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狙撃手と教職

最近(2022.6.10)のオーディブルは「同志少女よ、敵を撃て」です。
まだ半分も読んで(聴いて)いません。

文章中に、
・「狙撃スキルは狙撃手としての一部でしかない。」(教官イリーナ)
・「戦うための精神的な起点を持て。しかし戦場では忘れろ。技術だけを考えて撃て」(教官イリーナ)
・「牛を撃つときにかわいそうと思わないの?」(同期シャルロッタ)

のような会話がありました。
教職もけっこう似ているな、と思って記事を書いています。


○狙撃のスキル

「狙撃手の狙撃スキル」は、教師で言う「教え方の技術」でしょう。
分かりにくいところを、どう教えるかが、教師の腕のみせどころです。
教師の指導レベルが上がると「あえて分からないようにちょっと困らせて、意欲や学力を高める」などのワザもできるようになります。

狙撃手は、ただ要人を狙い撃ちすればよいだけではありません。
素早く、気づかれぬよう敵陣地近くに行き、自分でしっかり分解、整備、維持した銃を用意する。終わったら攻撃起点に戻る。
その日の風向、気温、湿度、標高、銃の状況、相手との距離(ミル)、弾道学などの知識も用いて脳内で瞬間演算して修正をかける。



○「戦うための精神的な起点を持て」

狙撃手は、起点を持たないと、戦場に行ってもすぐに死んでしまうそうです。でも撃つときには、その起点を忘れる必要があるそうです。


教職なら、「なぜ教師になったのか」みたいな。
私自身は、生徒と接している瞬間瞬間は、これを考えていません。目の前の生徒の様子や会話にほぼ100%集中します。
だからたまに「先生はなぜ先生になったのですか?」みたいな質問をされると、ちょっと焦ってしまい、自分でも笑ってしまいます。

「なぜ教師になったか」「なぜ教師を続けているのか」
というのはどんな教師でも、根幹にかかわるポイントで、私は月1回程度、問い直してメンテンナンスしています。



○「牛を撃つときにかわいそうと思わないの?」

狙撃学校で練習として牛を撃つ時に、すぐに撃てなかったシャルロッタに言った言葉です。


「生徒を(厳しく)指導するときに、かわいそうと思うだろうか?」

泣いてしまったりする生徒を見ると、「ああかわいそう。厳しくしたくないな。すぐに解放してあげたい」と、たまに思いますが、正直めったにありません。

彼彼女の過去、現在、未来のために必要な指導だからです。
いずれ誰かがやらなければならないことで、それを私(教師)が買って出ているだけです。
その指導をしない、「悪いことをしても指摘しない」ことこそ、本当の「かわいそう」です。

まあ、ここ最近の私は、「生徒に厳しくする」機会がめっきり減りました。
「怒る」「叱る」も、ほぼない。時代の変化ですね。
(もちろん牛と生徒を同列にしていませんよ。念のため。という注釈を書かなければならない時代)

それほど厳しくしなくても、理由や事実を述べて「普通に」指導すれば、それで十分に足りることが多くなってきました。
最近の生徒は自分で自分を勝手に厳しくする人たちが多いからです。むしろ教師がフォローしている。

このあたりは無限にnoteが書けるので、別の機会にします。


それにしてもオーディブル、いいですね。散歩がてら聴けるし、案外内容もよく覚えている。私はサブスク好きではないのですが、これは続けています。

ちなみに最初の写真は、インドに行った時のものです。

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