絵空事 -confiar-
誰も訪れる者のいない、屋敷の離れ。
しずかなものだと思いながら、私はいつもと変わらぬ日々を過ごしていた。
「翅葉。いるか?」
「兄上。…何か御用でしょうか?」
「父上がお前をお呼びだ。すぐに身なりを整えろ」
「…は。」
思わず、珍しいこともあるものだ、と密かに目を丸くする。
一族を治めている父は、私の受けている物怪の障りを避けるため、余程のことが無い限りは私と顔を合わせようとしなかった。
私自身、その方が気楽でよいと考えていたので、別段気にしてはいなかったが。
それはともかく、一体どのような『余程のこと』が起こったのだろうか。
村で何か、良からぬことでもあったのか。それとも、星読みで良からぬ報せでも出たか。
色々な予想をしたが、そのどれもが外れていた。
「…縁談、でございますか?」
「そうだ。」
挨拶もそこそこに、一族の長より齎されたのは、考えもしなかったことだった。
縁談、という話ではあったが、私に断る権利はない。
そもそも、成人してからも家に置いてもらっているということ自体、特別な配慮だった。――家名を落とさないようにする為、とはいえ。
「お前にこの家を継がせるわけではない。しかし、そろそろ嫁をとらせねばなるまい。これ以上恥を晒すわけにはゆかぬからな。」
「…はい。有難う御座います。」
「話はそれだけだ。詳しいことは後日、鋼夜に伝えさせよう。――下がれ。」
「はい。承知致しました。」
要件だけを受け取ると、数年ぶりにまみえた父の顔を一度も仰ぐことなく、私は離れへ戻った。
――縁談、か。私はもうそんな齢(とし)だったのか。
嫁いでくる女性も気の毒だな。恐らく、私如きには勿体無いような女性なのだろう。
明らかな政略結婚とはいえ、流石に顔合わせくらいはあるだろう。詳しい話は兄を通じる、と言っていたし。
今はそれよりも先に、やらねばならぬ仕事があるのだから。
「銀翅様。玄鋼(くろがね)様より言伝が御座います。」
「そうか。兄上は何と?」
程なくして、家人(けにん)を通じて報せが届いた。兄が直接伝えにこなかったのは、恐らく縁談の為の準備に勤しんでいるからだろう。
曰く、明後日には顔合わせがあるそうだ。
恐らく相手の女性は、そのままこの家に入ることになるのだろう。そうでなければ、兄がこうも突然忙しくなるはずがない。――兄も、気の毒に。
どこか騒々しい部屋の外の気配を感じ取りながら、私は作業を続けるのだった…。
そして、顔合わせの日。
特に緊張もせず、普段通りにこなした。物怪を相手にする方が、余程恐ろしいというもの。
相手の女性もにこにこと微笑んでいるが、心なしか緊張感が拭えない様子だ。――無理もないか。
***
銀翅の想像通り、とんとん拍子で話が纏まったようで、その日のうちに、女性は銀翅のいる離れに住むことになりました。
相手方もそう予見していたようで、特に慌てる様子はありませんでしたが、――やはり、というか、怯えている様子でした。
「貴女も災難ですね。このような家の者のもとへ嫁がされるとは。」
「…。………」
銀翅は気の毒そうな表情を向けましたが、女性は黙ったままで、応えはありませんでした。ちらりと銀翅を見た目には、明らかな怯えが見て取れました。
「私が恐いのですね。…どうぞ御安心なさいませ。近付きませんので。」
「…?」
思いもしない言葉に驚いた女性は顔を上げ、え? という表情を銀翅に向けます。
「…、さあ、今日はもうお疲れでしょう。先に御休みになられては如何です?」
「…え、あの…?」
「私はまだやらねばならぬことがありますので。…御休みなさい。」
「あ…はい…。」
聞き違いかと思い、問い直した女性でしたが、銀翅は微笑みを湛えたままでそう言うと、自室へと戻っていくのでした。
翌朝、既に自室で仕事を始めている銀翅のもとへ、使用人が訪ねてきました。
「銀翅様、お早う御座います。――蓮華様がお目覚めで御座います。」
「ああ、そうか。」
「もう、お仕事をなさっていたのですか?」
「ああ。少しばかり厄介事でね。――起きたのなら、挨拶に伺おう。報せてくれて有難う。」
「では、失礼致します。」
静かに筆を置くと、銀翅は寝所へと向かいました。
「――お早う御座います。よく御休みになられましたか?」
穏やかな微笑みを湛え、銀翅は蓮華に声を掛けます。
「…、はい…。」
蓮華は、銀翅とは対照的に、作ったような笑顔を銀翅に向けました。
――彼女も、私と似たような境遇か。
蓮華の作った笑顔を見た銀翅は、少し気の毒そうな顔を向けます。
――とはいえ、昨日ほどの怯えはないようだが…。
「…、お腹が空いておられるでしょう。直ぐに朝餉の支度を整えさせますので、少々お待ち下さいね。」
「は、はい…。」
銀翅はそう言うと、使用人や式神たちに朝食の支度を整えるように伝えました。
銀翅と蓮華は、卓を前に、共に向かい合って食事を取るのでした。
「…、女性とは、皆、貴女の様に食が細いものなのですか?」
「…さぁ…。今は、あまりお腹が空いていなくて…。」
驚いたように目を丸くする銀翅に、申し訳なさそうに、――或いは恥ずかしそうに、蓮華は俯きます。
「そうですか。…無理をして食べる必要はありませんよ。」
「はい…。有難う御座います。」
銀翅はそう言いながら、いつものように食事を取り終えました。
そして、直ぐに村の見回りに向かうのでした。――蓮華にとっては、非常に忙しなく感じられたことでしょう。
「この家に慣れるまでは、何かあったら家人か、私の式神に任せておけばよいと思いますよ。」
銀翅はそう言い残すと、御自由にどうぞ、とばかりにさっさと行ってしまうのでした。
蓮華は、銀翅の様子に少しきょとんとしながらも、ゆっくりと食事を終えるのでした。
――…、昨夜はほんとうに何もされなかったけれど、あの御方は余程の変わり者なのかしら…? 此処も、離れのようだし…。それにしては大きいけれど…?
慣れるまでは…と言われた蓮華でしたが、家事は使用人や式神の仕事でした。なので、特にやることもなく、縁側に座って、ぼんやりと考えに耽るのでした。
――今日も、よい御天気だわ。
ゆっくりと、時間が流れてゆきます。…ふと、銀翅がどのような人なのか気になり、使用人にでも尋ねてみようと考え、通りかかった使用人を呼びとめました。
「あ…あの、少し宜しいでしょうか?」
「蓮華様。何なりとお申し付け下さいな。」
「銀翅様とは、どのような御方なのですか…?」
使用人の前では、翅葉、ではなく銀翅と呼ぶようにと言われていたのを思い出し、蓮華は恐る恐る尋ねます。
長男の玄鋼(くろがね)――真名は鋼夜、と言いますが――は母屋で、両親と生活していること。
銀翅は昔から病弱で、そのためにいつしか離れに居ついてしまったこと。
銀翅は、昔から仕事ばかりのひとで、女性にあまり関心がなさそうなこと。
星を読み、異変があればその理由を探り、怪異を祓うという少々変わった仕事ではあるけれど、村の為にと力を尽くしていること。
物怪に隙を見せてはいけないので、また村人らの信用にも係わるので、銀翅が病弱なことは家の者しか知らないこと。…当然、蓮華もこのことは口外してはならないこと。
――要するに、厄介者だということでした。
――だから、あの御方はいつも笑っているのか。
身に覚えのある蓮華は、その境遇を察します。
――いったいどんな御方だろうと思っていたけれど、人々の為にと尽くせる御方なら、そうわるい人物でもないのでしょう。…あまり、身構えなくても良いのかもしれないわ。
――作り笑い…にしては、自然すぎる笑顔だったわ。きっと、私よりも肩身の狭い思いをしていらしたのでしょうね…。
――怪を祓うお家の人間だというのに身に障りがあるだなんて、きっと私よりも寂しい思いをして過ごされたのだわ…。
そう考えながら、蓮華は少し哀しい想いがしました。
――お仕事からお帰りになられたら、笑顔で御出迎えをすることにしましょう。…きっと、それでも御喜びになられるはず。…私自身、嬉しかった覚えがあるのだから。
蓮華は、銀翅を気の毒に思いながらも、そう心に決めるのでした。
夕方になり、銀翅が帰ってきました。
蓮華は、出来るだけ朗らかな笑顔で銀翅を出迎えます。
「銀翅様。お帰りなさいませ。」
ところが、銀翅の反応は淡白なものでした。
「…蓮華殿。…一日で随分と馴染んだようですね。何よりです。」
銀翅はそう言うと、いつものように微笑みましたが、その声色には強い拒絶が滲んでおりました。
心からの持成しも、意にも介さないような人。
――この人は、寂しいという感情すら、理解していない。
蓮華は大きな衝撃を受けました。その上、食事を済まされると、仕事があるからとまたも自室に籠られるのでした。
――これはもしや、私が嫌われているのかしら?
蓮華がそう思ってしまうのも、無理はありませんでした。
翌朝も、当たり障りのない会話だけをして、銀翅はすぐに出かけてゆきました。
銀翅が帰宅した時も、昨日と同じように、蓮華はにこやかに銀翅を迎えましたが、相変わらず素っ気ない反応が返ってくるだけでした。
「家人の者たちから、色々と話を伺いました。」
夕飯の頃になって、蓮華は少し遠慮気味に銀翅に言いました。
「そうですか。」
銀翅は淡白な反応を返します。――それで? と、如何にも興味がなさそうな様子で。
「…否、それならば話が早い。――貴女に障りがあるといけませんので。」
銀翅はそう言うと、かえって安堵したような反応を見せ、またも自室に籠るのでした。
――貴女もお出で下さったことだし、暫くは親類も黙っているでしょう。…貴女も、お気にやまれぬように。
そう言って微笑まれては、蓮華には返す言葉がありませんでした。
――彼女も余程の変わり者だな。最初はあれほど怯えていたのに。
銀翅は、自室で寝転がりながらぼんやりと考えます。
――その上、私が障られていることを聞いたにも関わらず、態度が変わらないとは。
――よもや、彼女も何かあるのか? そうは見えなかったが。…まぁ、考えても仕方がないか。
眠る間際のぼんやりとした考えを手放し、銀翅は目を閉じるのでした。
翌朝。
夜明けと共に仕事に取り掛かっていた銀翅は、誰かが呼ぶ声に気づきました。
明朝だというのに、蓮華が部屋を訪ねてきたのです。
「お早う御座います。今日は随分と早いのですね。何かあったのですか?」
銀翅は素早く身なりを整え、蓮華を出迎えました。
「きれいなお部屋ですね。」
ちらりと部屋の中を覗きながら蓮華は言います。
「そう見られては敵いませんよ。」
しかし、苦笑気味に笑う銀翅には蓮華を部屋に迎え入れるつもりはないようでした。
「…それで、御用件は何ですか?」
「…。………」
――障りがあるといけないから、と、部屋には入れてくださらないのだろうな。
蓮華は小さく溜息をつきました。
「あの、翅葉様は…、私の事が御嫌いですか?」
「…? 何故ですか?」
「御食事の時しか、お話をして下さらないし、眠るお部屋も別々だし…。まるで、存在していないかのような…」
「そんなつもりは…。私がまだ少し、慣れていないだけで…。」
「そうではありません。」
「…?」
「貴方自身が、存在していないかのような…振る舞いを、なさるので…。」
「…。………」
「私や貴方の日々がこれまでと変わらないように、…貴方がいないように、いなくなるようにしていらっしゃるように見えて。…それでは、寂しくありませんか?」
「…寂しい?」
銀翅は、蓮華の言葉にきょとんとして問い返します。
「貴女は、これまでと何も変わらない生活が、寂しいと感じるのですか?」
――蓮華は続く言葉を失いました。
はぁ、と深く息をして、心を落ち着かせながら、尚も言葉を探ります。
「…貴方は、寂しくないのですか? こんなところで、ひとりで。」
「私は、特に。昔からこうでしたので。」
戸惑いを隠せない蓮華を前に、あっけらかんと、銀翅は言うのでした。
「…貴女が気を害されてはいけないと思い、こうしたのですが…。何か至りませんでしたか?」
蓮華はまたも深く息をして、まっすぐに銀翅を見つめました。
「…、よいですか、翅葉様。」
「…はい。」
銀翅は、蓮華の眼差しに射抜かれたかのように、わずかにたじろぐような様子を見せました。
「貴方が其処に存在するだけで、気分を害される者など、この世には誰もおりません。」
「………。…………?」
突然何を言い出すのか解らない。という表情で、銀翅は蓮華を見つめます。
「…良いのです、直ぐにはお解りになられないでしょう。」
蓮華は少し哀しみを含んだ声色で言うと、少し間を置いて願い出るのでした。
「――ひとつ、お願いが御座います。」
「…。伺いましょう。」
「どうぞ、私を貴方の御傍へ置いてはいただけませんか。居るだけでは邪魔だと申されるなら、家人のように使って頂いて構いません。」
「…!? 突然何を仰るのですか。手は家人や、式神で足りています。わざわざ貴女の手を煩わせるようなことは…」
「わたしは貴方の妻です。」
「…。………」
「妻の役目は、夫を支えること。なのに、それをさせぬような貴方の振る舞いに、私は怒っているのです。」
「…。…しかし、」
「もちろん、私に出来るようなお仕事ではないのは解っています。けれど、貴方を支えることは出来る筈。…今日はどんなお仕事をしたとか、…それができぬのなら、どこへ行ったか。何を見聞きしたか。…それだけでもいいのです。」
「……………。」
銀翅は、暫く考えるような仕草を見せます。
「…貴女も、随分と酔狂な御方ですね。」
――やがて、観念したように苦く笑うのでした。
「…。」
蓮華も、一応は薄く微笑みます。
「…それで、今日はどちらにお仕事にゆかれるのですか?」
「…、…」
えぇと、と思案するような仕草をして、銀翅は渋々答えるのでした。
「今日は…、見回りは兄の役目なので、私は一日家に居ります。…ああ、村人が訪ねてくることがあれば、出てゆくこともあるので…」――御安心下さい。
そう続けようとした銀翅の言葉を、蓮華は遮るように言いました。
「それは、寂しくなりますね。」
「……。そうですか。…?」
意外そうな顔をして、銀翅は目を瞬きます。
「…。」――これでも駄目か。
蓮華はますます哀しくなりました。
――けれど、まぁ、急には無理でしょう。少しずつ、少しずつ。
はやる気持ちを抑え、蓮華はにこりと微笑みました。
何故か哀しそうに笑う蓮華の表情が、銀翅の目にはとても奇妙に映りました。
――まぁ、彼女の好きにさせておこう。
そのうち飽きるだろうと、銀翅はいつものように受け入れました。
銀翅はやがて、蓮華に少しずつ心を許してゆきました。――あくまでも、他の家人(かじん)よりはましか、という程度の認識ではありましたが。
のちに銀翅は十六夜と出遭いますが、むしろ十六夜との会話の方が、親しげでさえありました。銀翅は、もはや自身を人間だとは思っていなかったのかもしれません。
――人間の身体を持ってはいるが、その身体は満足に扱えず、ただ力があるばかり。
――人の形をしているだけの、化け物ではないか。
私のような化け物の妻とは気の毒だ。
妻は夫の子を産むのが最大の仕事だというし、いずれはそういうこともあるのだろう。――彼女に障りがなければいいが。
兄の子が産まれないのが気にかかる。
ひょっとすると、これは――いずれ……
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