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#3 「探究」を狭義で捉えていない?フリースクールにおける“よい学び”とは?

さて今日は教育のおける本質的な問いとも言える、“よい学び”とは何か?という問いのこたえに一緒に迫っていければと思います。

なおタイトルの通り「『フリースクールにおける』“よい学び”」を綴っていきますが、実際には「『学校(公教育)における』“よい学び”」に迫っていっていく営みの一端だと捉えていただけますと嬉しいです。

フリースクールは(2024年1月現在)制度的な規制がないからこそ、「“よい教育”の定義に則り、∞の手段を用いて“よい教育”つくっていける存在」だと私は捉えています。

つまりフリースクールとは、
「部分最適ではなく全体最適の観点で教育の本質を捉え“よい教育”つくっていける、現代から未来にかけて最先端をいく(可能性を秘めた)教育施設」だと捉えているので、その前提をみなさんに共有をした上で話を進めていきます。

ということでまずは、“よい学び”の重要な要素となる「探究」について考えていくところからスタートをします。


探究を狭義で捉えていない?

「探究」という言葉は、今日教育の世界でたくさん聞かれるようになりました。

教育に携わっている人の中で「探究」という言葉を聞いたことのない人はきっといないくらいです。

「探究学習の時間」
「探究活動」

今日の公教育の中でも「探究」をキーワードにした学びは散りばめられています。

さて、ここで1つの問いです。
探究とは時間や取り組みで切り取ることができるようなものなのでしょうか?

「探究とはそもそも何なのか」
ここをしっかりと理解する先にこそ、“よい教育”の道は開かれます。

〈ここでちょこっと道草time〉
あなたにとっての〈探究〉とは何か、読み進める前に1分ほどでもよいので、胸に手を当てて感じたり考えたりしてみてください。


探究とは、生きることそれ自体。

ここから探究とは何か?に迫っていきます。

そのためにまずは、デューイの提唱した探究の定義をここに記します。

探究とは,不確定な状況を、確定した状況に、すなわちもとの状況の諸要素をひとつの統一された全体に変えてしまうほど、状況を構成 している区別や関係が確定した状況に、コントロールされ方向づけられた仕方で転化(transformation)させることである 。

John Dewey (1938) logic –the theory of inquiry–, in “The Later Works Volume 12”, Southern Illinois University Press, p.108. 『デューイ,J.(魚津郁夫訳)(1968) 論理学 -探究の理論-,上山春平編.世界の名著 48 パース ジェイムズ デューイ,中央公論 社,pp.491-492.』

なんだか難しい表現ですよね。
これを私なりにシンプルに解釈をすると、

私たちが経験(思考)することのすべて、つまり「生きることそれ自体」が探究だよね!ということになります。

この定義こそ、“よい教育”を実質化するという観点に立った時に“よい”と言える「探究」の定義だと私は考えています。

(※)こうした定義に迫る営みをする時、大切なのはどんな観点からその言葉を捉えるかです。ここでは「“よい教育”を実質化していくために、どんな現象を『探究』と定義するとよいか」という観点で私は言葉を綴っています。


では、ここからは私たち自身にこの定義を落とし込み、考えてみましょう。

「生きることそれ自体 = 探究」と定義することは、“よい教育”を実質化するという観点に立った時に“よい”と言えると、あなたは感じられるでしょうか?

〈もういちど、道草time〉
あなたにとって、この問いにどう感じるかを感じ取ってみてください。この感じる営みこそが大切な営みです。
読み進める前に1分ほどでもよいので、胸に手を当てて感じ、そして考えたりしていただけますと幸いです。


「DOの探究」と「BEの探究」

くどくなってしまいますが、私は「“よい教育”に大切な探究とは?」という観点のもとで「探究」を定義するという関心に立った時、「探究=生きることそれ自体」と定義することは“よい”と感じますし“よい”と考えています。

教育について考える時、常に立ち戻るのはやはり「そもそも人間とはどんな存在か?」という問いです。

私たちは、常に連続性の中に生きています。
そして常に感じ、問いを持ち、思考し、行動しながら生きています。

もっと言うと、この一瞬一瞬の中で私たちは常に欲望を持ち、欲望に規定されながら、欲望-関心相関的に世界を捉えながら生きています。

そして「生きたいように(自由に)生きたい」という想いを常に持っています。
自由に生きるためになら、命を賭してだって争うことだってあります。

それが私たち人間であり、人類の紡いできた歴史です。

そんな私たち人間が本当の意味で生きたいように生きるには、他者の自由を承認することをルールとした社会を築いていく必要があるよね、というのが「自由の相互承認」という原理でした。

【教育の本質】
すべての子ども達が〈自由の相互承認〉の感度を育むことを土台に、〈自由〉に生きる力(生きたいように生きる力)を育むこと

以上のような人間の本質を理解した上で、その本質から導き出された上記の「教育の本質」を実質化する観点に立つと、
「〈自由〉や〈自由の相互承認〉にまつわる問い」を起点に学びは、決して限定的な時間・空間でではなく、連続的な「日常」の中で生まれていくものということに気がつくと思います。

・何をしようかな
・どうやってやろうかな
・あ〜あれをしたかったな
・友達と喧嘩しちゃった…どうしよう
・学校 / 仕事に行きたくないな
・どんな人生を歩んでいこうか
・自分って、どんな人でありたいんだろう
…etc

人間は欲望に規定され自由を求める生き物だからこそ、常に欲望(自由)を起点にした「問い」を持ち行動しています。意識的にも、きっと無意識的にも。

そんな私たちが〈自由〉や〈自由の相互承認〉の感度を獲得していくという観点に立った時、日常のどの瞬間もが、想起されたどの問いもが、そこから生まれたどの思考・行動もが、大切なものだということは明らかです。


だから私は教育者として探究を捉えるとき、「探究=人生そのもの」だと考えています。

…ここからはちょっと言葉を崩して。

きっと私たち人間って、ずっとDOとBEの探究をしているって思うんです。
何をしようかな?どうやったら上手くいくかな?というような「DO(する)」に関する問い。
何を大切にしたいかな?どんな人間で在りたいかな?というような「BE(在り方)」に関する問い。

これらの問いを持って、思考をして、行動して、悩んで、喜んで、また苦しんだりして。そもそもどうしたいんだっけって欲求に立ち戻ったりして。

これって、問いの質は変わっていたとしても本質的には子どもの時も、大人になった今もずっと変わらないって思いませんか?

ずっと私たちは、自身の持つ欲求をもとにDOの探究・BEの探究をしているんです。
人生って、きっとそれ以上でもそれ以下でもないなって、私は感じています。


“よい学び”とは

以上を踏まえ、私は(フリースクールにおける)“よい学び”を以下のように定義します。

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