絵空事 -aliviar-
「…何やあんた、また顔色悪いで。具合悪いんか?」
銀翅が帰るなり、十六夜は驚いた様子で声を上げました。
「…、ああ。少しね」
応えた銀翅は、はは、と笑いましたが、さすがに苦しいようでした。
「…咳は? まだか。」
「…。………」
銀翅は、答えずにふらりと座り込みます。
咄嗟に支えようと手を貸した十六夜は、その身体に帯びた熱のあつさに、またも驚いたのでした。
「…十六夜。済まないが、手を貸しておくれ。…言伝を、家に出さなければ。」
「…、解った。」
「…それと…暫くこの家を空けるから、君も来ておくれ。」
「…?」
「…私は…修行をしているから、家にはいない…と、いうことにする。…あの洞穴に向かおう。」
「そこまでせんでも…」
「…頼む。…私だけの、問題ではないんだ。」
「……………。…ほんまに…、しゃあないな、あんたは…」
銀翅の真剣な眼差しに、渋々といった様子で、十六夜は従います。
十六夜は速やかに荷をまとめ、銀翅を支えながら、洞穴へ向かいました。
洞穴に着いた頃には、銀翅の病状はますます悪くなっていました。無理をおして歩いたのですから、それも当然といえば当然でしょう。熱に加え、咳も出始めておりました。
十六夜は、すぐに毛布などの支度を整えます。そして、息も絶え絶えの銀翅を横たえると、近くの川で水を汲むために、桶を手に取りました。
「…、十六夜。済まないね。…気をつけて、行っておいで。」
「…あんたは黙って横になっとき。」
げほ、と咳が応えます。銀翅はそのまま目を閉じ、懸命に眠ろうとしている様子でした。
十六夜の看病の甲斐あってか、銀翅の熱はすぐに快くなってゆきました。
銀翅は相変わらず眠っていましたが、咳も治まり、呼吸も穏やかな様子でした。
十六夜も、銀翅の看病で少し疲れた様子でした。
少し眠ろうか、と思った矢先、銀翅の吐き出す吐息の音が、不意に大きく響いた気がしました。
見れば、銀翅の呼吸はまた、荒くなっていました。
まさか、と思い額に手を当てると、何故かまたも熱を帯びておりました。
これは、明らかに何かがおかしい、と十六夜は直感します。
同時に、木々に止まっていた鳥が、何かに驚いたかのように一斉に飛び立ちました。
十六夜は理解します。――村で何かが起こっている、と。
銀翅は、自身が村に行けない間、代わりになればと式神を遣わせていたのでした。
「――っ、あんたって奴は…!」
こんな時にまで式神を置いていたのか、と十六夜は大いに呆れます。これでは、休んでいないのと同じではないかと。
みるみるうちに、銀翅の容体が悪化します。
十六夜は銀翅に式神の術を解くように言いますが、その言葉が届いているようには見えませんでした。
十六夜は鋭く舌を鳴らすと、目を閉じ、自らの力を村にまで及ばせました。
強大な物怪の影。懸命に闘う人物の姿。ただ驚き、逃げ惑う村人たち。そして、他に物怪と闘っている影は――銀翅の遣わせた多くの式神。
体調を崩しているのにこんなにも多くの式神を使役していれば、悪くもなるだろう。と十六夜は納得します。
そして、物怪の影をその力で捕えると、一息に捻り潰しました。
誰もが驚き、息を飲む気配がします。
山の神がお救いくださった、と、人々は歓喜しました。
その身を通じて銀翅の力を放っていた式神たちは、安堵した様子でその力を収めました。
その様子を確認すると、十六夜はその力を戻し、銀翅の様子を確かめました。
銀翅は、力尽きたようにぐったりと横たわっています。十六夜は、まさか、と思い銀翅の口元に手を伸ばしましたが、どうやらまだ呼吸は続いているようでした。
その様子を見、ほんの少し安堵した十六夜でしたが、油断はできないだろうと考え、銀翅の看病を続けるのでした。
やがて疲れきった十六夜は狐の姿に戻り、それでも静かに銀翅に寄り添いました。
銀翅はそっと目を開けます。どうやら、熱は随分と下がったようでした。
しかし、その意識はぐらぐらと揺れているようで、まだはっきりとしません。
銀翅はそのまま、どうにか意識を保つと、ぼんやりと洞穴の天井を眺めました。
――生きている。
確かめるようにこわごわと指を動かすと、ふわりとしたものに当たったような気がしました。
わずかに呻きながら、どうにか上体を少しだけ起こすと、その手元には狐が一匹。
銀翅が起きたことにも気づかない様子で、ぐっすりと眠っていました。
――…ああ、そうか…。十六夜が手助けしてくれたのか…。
銀翅は、震える指を伸ばすと、微笑みながらそっとその頭を撫でました。
やがて銀翅が力尽きるように寝転がると、またも、ぐわん、とその視界が揺れました。
はぁ、と長い息を吐いて、銀翅はその目を閉じます。
どさり、という音に、今度は十六夜が目を覚まし、のそりと起き上がると人の形に化け、目を閉じている銀翅を睨みつけました。
「…まだ、動いたらあかんで。」
「…ああ。…まだ、動けそうにない。」
僅かに目を開け、はぁ、はぁ、と荒い息を吐きながら、それでも、ふふふ、と銀翅は笑います。
こんな時にさえ笑うのか、と十六夜は呆れたような顔をしました。
「十六夜が、…助けて、くれたのだろう?」
「…。…何も、しんどい時にまで式神置いとかんでもええやろ。こっちの手間も考えぇ。」
舌打ちをし、不快そうに眉を顰めながらも、十六夜は銀翅の額に手をやりました。
「…ああ。…迷惑をかけたね。…有難う…。」
銀翅は、村が無事ならと僅かに安堵したかのような表情を浮かべると、また静かに眠り始めました。
十六夜は、また咳でも出始めたら…、と、ひたと銀翅の胸を見据えます。
――銀翅の病は、一体何なんや。
――うちがついてても、治らんとは。よっぽど、何かあるんか?
かわいそうに。…そうは思っても、誰も銀翅の身代わりになることなど出来はしません。
――ああせや、また、水を汲んでこんと。
十六夜はそう思い立ち、ふらりと立ち上がりました。
桶を手に十六夜が立ち上がると、不意に、洞穴の外に人影が見えました。
瞬時に警戒した十六夜でしたが、その人影が発した言葉を聞いて、警戒を解くのでした。
「十六夜様。我らに手を貸してくださり、有難う御座いました。我らの力が及ばず、申し訳ありません。」
狐のことを十六夜と呼ぶのは、銀翅以外におりません。つまり、銀翅の手の者なのでした。
「…式神か。」
十六夜は、ふん、と鼻を鳴らすと、男を睨みつけながら言います。
「気にするんやったら、さっさとあいつの体に戻ってやり。その方が、うちの手間も省ける。」
男は、応、として十六夜に頭を下げると、静かに消え、あとにはひらりと紙が舞いました。
十六夜は興味深そうに、落ちた紙を拾い上げ、しげしげと眺めました。
――ひとり戻ったくらいでは、あんま変わらんやろ。…役目終えたんやったら、勝手に戻って来るやろうけど。
そう思いつつ、十六夜はちらりと銀翅の様子を伺います。先程よりも幾分か、顔色が良くなっているのでした。…ひとりの式神に、一体どれほどの力を注いでいるのでしょう。
――そのうち、目ぇ覚ますかもな。
――それまでには戻っとかんと、あいつはまた無茶しおるやろな。
十六夜はそう心の内でぼやくと、川へと向かいました。
人の身とは、なんと不自由なことか。
桶を手に、倦怠感に苛まれながらも、体を懸命に動かし、川へと出ました。
普段は何とも思わない水の重さが、いやに重く感じられました。
――これやと、どっちが病人か分からんな。
十六夜は、そう独り言ちながら、洞穴に足を踏み入れました。
銀翅は、まだ眠っています。
――うちも、ちょっと休もう。
十六夜はまたしても狐の姿に戻り、洞穴の暗がりにそっとうずくまるのでした。
十六夜が眠って随分経った頃、またひとり、式神が戻ってきました。
外は既に闇の帳が降りています。式神は、十六夜も銀翅も、どちらもが眠っているのを見、見張りがいなければ危ないかと考え、入り口で番を始めました。
勿論、本来の役目は終えています。しかし彼らは、自ら出来ることは何かを探すのでした。
恐らく、ここまで人に近い式神を作れるのは、あの家では銀翅だけだったことでしょう。
やがて、十六夜よりも先に銀翅が目を覚ましました。
「――見張ってくれていたのか。有難う。」
銀翅は、隅で眠っている十六夜をみとめると、労いの意味で式神に声を掛けました。
「主。御加減は如何ですか?」
「十六夜の御蔭で、随分楽になったよ。――君も、もう休むといい。」
「しかし、それでは守りが手薄になってしまいます。」
「大丈夫。結界で閉じておくから。――君達は、私の式神なのだから、それでも通れるだろう?」
「…。十六夜様が心配なさいますよ。」
「朝には解くさ。…十六夜は随分頑張ってくれたようだから、きっと、朝まで眠っているだろう。」
「…。解りました。…では、主も御無理はなさらないよう。」
「ふふふ。ああ、有難う。…お疲れ様。」
――結界を張るよりも、式神を出している方が、疲れるのだけれどね。
そう思いましたが、決して口には出さない銀翅なのでした。
銀翅は、式神から力が戻ると、安堵の息を、はぁ、と漏らしました。
腕に力を込め、どうにか身体を起こします。
――…ふむ。どうやら大丈夫らしい。眩暈もないし。
――手足も問題なし。…寧ろ、眠りすぎたような気がするな…。
身体の状態を確かめると、銀翅は恐る恐る立ち上がります。
――此処で転んだら痛いだろうな。
銀翅は、まだどこかぼんやりとした頭で、洞穴の入口へ向かいました。
「銀翅。」
「…っ!! ――十六夜。起きたのかい。」
少し離れた処から不意に聞こえたその声に銀翅は驚き、ぼんやりとしていた頭が一度に覚醒したように感じました。
「この期に及んで、何しようとしとるん…?」
「…二人とも寝ているのは不用心だから、結界を張っておこうと思っただけだよ。」
――今は嘘をつかない方がいい。銀翅はそう直感しました。
「…へぇ。その、身体でか?」
十六夜は、銀翅をぎろりと睨みつけます。振り返らずとも分かるほどの、刺さるような視線の鋭さに、銀翅は思わず息を呑みました。
「こんな、身体だからさ。…此処で熊にでも襲われたら、ひとたまりもないだろう?」
「…うちを何やと思うてるんや? 熊なんか、はなから近寄らすわけあらへんやろ…。」
「………かみさまって、そんなこともできるのかい…?」
銀翅は、恐る恐る、背後に目をやりました。
――そんなん、朝飯前やわ。
十六夜は無言のまま、目だけでそう訴えているようでした。
「…そうなんだね…。御見逸れ致しました…。」
「…。解ったら、さっさと寝床に戻らんかい。」
「はい…。」
銀翅はすごすごと寝床へ戻り、横になるのでした。
すぐに、十六夜が銀翅の脇に座り、銀翅の様子を窺います。
「…。ふむ。だいぶ良うなったみたいやな。」
「君こそ、無理をしただろう? 調子はどうなんだい?」
「ぼちぼちやな。…言うておくけど、あと数日は、ここで大人しゅうしとるんやで。」
「…。」――明らかに不満そうな表情を、銀翅は無言のままで浮かべます。
「…何や文句あるんか?」
十六夜はまたしても、鋭い目で銀翅を睨みつけました。
「いえ、何でもありません…。」
視線に射竦められた銀翅は、すぐに十六夜から目を逸らすのでした。
「それと、今度しんどくなった時は、式神は増やすなや。…全部戻せとは言わん。」
「…はい…。」
「そん時くらい、うちが力貸したる。っていうか、しんどいのに式神増やしてどないすんねん。余計悪ぅなるだけやろ。」
「はい。」
「折角治りかけとったんを、こんだけ時間かけて、ようやっと治ったっていう重症にしたんは、あんたの自業自得やからな。」
「はい。」
「数日くらい戻れへんのが今更何やねん。今戻ったって、またちょーっと仕事したらぶり返すやろ? どうせ、あんたのことやから、埋め合わせは他の式神にやらせとるんやろうし?」
「はい。仰る通りです。」
「ほんっまに、あんたは人が好いんやから。ちっとは自分の身体大事にしぃや。うちが、迷惑やねん。」
「はい。申し訳御座いませんでした。」
「よし。」
十六夜は、それだけを一度に言うと、少しは胸の空いた様子で満足そうに頷くのでした。――銀翅は、生きた心地がしなかったことでしょう。
「ほな、寝え。」
十六夜は、有無を言わさぬ表情で言います。
「解ったよ。…君が居なかったら、きっと私は死んでいたよ。有難う、助かったよ。」
「きっと、やあらへんわ。絶対死んどったわ。ど阿呆。」
「…ああ。心配を掛けて悪かったよ。…御休み。」
「…はぁ。ほんまに…。うちも寝よ。」
銀翅がそう声をかけると、十六夜は、相変わらず怒ったような表情のまま、銀翅の傍らで横になりました。
――…とりあえず、十六夜の頭を撫でたことは、今は黙っておこう。
目を閉じ、静かにそう誓う銀翅なのでした。
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