見出し画像

森田剛主演のショートムービーDEATH DAYSをレビューする

ネタバレありで作品の考察をしていますので未見の方はご注意ください。

2021年の11月1日を以てジャニーズ事務所との契約を終了した、森田剛。
独立後の仕事として最初に世に放たれたのが「DEATH DAYS」。この作品は、広告プランナーや映画監督として各種受賞歴のある長久允を監督・脚本に迎えて制作された短編映画で、YouTubeにて2021年12月30日0時から3夜連続で公開された。(現在YouTubeは削除済み、Prime VideoやNETFLIXなど各種配信サービス等で見られます)

短編映画DEATH DAYS(デスデイズ)の世界は、生まれながらにしてみな自分の死ぬ日「デスデイ」を知っている世界である。それが「何年か」は分からず日だけが分かるため、人々はみな毎年怯えながら、そして無事明日を迎えられることを祈りながら自分のデスデイを過ごす。

作中では、様々な人物たちのデスデイが描かれたり語られてたりしている。今日が最後の日かもしれないと怯えたり、情緒を崩したりしながらも、何とか平静を保とうと努めてじっと日付が変わるのを待ち、今年も生き延びたと分かった瞬間から安堵し幸福を噛み締めるのだ。



DEATH DAYSという作品について

まず全体的な印象の話だが、本作は「万人受け」や「流行り物」とは対極にあるような空気感を纏った作品だった。そしてそれは同時に「森田剛に似合っている」とも言える、そう思った。
猟奇的、哲学的、芸術的、これらは全てではないにしても、森田剛が関わった作品(映画にせよ舞台にせよ)に似合う形容動詞で、本作を形容するにも概ね当てはまる。

第一夜から第三夜まで通して常について回る違和感があり、端的に言うととにかく気持ち悪い。設定、ストーリー展開、画面の色彩や明度、間の取り方、サウンドデザイン、全てにどこか違和感が張り付いている。

第二夜の紀子のセリフに「世の中全部ねじれてんのよ何かしら」というものがあるが、これが個人的にはかなり印象深くて、監督もしくは企画側(MOSS)からのメッセージの主軸のひとつであるように思えた。


俺はデスデイなんて嫌いだ

話を読み解く際には繰り返し書かれている部分に注目するといいと国語で習ったので注目してみると、何度も繰り返されているセリフは「俺はデスデイなんて嫌いだ」である。当然デスデイとは死ぬ日なので、普通に考えて、デスデイが嫌いという人の方がそりゃ圧倒的に多いだろうと思う。

では主人公目線で改めて、作中で書かれていた様々なデスデイを整理してみる。まず身内については"弟"と"祖父"である。一般的に年齢が上がるにつれて死の可能性が高くなるのは当然で、それで言うと祖父の方は順当とも言える。しかし弟についてはまだ生まれて間も無くの赤子の時点で死を迎えてしまっているのでかなり悲しいデスデイだと言えるのだが、主人公本人の感情については、泣く描写も取り乱す描写もなくただ呆然とカメラを見つめるだけで、弟の死から何を受け取ったのか、何かを受け取ったのかは推測しきれない。

続いて知人である。
20歳の頃、深い交流があったと思われる本人を含む友人5人グループだが、そのうち2人が地震災害により死んだことをきっかけとして親交が途絶えたと語られている。

さて、最後は恋人である。
ここで初めて「幸せなデスデイ」の兆しが見える。主人公30歳のデスデイは不安に飲み込まれ取り乱しつつも、プロポーズというプラスのイベントを盛り込んだ。本人もはっきり「いい日にしたい」と口にしており、これまで描かれてきたマイナスイメージが強いデスデイからの脱却を試みているわけである。
そしてそこから約半年後の彼女のデスデイに結婚式を執り行い、この日は二人にとって幸せに満ちていた。しかし日付が変わる直前に彼女は死んでしまい、やはり「俺はデスデイなんて嫌いだ」とふりだしに戻る。

ここで注目したいのは彼女の最後の言葉で、「今日がデスデイで良かった」だ。これがデスデイという無情な理への足掻きなのか純粋な本心なのかは分からないが、一般的にマイナスとされるものをなんとかプラスに転換しようと抗うような姿が状況の残酷さをより際立たせている。


今日も死んでなくておめでとう

「みんな死んでばっかだ」から展開されていく最終章の第三夜では、初めてデスデイ以外の日が描写されている。紀子の死を受け生きる意味を見失った主人公が自分の人生を終わらせようともがく姿が描かれる。しかしデスデイではないが故に尽く自殺には失敗し、主人公は自分のデスデイを待ち望むようになる。
心待ちにしていた次のデスデイ、荒みきった部屋の窓枠や空調に目張りをし、予め用意してあった練炭らしきものに火をつけ、「やっと死ねる」と主人公は目を閉じる。10歳のデスデイに本人が語った「死んだように寝たい」というセリフが思い起こされる。

第三夜の後半からはストーリーの大きな種明かしだ。エンディングではようやく不気味な深いモスグリーンの部屋から解放され、それだけで視聴者は、ようやく狭い箱から出られたような極上の解放感を覚える。
種明かしセクションでの"先生"と"編集担当"との会話は、製作側のメッセージをかなり噛み砕いて落とし込んだ部分だと思われる。「愛しいって思えるじゃん、この瞬間がさ。死ぬから逆に」というこのセリフがおそらくこの短編映画の本質で、「死」を意識した瞬間に「生」が浮き彫りになり、生きていることが愛おしく感じられる。そしてつまりは最後の「今日も死んでなくておめでとう」に終結するというわけである。

個人的な好みの話のような気がするので書くべきかどうか迷った話を置いておく。主人公(先生)には最後に背後からトラックが突っ込んでくるなりして死を迎えてもらい、「人はいつ死ぬか分からない」という当たり前で無情なメッセージを再度突きつけてきて欲しかったので、無事に生き延びてしまって「そこまで攻めてはくれないか…」と少ししょんぼりした。こうして改めて言葉にすると自分はサイコパスなのかと心配になる。


「節目」と「それ以外の全ての日」

私がこの短編映画を見始めてすぐに連想したのは、「節目」だった。一年の中での節目といえば皆想像するのはおそらく、一番が新年、その次が誕生日、そして他にも個々人により大切にしたい記念日はたくさんあるだろう。

例えば年末、新年が近付いてくると心がソワソワし始める。「何かやり残していたことはないだろうか」「今年のうちに片付けるべき事柄はなかったか」、そう思いながら急に焦って何かを頑張り始めたり。そして日付が変われば新年の目標なんてものを定めたり、心持ち新たにと気を引き締めたりする。しかし正月ムードも終わり、月日が流れるうちに、定めた目標や心構えなんかも次第に薄れて忘れ去ったまま日々を過ごしてはいないだろうか。そしてまた「年末」というものが目前に迫ってきたとき、1年前と同じようにソワソワとし始める。

デスデイもきっと同じなのではないだろうか。
自分のデスデイが目前に迫ってくると、「もし今年死ぬとしたら」「やり残した事はないだろうか」「1年間しっかりやってこれただろうか」とソワソワし始め、今日が最後だったらと怯えながらデスデイを過ごす。そして日付が変われば生き延びたことを喜び、生に感謝し、祝福する。しかしこの幸福感も日が経てば薄れてゆき、何気ない毎日が過ぎてゆく。そしてまた自分のデスデイが目前に迫ってきたとき、同じようにソワソワするのだろう。

満遍なく日々を大切に積み重ねていければ一番良い。しかし往々にして人は怠けたり忘れたりしてしまうもので、定期的にそれを引き締め頑張り直すために「節目」を設けるのだろう。
しかし「果たして、その日ばかりに囚われすぎるのはどうなのか」というような、そんなことが心の中に浮かんだ。


あとがき

私はあまり節目を気にしない性格である。
実はこのくだりを書いている今は大晦日の19時過ぎで、もうすぐ一年が終わりを迎えようとしており周りの人々はどこかお祭り気分とでもいうように浮き足立っているのだが、私はひとりパソコンに向かってひたすらDEATH DAYSの考察をしているわけである(全部書き上げたのは年明け4日になったが)。
実は昼頃に「来年はもっと文章をたくさん書く年にしたいな」なんて新年の目標っぽいことがぼんやり頭の中に浮かんだのだが、文章が書きたいんだったら別に来年まで待たなくても、今始めればいいのでは?と思い直して、今に至る。

年の瀬、そして年明けに大きな衝撃をもって世に放たれたDEATHDAYS。「死」という重いテーマを扱いながらも、エンディングには道化にも近しいような軽妙さで締め括るバランス感覚の良さで、見た者の心の中に確実に何かを残しつつ爽やかに幕が閉じる。

自分はV6のファンであり、そのおかげで森田剛という人を追いかけていてこの作品を知ることができた。日本において、ある程度の知名度を誇る芸能人の出演作では、各方面のいろいろなものが絡まり合って平均点しか出ないようなことが珍しくない。そんな中でしっかりと芯の通ったこの作品が生み出されたことを喜ばしく感じるし、どこかで然るべき評価がされることを願って止まない。


余談

フィクションの中のフィクションの考察にはなってしまうが、31歳のデスデイに主人公はなぜ自殺に失敗したのか、という点について自己満足メモ書を残しておきたい。

煉炭に火をつけて目を閉じた主人公が見る幻想の中、10歳の頃の自分、そして相田と河内との会話については、おそらく自分自身の内面の葛藤であり主人公自身の人生観、潜在記憶などが入り混じり、登場人物を通して言語化されたものだろう。しかし妻・紀子に関してだけは実際の出来事だったと仮説を立てたいと思った。
主人公は部屋を密閉するため空調などにガムテープで目貼りをする。しかし窓が開いていたために自殺に失敗した。筆者はリアリストであるため、霊的な何かが窓を開けたとは考えられなかった。ではなぜ窓は開いていたのか、と考えたとき、6月11日からずっと窓が開いていた説というものが頭に浮かんだ。あの日紀子が窓を開けたのは事実で、その日からずっと閉められずにいたのではないか、と。
6月11日は挙式の日で、この日の描写の中ではっきりと窓が開いているかどうかは確認できないのだが、カーテン越しのシルエットが解錠しているようにも見える。寒さや雨雪を気にせず12月まで耐えられるのかという部分に関しては、主人公の精神状態がもう普通ではないので十分にあり得る話だろうと思う。

彼女が開けた窓を閉めることができないまま、その窓が開いていることすらも忘れて、最終的にそれによって命拾いしたと考えると、儚くも美しくはないだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?