機械にも「あそび」が必要だというのに。

「あそび」がない。

 突然だが、
 現在の私の
 主な職業は「ニート」である。

 「副業占い師」などと
 宣ってはいるが、
 一般的なアルバイトほども
 稼げていないので、
 本来は「副業」と名乗るのも
 烏滸がましい話なのである。

 社会の制度にお世話になりながら、
 なんとか生活しつつ、
 求職活動も行っているが、
 職にはありつけないまま、
 もうじき一年経とうとしている。

 そして、
 社会の制度にお世話になる資格も、
 そろそろ失効する。

 最悪だ。

 職も決まらないのに、
 これからどう生きればいい。

 当然の言い訳をするが、
 なりたくてニートになったのではない。
 柔らかく言えば
 「会社都合により合意退職」。

 簡単に言えば
 「精神を病んだからクビ」である。

 尤も、精神を病むような会社なら、
 その上、その会社が
 「自社は社員が精神を病みかねない体制が続いていること」に気づき
 是正する気がないのなら、
 そんな会社はクビになっても構わない。

 強がりではなく、
 そう思っていることは事実である。

 しかし、
 この「精神を病んだからクビ」というのが
 とても厄介で、
 再就職を目指して活動する現在に至っても、
 「精神を病みそうだから不採用」
 
として付いて回ってくる。

 そういった意味では
 「よくも私の職歴に泥を塗ったな」
 という恨み事のひとつやふたつ、
 いや、
 百でも二百でも出てくるだろう。

 事実、
 本格的に求職活動を始めてから三ヵ月、
 30社以上に応募をしているが、
 内定など一社もない。

 転職エージェントからのフィードバック、
 職業訓練校の講師の反応、
 面接の感触から言っても、

 「精神を病んだからクビ」

 という経歴が、
 ボトルネックになっているのは
 嫌でもわかる。

 しかし、そのことへの理解と、
 私の生活の問題とは、
 話が別だ。

 かかりつけの医者からは、
 就職活動をしても問題がない状態と
 診断されているから、
 一般採用で応募するしかない。

 だが、世の中は
「一度精神を病んだものは、
 再び精神を病みそうだから不採用」
 としてくる。

 だから、
 私は職にありつけない状態が続いている。

 その上、
 社会の制度にしても、
 そういう人間を
 いつまでも庇ってくれるわけではない。

 ならば私は、
 これからどのようにして
 生きていけばよいのだ。

 家賃は?
 光熱費は?
 通信費は?
 年金は?
 社会保険は?

 年齢的にも
 アルバイトを転々としたり、
 派遣で食いつなぐ真似をするのも、
 限界がある。

 占い師がいい例だが、
 副業で身を立てられるほどの
 スキルがあるわけでも
 ツテやコネがあるわけでもない。

 実家には居場所はない。
 そもそも、
 私は生みの親は、
 私にとっての
 「毒」であると判断している。
 毒を摂取し続けて生きていくなど、
 二度と御免だ。

 しかし、
 このままでは私は生きていかれない。

 私は、
 私が望んで
 こんなふうになったわけではないのに。

 何もかもが理不尽である。

 世間様に責任転嫁して、
 全て投げ出したくなる。

 今の私には、
 「あそび」がなくて嫌になる。

 自虐を言えば、
 「時間」と「暇」には
 「あそび」はあるが。

 その「あそび」を楽しめない私が、
 私は大嫌いだ。


「あそび」

 「遊び」と検索すると、
 第一には「遊戯」「遊興」など、
 娯楽的で非生産的なものを示す
 言葉であると出てくる。

 しかし、
 私が言いたい「あそび」は、
 それだけではない。

 「余裕」を意味する方の
 「あそび」も含む。

 私には機械設計の経験があるのだが、
 そこで機械にも「あそび」が必要である
 
と学んだ。

 この場合の「あそび」は、
 機械が動いている間、
 膨張熱や振動などで
 余計な負荷がかからないように
 「意図的に設けられた隙間や緩み」
 
のことを言うらしい。

 無論、
 この「あそび」の加減を間違えれば、
 人命が危険にさらされることもある。

 適度な「あそび」によって
 機械は安全に作動
し、
 人間に恩恵をもたらす。

 要するに、
 「人間」にも「機械」にも、
 「あそび」という概念は重要
であるわけだ。

 それが存在することで、
 何ものも有意義な活動を
 続けることができる。

 それで。
 今の私は、どうだろう。

 何につけても余裕がない。

 心配事ばかりが頭を埋め尽くしていて、
 「あそび」を楽しむための
 「あそび」がない。

 頭の中に隙間がないから、
 本来やるべきことを考える
 余裕もない。

 隙間がないところに、
 無理やり「やるべきこと」を
 詰め込もうとするから、
 思考がうまく回転しなくなる。

 思考がうまく回転しないから、
 「やるべきこと」へ
 行動がつながらない。

 「私という機械」を
 うまく動作させるための「あそび」を、
 「設計者の私」が奪っている。

 私にそうさせている原因はなんだ?

 仕事が決まらないことか?
 生活のアテが定まらないことか?
 娯楽に使う金がないことか?
 持て余している時間を
 有効に使えていないと感じていることか?

 いずれも、原因と言えるだろう。

 しかし、何から解決すれば、
 私は「私が望む私」として稼働し、
 私は私を許すことができるだろう。


「ゆるし」と「あそび」

 機械設計における「あそび」は、
 「意図的な隙間や緩み」である
 と先述した。

 ネジもきつく締め過ぎれば、
 金属疲労で折れてしまう。

 ある程度の「緩み」があってこそ、
 ネジはその役割を
 果たすことができる。

 そして私は、
 私が私を「許すこと」で、
 私という機械が
 正常に稼働すると考えている。

 今の私は、私の頭のネジを、
 きつく締めつけ過ぎている
 自覚はある。
 このままでは、
 また折れてしまうだろう。

 適度な「緩さ」を、
 私は私に「許す」必要がある。

 言葉遊びをするならば、
 「緩し・許し」が
 「遊び」即ち「余裕」を生む。

 私が今、優先的にするべきことは、
 頭のネジを緩める方法を探すこと
 
なのかもしれない。

 その方法は、まだよくわからない。

 生活をするためには、
 悠長なことをしている時間がないのも
 確か
なのだ。

 生き抜くことを
 心配する必要はあるし、
 そのために行動する必要もある。

 だが、それだけを心配し続けて、
 疲弊している自分がいることも、
 同時に感じている。

 やるべきことだけをやるのでは、
 ネジをきつく締め続けているのと
 同じことである。

 頭のネジが再び折れる前に、
 私の適度な
 「あそび」を探さなくては。

 「精神を病んでクビ」にされた、
 一度壊れた機械とて
 また使える可能性はある。
 「精神を病みそうだから不採用」
 になどされ続けて堪るか。

 私が許せる私になるために。
 今の生活から
 一刻も早く脱するために。

 私だけが、
 私という機械を適切に
 メンテナンスできる。

 だから、もう少しだけ、
 頭のネジを緩めて
 頭の中に「あそび」を作ろう。

 やるべきことも、
 やるべきではないことも、
 心配事と時間と暇の多い今も、
 全て楽しむ「あそび」を持つために。


20230831 執筆
20230831 投稿
20230901 修正


今後の活動費として利用させていただきます。 ご支援いただけますと幸いです。