絵空事 -amoroso-
『銀翅さま。どうかお願い致します。』
「ふむ。…分かった。少し支度があるので、待ってくれないか? ――それと、筆と墨を用意しておいておくれ。」
『はい。そのように致します。』
「――ということだから、少し行ってくるよ。…私のいない間、留守を頼む」
「…分かった。気ぃ付けてな。」
あるとき、村人からどうしてもと依頼を受けた銀翅は、ひとり、村へとおりてゆきました。
その足で、いつものように、支度を兼ねて本家を訪ねます。
家人の反応は相変わらずでした。
当主は、銀翅の持つ『障り』を避けようとするあまり、使用人からの言伝を受け取るのみでした。――煩わしくなくてよいものだ、と銀翅は気にも留めず、とある居室へ向かいます。
銀翅の妻だけは、他の家人と比べて温かみのある反応をするのでした。
「翅葉様。お久しゅう御座います。」
「蓮華殿。…無理をすると身体に障ります。どうぞ、そのままで。」
横たわっていた身体を懸命に起こし、妻――蓮華は銀翅に応対します。蓮華の様子は、とても嬉しそうに見えました。
「いいえ。今日は調子が良いのです。――折角お帰りになられたのに、お出迎えも出来ずに申し訳ありません。」
「お気に為さらず。…直ぐに行かねばならぬ処がありますので。」
「…そうですか…。…本日は、どのようなお仕事で、此処へ?」
「――何、簡単な憑き物落としですよ。私の事で貴女が気を重くされては敵いませんから、心配は無用です」
銀翅はそう言うと、穏やかな微笑みを湛えます。しかし、蓮華の表情は、いまひとつ解れておりませんでした。
「…他に何か、憂いごとが御有りですか? 兄達が、また貴女に失礼を――」
「いいえ。…貴方のお力になれぬ己を恥じているのです。」
「…。………」
「近頃…余り此方へお帰りになられないのは、やはり私が臥せっているからなのでしょう?」
「…。流石に貴女には、話しても良いかも知れませんね。」
「…?」
「実は、奇しくも御縁を得た、山の神の相手をしているのですよ。――出来れば、この事は誰にも内密にしておいて欲しいのですが。」
「…、嗚呼…。それは素晴らしい事で御座いますね…。――勿論、この場限りの事に致します。」
「――有難う。…貴女には何時も寂しい思いをさせてしまって、申し訳ありません。」
「いいえ。少しでも貴方の事が分かって、安心致しました。貴方がこの村を――私を想って力を尽くして下さっているのですから、…私も力を尽くさなければ…。」
「あまり気を張り詰めてしまうと、治るものも治りませんよ。…何でもいいのです、困ったことがあれば私の式神(しき)にお任せなさい。」
「はい。…有難う御座います。」
自身が最も気を張り詰めさせているのに、銀翅はそう言って、またも穏やかに笑うのでした。
或いは、家人のうちで銀翅を理解しているのは、蓮華ただひとりだったことでしょう。しかし、銀翅がそれに気づいていたかどうか…。
銀翅は、蓮華の世話を任せている式神の様子を確かめると、自室へ向かおうと廊下に足を向けました。
少し行くと、使用人の姿が見えました。
「――銀翅様。」
銀翅は、使用人の会釈に笑顔で応じると、すぐに真剣な眼差しになって尋ねました。
「――兄上のお世継ぎは、どのようなご様子ですか?」
「えぇ、それはもう健やかにお過ごしでございますよ。」
「そうか。それは何よりだ。」
銀翅は、密かに胸を撫で下ろします。
「…まだ、お会いしていないのですか?」
「ええ。私が会うと、障りがあるやもしれませんから。――また、いずれ。」
「左様でございますか…。」
その使用人は、少しばかり気の毒そうな顔を銀翅に向けました。
「教えてくれて有難う。…邪魔をして済まなかったね。」
「いいえ。」
銀翅は尚も朗らかに微笑み、自室に足を踏み入れました。
綺麗に整えられた棚には、札などの道具が所狭しと並んでいます。銀翅は、迷う素振りも見せず、其処から要り用な物を取り出してゆくのでした。
――憑き物落としか。…何れにせよ、私に回されてくるところをみると、余程の物なのだろうな…。
念入りに支度を整えている銀翅の耳に届いたのは、どかどかと騒々しい、誰かの足音でした。
「翅葉。久しく戻ったかと思えば、お前はまたそんなに家の物を無駄遣いする心算か。」
その人物は、銀翅の部屋の障子をがらりと開け、銀翅の手元を見るなり、そう口にしたのでした。
「兄上。――私の力不足故、申し訳ありません。」
「臆病者め。…分かっているだろうが、仕損じるなよ?」
「ええ。勿論でございます。家の名を穢すようなことは致しません。」
「…そうか。ならいい。」
銀翅の兄は、ふん、と鼻を鳴らすと、障子も閉めずに去ってゆきました。
支度を整えた銀翅は、慣れた様子で、依頼を受けた村人の家へ向かいます。
『銀翅さま。わざわざ足を運んでくださってありがとうごぜえます』
「…何かが憑いているようだ、との物は、こちらかな?」
村人から示されたそれは、木箱に納められた、たいへんにうつくしい櫛でした。
『そうでごぜえます。何とぞ、銀翅さまのお力で祓ってくださらんでしょうか。』
「無論。その為に来たのだから、今更否とは言わないよ。」
『ありがとうごぜえます。…その、代わりのもんは』
「その事は後でも構わないよ。…祓った後の櫛は、どうしたい?」
対価は…と口籠る村人を前に、銀翅は鋭い眼差しを櫛へと向けます。
『はぁ。…そんでは…、そのまま、供養をしてもらいてえんです』
「ふむ。こんなに綺麗な物をかい?」
『へい。…家のもんが、すっかり怯えちまってるもんで。』
「そうかい。…それならそうするより仕様が無いね。」
――成程。確かに居る様だ。
村人との話を終えると、箱に入っている櫛をじっと見つめ、銀翅は札を取り出します。
そして、村人の用意していた筆で素早く何かを書くと、いつの間にか音を立てて震え始めた櫛に貼り付けました。
…と、忽ちのうちに櫛の震えは止まりました。
櫛の震えに慄いていた村人は、安堵した様子で銀翅に礼の限りを述べ、伝えます。
「これしき、礼には及ばないよ。――この櫛は私が持ち帰り、さらに祓い清めるとしよう。」
銀翅は、いつも浮かべている笑顔に戻ると、櫛の入った箱を受け取り、速やかに本家へ戻りました。
そして、使用人を通じて当主への報告を済ませ、眠っている妻の顔を見、山へ向かいました。
「おかえり。――なんや、思ったより早かったな」
「ただいま。今回は楽に済んだよ。」
「まぁ、とにかく座り。」
十六夜は、病のせいか顔色の優れない銀翅を案じ、また労いの意味も込め、茶を淹れます。
「…あんた、妙なもん持って帰ってきたな。」
銀翅に近寄った十六夜は、直ぐに違和感に気付きます。
「私の家の者すら誰ひとりとして気付かなかったというのに、よく判ったね。…まぁ、君には直ぐ判ってしまっても無理はないか。」
してやられた、とでもいうように苦笑いを浮かべ、銀翅は懐から櫛の入った箱を取り出します。
「…何か憑いているらしいが、とりあえず札で、出てこないように封じただけの櫛さ。」
「ふぅん。」
十六夜は、珍しく、何やら興味ありげにじっと箱を見つめます。
「――持ち主は初めから手放すつもりだったようだから、それなら殺すのもどうかと思ってね。」
「…あんた…、いつか死ぬで。」
無茶ばかりして…と、十六夜は銀翅を睨みます。
「はははは。万人須く、いずれは死ぬものさ。」
しかし銀翅は、十六夜の言葉をさらりと受け流すと、ただ笑うばかりでした。
「…で、どうすんの、それ。」
十六夜は、そんな銀翅を横目で見つつ、問いかけました。
「動きを止めたままで、まずは話をするのさ。」
銀翅は、それがさも当然であるかのような口調で言います。
「…あんたほんまに、今までようやってきたなぁ…」
呆れているような、或いは称賛しているような声色で、十六夜は溜息を零しました。
「それは褒めてくれているのかな? 有難う、嬉しいよ。」
抜け抜けと銀翅は笑います。
「…。」
褒めてへんっちゅうねん、と言いたげな視線で、十六夜は銀翅を睨みつけました。
「何、最悪でも燃やせばいいのさ。――火なら、其処にあるしね。」
銀翅はその笑顔のままで、つ、と囲炉裏を指します。
「家の中でやるんかい。」
「駄目かい?」
「…。…………」
「――私の術で多少解りにくくしているとはいえ、外で火を起こすと目立ってしまうしねぇ。住処が私の家の者に解ってしまうのは、君としても避けたいだろう?」
「…わかったわ。勝手にしい。」
ち、と舌を鳴らして、十六夜は顔を背けるのでした。
十六夜の許しを得た銀翅は、そっとその箱を開け、櫛に貼りつけた札を剥がします。――と、またも櫛が震えだしました。
銀翅は櫛から片時も目をそらさず、印を構えて見つめました。
ほどなくして、音もなく姿を現したのは、女性の姿をした“何か”でした。
その女性は、銀翅に何かを伝えようと懸命に口を動かすのですが、その想いは声にならないようでした。――恐らく、銀翅が抑えているのでしょう。
声を出すことを諦めた女性は、何かを訴えかけるような視線を尚も銀翅に送ります。銀翅もそれを受け、見つめ返しました。
銀翅がぽつりぽつりと呪を唱えると、やがてその女性は観念したかのように目を閉じ、静かに消えてしまいました。
いつしか、櫛の震えは止まり、ふっ、と何かが出ていくような気配がしました。
「――どうやら無事に済んだようだ。」
銀翅は、珍しく緊張した面持ちを浮かべ、些か長い息を吐きながら、そっと櫛を箱に仕舞いました。
「…、前から思ってたけど――」
「うん?」
銀翅の手元にある櫛を見ながら、十六夜はぽつりと呟きます。それに応えた銀翅の顔は、いつも通りの笑みを湛えておりました。
「あんたのその札は、見せかけか?」
十六夜は、銀翅に視線を戻して、鋭く問いかけました。
「…まぁ、ね。――村人に対しても、私が何かをしている、と解るようにするには、道具を用いて魅せた方が手っ取り早いだろう?」
本当は、こんなもの無くてもどうにかなるけれど、と銀翅は苦笑気味に笑います。
「…。………どないやねん…」
十六夜は、銀翅の持つ力の大きさに感嘆します。
「まぁ、多少騙している事にはなるが、村人にも安心して貰えるようにするには、こうするのが一番なのさ。」
「…そっちやなくて…。あぁ…もうええわ…。」
十六夜はそう言いつつも、決して驕らない銀翅の振る舞いに、僅かにおそれを抱くのでした。
「――ところでこの櫛。女性の使う物のようだから、君にあげるよ。」
「は?」
「私が持っていても仕方ないし。…まだ使えるのだから使ってやらないと、それこそ罰が当たるよ。」
「…、人が神に説教してどないすんねん。」
「これは失礼。――ささやかな献上品として、如何かな?」
「…。…ふーん。まぁ、貰っといたるわ。綺麗やし。」
「お気に召されたようで何よりだ。――彼女もきっと喜ぶだろう。」
銀翅は、去って逝ったひとに向けた穏やかな笑みを、そのまま十六夜にも向けるのでした。
「それより。あんた、ただでさえしんどい思いして帰ってきてんのに、そないに力使うて、大丈夫かいな。」
「――大丈夫だろう。咳も出ていないし。」
「…あんたは櫛より鏡の方が必要か?」
己の身を顧みない銀翅を、十六夜はじろりと睨みつけます。
「え。いやだなぁ、己に見惚れてしまうような人間にはなりたくないよ? 私は。」
先程にも増して蒼白い顔色をしつつ、けれどもけろりとした表情で、銀翅は言います。
「どのツラ下げて言うとんねんド阿呆!」
十六夜は、一瞬拍子抜けしたような表情を浮かべましたが、直ぐに顔をしかめて言うのでした。
「はははははは。冗談だよ。」
「――阿呆抜かす余裕があるなら大したことあらへんな。」
「心配してくれて有難う。…明日に備えて、早めに眠るとするよ。」
「…。ほぅか。」
相変わらず顔をしかめたままの十六夜でしたが、少し気遣うような視線を銀翅に向けるのでした。
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