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#0249【好奇心を止められず(シーボルト)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。
今週は日本史に影響を与えた欧米人を紹介しています。

最後の今回は幕末手前の日本に来日し、幕末の日本に大きな影響を与えたシーボルトです。彼は1796年に現ドイツ・バイエルン州北西部に生まれます。

祖父にドイツ近代手術の確立者の一人を輩出している貴族の出身であり、シーボルト本人も1816年にバイエルン王国の貴族階級登録がされています。

彼自身は大学で最初は哲学を専攻していましたが、やがて家系の流れから医学の道を志します。

合わせて薬草研究などから植物学、その植物の分布を理解するための地理学等々に興味が進み、東洋学の研究へと興味が発展していきました。

医師となり、開業していたシーボルトでしたが、一介の町医者で終わりたくないという想いを強くしたシーボルトは、学術研究のためにも東洋に行きたいと考えます。

特に鎖国状態にある日本に興味を持ちますが、当時の日本は鎖国状態。西欧諸国で通商関係があるのはオランダのみという状況でしたので、オランダ人に偽って日本の長崎出島に1823年にやってきました。

立場は長崎のオランダ商館医です。

シーボルトのオランダ語は、長崎の日本人通訳よりも下手で発音も不正確だったことから怪しまれますが「自分は辺境出身なので訛りが強い」と言い抜けます。

1824年には、出島の外で鳴滝塾という西洋医学の学校を作ることが許され、長崎において診察も認められることになります。

この鳴滝塾にて多くの日本人が西洋医学を学びます。シーボルトは日本の植物を収集しています。

1826年には長崎オランダ商館長の随行員として江戸へと赴き、時の将軍に拝謁。江戸において多くの人物たちと交流をしました。また、長崎から江戸への旅の途中では日本の植物・気候等々の研究にも余念がありません。

1828年に帰国しようとすると、先発船から禁制品の日本地図が発見され、シーボルトは出国停止処分を受け、その後国外退去処分を受けます。

これをシーボルト事件といい、シーボルトの学校で学んでいた日本人たちも要注意人物扱いを受けるようになってしまいました。

シーボルトは、当初、帰国後数年したら日本に戻ってくる予定でした。

ヨーロッパに帰国後は日本学の祖として、日本滞在中に得た知識等々を整理していきます。

1844年には時のオランダ国王の要請を受けて、日本に開国を促す文書の作成に携わります。幕府はそのオランダ国王からの文書を無視します。シーボルト事件などを受けて、海外アレルギーが強くなっていた時期だったからともいえます。

シーボルトはペリー艦隊の日本渡航の動きをキャッチすると、自ら再来日をしようとしますが、オランダは国外退去処分を受けたシーボルトの派遣を認めませんでした。

結局シーボルトは、日本が開国し、1858年に日蘭修好通商条約を締結して国外退去処分が解除された後の1859年に再来日を果たします。

1861年には幕府に顧問として招聘されますが、日本の情勢分析をオランダ・イギリス等々に伝えている姿勢を嫌がられ、江戸からの退去命令を受けて1862年に帰国しました。

1866年、再々来日の希望を果たせず70歳で死去。

元々スパイとして来日したという説が根強いシーボルトですが、彼の日本への関心・興味は非常に強いものがありました。

シーボルトがいなければ、シーボルト事件もなく、もしかしたらペリーによる強制的な開国ではないオランダの説得による幕府の自発的な開国シナリオもあったかもしれません。

以上、今週の歴史小話でした!

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発行人:李東潤(りとんゆん)
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