「不条理」と「因果応報」

どうしてこうなった。

 このところ、熱心に
 就活しているニートですアピールに、
 専念している私である。

 正直なところ、
 こうして「かわいそうな自分」
 アピールし続けていなければ、
 頭がおかしくなりそうなのである。

 一年前の今頃、
 本来失うはずではなかった職を失った。

 この一年の間で
 再就職をするために、
 職業訓練校にも通ったし、
 就職面接は20社近く受けた。
 応募そのものは、40社に手が届きそうである。

 それでも、
 就職は決まらず、
 今月からの収入は
 ゼロであることが決まっている。

 焦燥感は一向に鎮まることがなく、
 それを鎮めるために、
 不要不急の玩具や文具を買い、
 非生産的な行為に耽り、
 それでも
 後ろ暗い未来が近づいてくるのを
 確かに感じている。

 何をしても気が休まらず、
 だからといって、
 誰かを頼ることすら出来ないでいる。
 親を頼ることは、
 私にはできないことだし、
 友人や知人にはもっと頼れない。

 金の事は特に、
 誰かと貸し借りをするものではないからだ。

 アルバイトを探そうにも、
 就職活動をしながらのアルバイトでは、
 うまくいかないのではないかと尻込みして、
 明日の飯代を確保することすら、
 きちんと考えられていない。

 やり方一つ変えず、
 ひたすら正社員応募ばかりして、
 ただただ、

 「こんなに頑張っているのに、何故うまくいかないのか」

 「どうしてこんなことになっているのか」

 「どうして私がこんな目に遭っているのか」

 「私の経歴に傷をつけた会社は何故平然と営業を続けているのか」

 不平不満ばかり脳みそを埋め尽くし、
 正常な生命活動そのものを妨げていく。

 生きるアテがないというだけで、
 気がどうにかなりそうだ。

 どうにかならないように
 自我を保とうとして、
 僅かな生活の蓄えを食い潰す、
 欲の制御ができない己を、
 いっそ、殺してしまいたくなる。

 そもそも、
 私が生きようとしなければ
 こんな目には遭わなくて済むのではないか?

 一体これは、
 「不条理」なのか、
 「因果応報」なのか。

「不条理」


不条理
[名・形動]

1 筋道が通らないこと。道理に合わないこと。
 また、そのさま。「―な話」

2 実存主義の用語。
 人生に何の意義も見いだせない人間存在の絶望的状況。
 カミュの不条理の哲学によって知られる。

goo辞書

 類語に
 「理不尽」「非合理」
 
というものも存在するが、
 それらとの違いを
 以下のサイトなどを参考にしたうえで、
 「不条理」という単語を選択したい。

https://webtrue-buddhism.com/teachings/absurdity/

 引用の意味も含め、
 私の現状をひとまず
 「不条理」という言葉で
 納めておきたい。

 更に相応しい言葉があるのであれば、、
 それでもいい。

 とにかく今の私には、
 「現状を作った原因は私自身にある」と
 考えたくない側面がある。

 頑張っても報われない。

 応募数だけでは就職につながらない。

 職業訓練では大きなトラブルがあって、
 ロクに学ぶことができなかった。

 前職の上司が「報連相」を密に行える人物であれば、
 私はクビにならなかった。

 そもそも、
 前職の環境が整っていれば、
 精神的な負担を抱えることもなかったし、
 それが表出して休職し、退職につながることもなかった。

 そして「精神を病んだこと」により、
 再就職が厳しくなることもなかった。

 職業訓練に通う選択をしたのも、
 転職先に前職の職場を選択したのも、
 私である。
 それは認めよう。

 しかし、これらの結果は
 「私が望んだもの」ではなく、
 「私が想像できるもの」でもない。

 純粋に
 「ただ、そうなってしまった」という
 偶発的な結果である。

 よって、
「これらの問題の原因は
 私にはない」と思い込みたい。

 私はもたらされたこれらの結果に
 憔悴し、絶望せざるを得ない
 無力な存在なのであると曝露し、
 発信することで、
 罪悪感や責任感から免れようとしている。

 しかし、
 これらが「不条理ではない」と
 絶対的に言い切れるものもいないと、
 私は考えている。

 少なからず、
 私は外的要因に振り回されているのだから。

「因果応報」

人はよい行いをすればよい報いがあり、
悪い行いをすれば悪い報いがあるということ。▽もと仏教語。
行為の善悪に応じて、その報いがあること。
現在では悪いほうに用いられることが多い。
「因」は因縁の意で、原因のこと。
「果」は果報の意で、原因によって生じた結果や報いのこと。

goo辞書

 しかし、同時に
 私の力ではどうにもできない
 外的要因にのみ原因があるのか、
 とも考える。

 全ての行いの結果は、
 偶発的に得られるのみで、
 個人の行動に由来するものでは
 全くないと断言できるのか。

 異業種に転職するにあたって
 成果物の制作などに注力したか?

 就職活動を行うことだけを考えて
 勉強を疎かにしていなかったか?

 異業種への転職だけを考えて
 職歴を無視して転職活動を進めてこなかったか。

 ひとまずの安寧に甘んじて
 副業を進めていく努力は怠らなかったか。

 どれだけ少なくとも蓄えを用意して
 こうした不測の事態に備えることは
 ずっと前からできたことではなかったか。

 殊更両親に頼りたくないという理由を
 「毒親」という言葉のせいにしていないか。

 今を生き延びるために必要なことを
 本当にしているか。

 日雇いでも単価の安い仕事でも
 一銭でも身になることを行っているか。

 引用元にもあるように、
 「因果応報」とは最近、
 「悪行に伴う悪い結果」を差すために
 使用されるらしい。

 私もそのニュアンスで、
 この言葉を用い、
 ものごとを考えてしまう。

 あの時ああしていれば、
 この時選択を間違っていなければ、
 私の悪行のシワ寄せが
 今この時に訪れているのではないか。

 だから、
 副業の集客も満足にできていないし、
 noteが副業につながることもない。

 職を失って1年間、
 一念発起すれば出来たであろうことが、
 何一つできていない。

 種は蒔いたが、
 その後の水やりや手入れをサボっては、
 収穫は二度と期待できない。

 私は本当に
 「頑張っている」のか?

折衷案がない。

 こうした問題は大抵、
 「不条理」でもあって、
 「因果応報」でもあるのだろう。

 言葉の意味とは別に、
 理屈としては、おそらく、
 どちらも正しく
 「筋道を立てて説明すること」はできる。

 「不条理」と「因果応報」に
 分類して問題を再認識することもできるだろう。

 だが、
 前者は楽で、後者は疲れる。

 今の私には、
 やり方を変えずに続けて
 何かに責任を押し付ける方が、
 ずっと楽なのだ。

 それではダメだということくらいは、
 頭ではわかっている。

 やり方を変えなければ、
 この先もまた繰り返すだろう。

 まだ、自分の頭のネジの
 ちょうどいい締め方がわからない。
 メンテナンスがうまくできない。

 この状態で、
 私にできる最良は何だ。

 そうすれば、
 「不条理」を受容し、
 善行の「因果応報」を享受できる。

 金以外で、私に必要なものは何だ。

 金を使わずに、
 私に適度な褒美を与え、
 自我を保つ方法は何だ。

 「私は可哀そうなんです」と曝露して
 悦に浸って一日を追えるような
 愚かな真似はしたくない。

 早く、頭の中に、
 「あそび」を作らなければ、
 何もかも、満足に考えられる余地がない。


20230910 執筆
20230910 投稿

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