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#9 先生としての在り方の〈北極星3+2〉とは? ver.2024/4

みなさん、こんにちは!
こちらのnoteでは、“よい教育”の実践者としての「先生の在り方の北極星」について述べてきます。

教育哲学を底に敷き、具体的にどんな教育を行っていけるとそれを“よい”と言えるのか。
無花果を運営する中で見えてきたエッセンスをこのnoteに全てまとめます。

0から説明をしていくというよりは、これまでのnoteで述べてきたことなどは自明のことのように記していくので、わからないところがあればnoteを遡っていただけますと幸いです!
(まだ過去のnoteで全てをまとめている訳でもないので、わからないことがあれば、ぜひお気軽に質問をしてください!)

⓪-1生徒にとっての“よい学び”とは?

探究とは、生きることそれ自体だということはこれまで述べてきました。
(詳細は以下のnoteをお読みください!)

DOとBEの探究をし続けることこそが人生。
この探究(人生)の北極星が〈自身の自由∩自由の相互承認〉になっているとき、それは生徒にとっての“よい学び”であると言えます。

つまり、生徒にとっての“よい学び”とは以下に定義できます。

【生徒にとっての“よい学び”】
〈自身の自由∩自由の相互承認〉を北極星とした、DOとBEの探究の連続それ自体。

⓪-2 生徒の“よい学び”を一緒につくる、先生の役割とは?

生徒にとっての“よい学び”を定義できると、先生の役割を定義することができます。

言い回しのようになりますが、生徒の“よい学び”を一緒につくる先生の役割とは以下のように定義できます。

【先生の役割】
生徒が『〈自身の自由∩自由の相互承認〉を北極星とした、DOとBEの探究』をしていけるようにサポートをしていくこと。

原理的にここまでを定義するからこそ、やっと「先生の在り方の北極星」について建設的に述べていくことができます。

【先生の在り方の北極星①】 〜“よい教育”の定義を軸にすえ、条件解明的に教育を実践・思考する〜

まず「先生の在り方の北極星」として欠かせないのは「“よい教育”の定義を軸にすえ、条件解明的に教育を実践・思考」する姿勢です。

【先生の在り方の北極星①】
あらゆる現象を認知した際、“よい教育”の定義をもとに「条件解明的に教育を実践・思考」できること。

〈“よい教育”の定義〉
すべての子ども達が〈自由の相互承認〉の感度を育むことを土台に、〈自由〉に生きる力(生きたいように生きる力)を育むこと


補足 : “よい教育”って本当に定義できるの?

教育とは、感想や好き嫌いで実践・思考されがちな営みです。
これは相対主義的に「“よい教育”なんて定義できない」と感じてしまうからこその現象であり、この相対主義の問題点はこれまでも述べてきました。

“よい教育”なんて本当に定義できるの?と感じられている方は、以下のnoteをご覧ください。


補足 : 条件解明的に教育を実践・思考するってどういうこと?

条件解明的に思考するとは、
二項対立に陥らず、「どのような条件が整えばそれは〇〇と言え、どのような条件が整えばそれは△△と言える」などというように思考をすることです。

“よい教育”を実践するにあたっての、「問いの立て方」の本質的な方法論として位置づいています。

例を挙げてここから実践をしてみましょう!
以下の問いに、あなたなりの意見を考えてみてください!

①教育を行う上で、子どもの想いを聴くことは保護者の想いを聴くをことよりも大切?

②先生は、威厳よりも生徒からの信頼感を大切にするのがよい?

〈ちょこっとThinking Time〉
1分ほど立ち止まって、ぜひ考えてみてください!
その後、読み進めていただけますと幸いです!




…考えられましたでしょうか?
ではここから一緒に考えていきましょう。

先程の2つの問いは、「問い方のマジック」になっています。

〈問い方のマジックとは?〉
AとBどちらが正しいか?と問われると、どちらかが正しいのではないかと思い込んでしまうこと。

①教育を行う上で、子どもの想いを聴くことは保護者の想いを聴くをことよりも大切?

という問いを目の当たりにすると、
「子どもの想いを聴くことの方が大切だ!なぜなら…」
「保護者の想いを聴くことの方が大切だ。なぜなら…」
のように。

②先生は、威厳よりも生徒からの信頼感を大切にするのがよい?

という問いを目の当たりにすると、
「先生の威厳は大切だ!なぜなら…」
「信頼関係の方が大切だ。なぜなら…」
のように、ついついどちらかが「正しい」ものとして思考をしてしまいがちです。
(問い方のマジックに引っかかった…という方もいらっしゃるのではないでしょうか?)


これではただ対立が生まれるだけで、建設的な議論は生まれません。
しかし、教育の本質を軸にすえ、条件解明的に教育を実践・思考しようとすると、建設的な議論につながる以下のような問いを立てることができます。

“よい教育”を実践していくためには、どんな時には保護者の想いよりも優先して子どもの想いを大事にすることが大切で、どんな時には子どもの想いよりも優先して保護者の想いを大事にすることが大切なんだろう?

“よい教育”を実践していくためには、どんな時に先生の威厳を発揮することは大切なんだろう?そのために子どもとの関係性の中で日々できることはなんだろう?


このように、常に教育の本質の定義に立ち戻りながら、二項対立的な問いではなく、「どのような条件が整えばそれは〇〇と言え、どのような条件が整えばそれは△△と言えるんだろう」などという問いを立てることこそ、条件解明的に教育を実践・思考するという営みです。

自身の好き嫌いで教育を語っているのではない。
教育の本質に常に立ち返り、条件解明的に教育を実践・思考できることこそ、先生に求められる在り方です。


【先生の在り方の北極星②】 〜先生自身が『〈自身の自由∩自由の相互承認〉を北極星とした、DOとBEの探究』を行う〜

「先生の在り方の北極星」の2つ目の要素は、「先生自身が『〈自身の自由∩自由の相互承認〉を北極星とした、DOとBEの探究』を行う」ことです。

【先生の在り方の北極星②】
先生自身が『〈自身の自由∩自由の相互承認〉を北極星とした、DOとBEの探究』を行う。

〈自由の相互承認〉を北極星とする生徒にとっての“よい学び”を実践する時、教育現場に先生の〈自由〉も必ず介在します。
もっと言えば、「先生だからと言って、生徒との〈自由の相互承認〉を蔑ろにしていい理由」は全くありません。

民主主義の土台としての“よい教育”。
先生が民主主義の担い手の1人として生きていること、そんな先生との関わりの連続「それ自体」が、生徒にとっての“よい学び”になります。

先生自身が『〈自身の自由∩自由の相互承認〉を北極星とした、DOとBEの探究』を体現していること(しようとしていること)自体が、 “よい先生”として必要条件になっている。

これってなんだか素敵なことだなって僕自身感じています。


【先生の在り方の北極星③】 〜現象学的態度で在り続ける〜

「先生の在り方の北極星」の3つ目の要素は、「現象学的態度で在り続ける」姿勢です。

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