
シュ方程式を当初は激賞し、やがて冷めていったのも、彼が抱えるこの疑念を晴らしてくれるものではないと洞察したからだったと想像します。
こうして後に、量子力学は不完全な代物と公言するに至るわけですが、その話は後の機会に。
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次回で本筋に戻れる、といいねワトソンくん。
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