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#25 松平定信による反動政治と、そこからの更なる反動が生んだ化政文化

このエピソードで学ぶこと

田沼意次の改革は失敗に終わり、徳川吉宗の孫である
松平定信が、祖父と似た復古的な改革に手を染めます。
田沼意次の改革は全て水疱に帰してしまいました。
反動的な松平定信の政治について
学びましょう。

本編(0分49秒)

・商業を活性化させようとした田沼意次も度重なる天災などによって失脚してしまう。
・田沼政治の次が、徳川吉宗の孫である松平定信による寛政の改革。
・農業回帰の政治。農村復興のため、災害対策の積み立てをしたり
農村から流出して都市に流入してきた人たちを農村へ戻したりした。
・松平定信は朱子学を信奉して、原理原則主義を徹底していき海外の学問を禁止する。
・また天皇の実父、将軍の実父への特別称号付与を認めない姿勢を崩さなかった。
・6年で松平定信は解任され、その後徳川家斉による奢侈な政治が続く。
・幕府財政が悪化していくが、その一方で化政文化を育むという側面もあった。

今回のおさらい(11分28秒)

Q1:松平定信ってどんな人?
→徳川吉宗の孫でガチガチの朱子学、原理原則主義者。
Q2:寛政の改革で目指したことは?
→田沼政治の否定、徳川吉宗の時代への復古。
Q3:松平定信が京都の朝廷に介入した事件は?
→光格天皇の実父に太上天皇号を贈ろうとした件に介入し、認めなかった。
Q4:松平定信が失脚したあと、幕府はどうなっちゃったの?
→将軍の奢侈な生活によって幕府財政は悪化、放漫な政治が続く一方、化政文化が栄えた。

次回予告(12分15秒)

白河の 清きに魚の 住みかねて 元の濁りの 田沼恋しき
と歌われるほど、白河藩主松平定信が老中になってからの厳格で原理原則に基づいた
寛政の改革は、人々の心もキューっと引き締めてしまいました。
そのあまりの厳格さから天皇家・将軍家の不興を買った定信は、わずか6年で失脚。
その後を将軍家斉が政治のかじ取りを担いますが、奢侈な生活に拍車がかかり、
化政文化を育んだという側面がある一方で、幕府財政は悪化の一途をたどります。
日本国内が泰平のぬるま湯に浸かる中、ひたひたと諸外国が近づいてくるのです。
次回、迫りくる外国の足音。右往左往する幕府について学びましょう。

次のエピソード⇒#26_頻発する外国船の来航と二転三転する幕府の方針

前のエピソード⇒#24_商業の発展を背景に栄える文化と災害多発の田沼意次の時代


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