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#0183【まるで花火のように(樋口一葉、1872年‐1896年)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。
明治の女流作家特集のトリを飾るのは樋口一葉(いちよう)です。

現在日本の5000円札の顔となっている樋口一葉。
ちなみに戦後日本の紙幣で初の女性が採用されたものです。

樋口一葉については、目に触れる機会は多くあると思いますが、どんな人物だったのでしょうか。

彼女は、1872年5月2日(明治5年3月25日)に東京で生まれています。本名は夏子、戸籍名は奈津。本文では以下、樋口一葉に統一します。

一葉の祖父は、彼女が生まれる前年になくなっていますが、山梨の比較的裕福なお百姓さんでした。学問を好み、俳諧・狂歌(世評を風刺した俳句、和歌のことを)、漢詩に親しんだ人物です。

開国にあたっては、横浜開港に際して、生糸輸出事業にも着手するなど時代の変化に則した行動がとれる教養人だったことが窺えます。

一葉の父も農業より学問を好みましたが、一葉の母との結婚が認められなかったため、駆け落ち同然で江戸へと出ていき、つてを頼って下級役人になります。

1877年に警視庁勤めとなり、1880年には勤めのかたわら職権で手に入れた情報を元に闇金融や不動産売買などの副業で生計を立てていました。

祖父も父もなかなかのヤリ手だったといえるでしょう。

一葉はそんな父の次女として、生まれました。

一族の血でしょうか、彼女自身も学問、特に文学へと傾倒し、和歌や日本古来の物語などのや古典を学びながら、近代小説についても学んでいきます。

当時の学制制度における初等教育学校を首席で卒業するなど、優秀な力を持っていましたが、進学は認められませんでした。

一葉の母は、女性には学問は不要だと考えていたからと言われています。

一方で一葉の父は、彼女の文学的才能を見抜いていました。

名家の令嬢が通う歌の塾に通わせるなど、苦しい家計の中でやりくりしながら一葉の文才を伸ばす力添えをしていったのです。

この塾には、一葉の三歳上の先輩として、前回紹介した三宅花圃がいました。

花圃が女性初の近代小説を出版して話題になり、成功する様子を見て一葉も奮起します。花圃の助けもあり、様々な媒体に執筆するようになります。

しかし、生活は安定せず収入を得るために相場師になろうとしたり、駄菓子を売る雑貨店を開いたりと経済的には困窮していました。

ようやく1895年に彼女の小説が注目をあびるようになり、彼女の代表作『たけくらべ』が7回連載で発表され、翌年に文芸倶楽部という雑誌に一括掲載されると森鴎外や幸田露伴などから絶賛されます。

その後、『にごりえ』『十三夜』といった日本近代文学史に燦然と輝く作品を残しました。

これからますます文学者としての活動に精をだそうとした矢先、彼女の胸をコンと病魔がノックをしたのです。

作曲家の滝廉太郎や詩人・小説家の宮沢賢治などの明治の有名人を死に陥れた当時の不治の病、肺結核を患ったことが分かりました。

1896年11月23日。『たけくらべ』を発表し始めてから2年にも満たないうちに樋口一葉は24歳6か月という若さでこの世を去りました。

肉体としての彼女の生は終わりましたが、残した作品は燦然と近代日本文学史に輝いています。

以上、今週の歴史小話でした!

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発行人:李東潤(りとんゆん)
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https://note.mu/1minute_history/m/m814f305c3ae2
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