絵空事 -belleza-
私は、その日のつとめを終え、どうやら疲れきっているらしい身体を引きずりながら、どうにか山の麓まで辿り着いた。
すぐに荒くなってしまう呼吸を隠しながら、出来るだけ目立たないように木蔭へ腰かける。――流石にこの時間になると人通りも少ないようだが、用心に越した事はないだろう。
傾き始めた太陽の光から身を守るように、山の方へと顔を向ける。
…と、見慣れた赤い色が、こちらへ下ってくるのが見えた。
「わざわざ迎えに来てくれたのかい?」
視線を受け、試しにそう尋ねてみた。
「…ただの見回りやがな。」
声をかけた相手は、ふん、と軽く鼻を鳴らすと、こちらの想像していた通りの答えが返ってきた。
「…確かに、ただ迎えに来てくれたにしては出来すぎた間合いだねぇ。私もつい先程、此処に着いたばかりだから。」
それがおかしくて、つい笑ってしまう。
「それにしても、君が此処まで降りてくるとは。――危ないよ?」
「大禍時に何を言う。遭うたら喰うだけやわ、そんなもん。」
「おや。それでは私は喰われてしまうではないか。」――くすくす。
私の言うことに、いちいち呆れ顔をしているのが可笑しいので、また笑ってしまった。
「会うたついでや、一緒に帰ろか。」
「――それが道理だろうね。見回りは、もう良いのかい?」
「上から下まで見たら、終わるもんやろ。」
「ふぅん。では、日も暮れるしそろそろ行こうか。」
「ああ。」
――本音を言うと、まだもう少し休んでいたかったけれど。
待たせるのもどうかと思い、どうにかよろけずに立ち上がった。
ならんで山道を歩く。
気持ちは軽やかだというのに、身体は鉛の様に重く感じられる。
「…何やあんた、へばんの早いな。ほら、はよ行くで」
「一応、つとめを終えた後だということも考慮して貰いたいんだが…」
「人間ってそういうもんか。…それにしても、早いような気するけど。」
「君の方こそ、あまりはしゃいで行くと危ないよ。一応、山道なのだし。」
「誰がはしゃいどるんや阿呆。」
「はは…。」
苦くはあったが一応は笑う。と、十六夜は呆れたような顔で、少し先で待っているようだった。
俯き、咳が出ませんように、と何かに祈るように俯き、目を閉じて深呼吸をする。
――あれが出始めると、力がめっきりと落ちてしまう。
「…。少し休もか。」
やがて、見兼ねたように十六夜は言った。
「…ああ。そうしてもらえると助かる。…有難う、申し訳ない。」
倒れこむように、その場にしゃがみ込んでしまった。――少々無理をしすぎたかもしれない。
しばらくして、ようやく呼吸が落ち着いた。
「――星が出てきたね。急ぐとしよう。」
「もう、ええんか?」
「ああ。…行こう。」
立ち上がり、それに背を向けた。
やはり、少しずつ遅れてしまう。
十六夜も、ああは言っていたが、こちらを気にかけてくれているらしく、時折こちらを見ながら、歩いている。
***
――僅かに後ろを気にかけながら歩いていると、ざり、と嫌な予感がした。途端に腕を誰かに掴まれ、無様を晒さずに済んだ。
そのまま、身体を引き上げられ、すぐに手が離れた。
「…やれやれ、だからはしゃぐなと言ったろうに。」
苦く笑いながら、銀翅は言う。
「はしゃいでへんし、ていうかあんたに助けられんでも大したことにはならんかったし。」
何故そのような馬鹿な真似を、と僅かに呆れた。
「何を言っているんだい。――結構高いじゃないか、此処。」
銀翅は驚いたような表情をすると、わざとらしく崖下を覗き込み、感想を漏らした。
「人間やったらちょっと危ないと思うけど。うちを誰やと思てんねん。姿さえ元に戻れば受身くらい取れるわ。…一緒に落ちでもしたらどうするつもりやってん。」
「それは、その時に考えるさ。それに、策もなく手を伸ばすほど私は馬鹿ではないよ。」
「…今のあんたに言われても説得力ないわ。」
「ははは、それもそうだね。――けれど私は、君の為ならいくらでもこの身を差し出すよ。…その覚悟はとうに出来ている。」
「…。」
「…もし仮に痛手を被るとしても…、山の神が怪我を負うのと、私一人が怪我をするのとは重みが違う。――私に何があっても私一人の問題で済むけれど、神が穢されれば山が廃れる。…解るだろう?」
「…ふん。あんた如きに支えられてたら、神の名が廃るわ。」
そう言いつつ、ちらとその横顔を見る。
――眉根を寄せ、僅かに表情を歪ませたように見えた。
すぐに苦笑に戻ると、言った。
「…。…怪我は、無いかい?」
「………ない。」
「そうかい、それなら良かった。」
――さぁ、行こう。
そう言って微笑んだ顔は、いつもと同じように見えたけれど。
何処かつらそうに見えたのはきっと、その顔を照らす緋色の光のせいだろう。
そう、思うことにした。
***
やがて、またも息が上がり始めた頃。
漸く、家の近く、少し開けたところに出た。
すっかり日は暮れている。
どうにか呼吸を整えながら急いで来たけれど、遅くなってしまった。
「ほら、何やってんの。」
そう声をかけられて、顔を上げた。
満天の星と、少し欠けたような月が目に入る。
――嗚呼、なんとうつくしいのだろう。
「…、きれいだね。」
「ん? ああ、そうやな。」
思わずそう漏らすと、眼下を見下ろし、十六夜は何の気なしに呟いた。
くすくす、と笑うと、草木までもがつられたように、ざわざわと笑った。
隣に並び、改めて景色を見下ろす。――と、木々の声に合わせたように、十六夜も僅かに笑っていた。
――笑うと、もっときれいだな。
そう思いはしたが、口には出さなかった。
「苦労して登る甲斐があるというものだ。」
その代わりとでも言うように感嘆を漏らし、並び立つ相手に微笑みかけた。
――君程うつくしい存在を、私は終ぞ目にした事がない。
十六夜もそれを見つめ返し、応えるように微笑んだ。
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