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映画「白蛇:縁起」の感想と考察

別に民話にも中国史にも詳しいわけではなく色々調べながら自己満書き殴りしてるだけなので、むしろどっか間違ってたらどんどん教えて欲しいです。


白蛇を上映している最寄りの劇場まで車で片道3時間かかるうえ、夏は仕事の繁忙期のため休みが取れなくなってしまうので、公開初日に無理やり休日を取り、見溜めすべく、4時起き日帰りで朝一からラストまで劇場にこもって白蛇:縁起4回連チャンしました。
4回も見れば流石にいろいろ覚えてるし、結構細部まで理解できてきたので、忘れないようにメモし始め追記に追記を重ねてこのnoteに至ります。ちなみに常に思いつくたびに追記編集してます。



■■自己満エセ考察■■

┣ 時間の流れ

本映画は、宣に助けられた白がおばさんの家で目を覚ました日を1日目とすると、大戦(別れ)の日が5日目となる。
宣が白を見つけた時間帯、落水から救助までの日数、白が眠っていた日数などは不明なので、国師暗殺の夜から起算して何日間の物語なのかは不明。
1日目:白が村で目覚める
2日目:白が倒れていた滝に行く、傘で飛ぶ、道士が2人を探しに来る、宝青坊を目指し旅に出る
3日目:船で川を下る、チャンパンの襲撃、凍りそうな白を塔の中で温める
4日目:宝青坊を訪れる、青との再開、地下の寺院、白が宣と決別、道士と戦い大蛇になる
5日目:大戦勃発、別れの日

┣ 人間も妖怪も、なぜ修行を重ねるのか

人間(国師)→蛇精の力を集め仙術を極めて不老不死の術を得ようとしている妖怪→妖怪同士が争う世のため、強くないと殺されてしまう。鍛錬を積めば容姿を変えることもでき、仙術も使えるようになる。国師が蛇狩りをしているせいで、蛇族たちは強くならないと負けて殺されてしまう&国師を倒すため修練を積んでいる。

┣ 仙人とは何か

道教(古代中国の民間信仰を起源とする自然発生的宗教。日本における神道のような位置付けに近いもの)における、理想とされる存在。神通力を使う不老不死の存在。神に近い存在。常に精神の調和を保ち、気を操ることで不老不死を達成する。

┣ 保安堂とは何なのか(考え中)

「どうして保安堂にしたの…?」と白がどこか不安そうに問いかけている、この「保安堂」という名称には一体どんな意味合いが込められていたのか。現代において保安堂というと台湾にある日本と縁の深い廟であり、当然この唐の時代にこの廟は存在しないが、看板は酷似している。
ちなみに唐王朝は平たく言って日本のことを見下してる(たぶん)。

┣ 奇門遁甲と占星術(考え中)

国師が使っていた遁甲盤、保安堂に置いてあった遁甲盤、地下の寺院で八門の中から出口を導き出した理屈、国師の術の中に浮かぶ星座から逃げるべき方向を導き出した理屈(占星術?)

┣ 映画中の表現ではお札=良くない術を表すものとして描かれている

1.白が修行中に「邪道」に堕ちそうになっていたとき、桃色の花びらが黒いお札に変わり、そこから無数の黒い手のようなものが出現して白を捕らえようとする。映画冒頭(500年後)の修行中の白が「邪道に落ちそうになっていた」と言った際の精神世界の描写で出てきた黒いお札と黒い手は、この時の国師の術の記憶だったのだと思う。
2.妖怪となった宣が民を救うため村に戻ったとき、国師の放った金色に光るお札によって宣は拘束されてしまう。
3.妖怪の魂を葬るために国師が発動した術でも黒いお札が用いられている。宣が駆けて行く際に舞い上がったお札が、瀕死状態で横たわる国師の顔面に触れて何かしらの術が発動するような描写があるため、これが物語クライマックスの術の暴発に関連している説も考えられる。

┣ 国師はなぜ村へ来たのか

自分を殺そうとした刺客(白)を探し出して殺すため&よりたくさんの修練を積んだ白の力が欲しかったため。

┣ 道士はなぜ嘘をつき国師を村に向かわせたのか

国師暗殺失敗の夜に白と刃を交えたのは道士であり、身をもってその力の強さを知っていたからこそ、自分で白を倒してその力を我がものにしたかった。あと、かんざしの能力を知りたい&我がものにしたかった。そのために白がもう村にいないことを知りながら国師を村へ向かわせ、力を独り占めしようと白を追った。
↑解釈合ってる?

┣ 蛇たちの拠点は蛇狩りの村の近くだったのか

国師は白を追って「蛇狩りの村」に向かっているはずが、蛇たちは「こちらに向かっている」「襲撃される」と思い込み、黙って滅ぼされるぐらいなら総力を上げて応戦しようと決意する。これは蛇母の戦略か?
蛇狩りの村を滅ぼし、国師の力を奪い取り、仲間達の力を全て自分に取り込む、これをまとめて成し遂げるために蛇母は大きな戦乱を起こしたかったのか。

┣ 国師が死んだ後、術が暴発したのは何故か

術の発動条件自体は陣であり、国師が自分の匙加減でどれくらいの強さで発動させるか制御していた説。術者の死去によりブレーキがなくなり最大パワーで術が発動したのでは

┣ この物語における「氷」とは何か

船の上でチャンパンの襲撃に応戦し妖怪の姿になった白は、その場ですぐに意識を失って冷たくなってしまう(パンフレットの内容には「命の危険に晒されるほどの傷を負った」とあるが、4回見ても白が負傷したようには見えなかったのだけれど…)。彼女が眠り続けている間は周辺が凍て、彼女自身もその寒さにより命を脅かされているような描写である。宣は、白が自分の苦手な蛇であることを知ってもなお「彼女を一人にしない」と言い切って火をくべ、自らも氷点下の中で白を抱きしめ、彼女を温める暖となる。その結果、翌朝には周囲の凍て付きはなくなり、白は意識を取り戻すとともに宣の優しさに触れて心を開く。一連の流れから、このシーンの「氷」については白の心の寂しさや孤独を表しているように解釈できないこともない(自信なし)。
物語終盤の国師の術が暴発した際にも、一帯はどんどん凍り付き、生き物は魂ごと闇に葬られてゆく。宣と体を重ねた直後に白は、「石像に抱かれるのも悪くないでしょ?」という青に対して「石像は冷たいわ」=人肌は温かい、誰かと通じ合っていたいという気持ちを露わにしているが、最終的に、彼女を抱く宣は冷たい氷になってしまう。恐ろしく無情なストーリー。やはり「氷」は孤独を表しているようにも思える(あやふや)。
しかし「氷」を孤独と解釈してしまうと、心が通じ合った宣と白は孤独に打ち勝てなかったことになってしまうので…何かもっとしっくりくる別の解釈を探したい。

┣ 宝青坊の主は本当に宣を妖怪にしたのか

妖怪になる引換条件として精気(正気?)を抜かれたわりに、宣の様子に以前と大きな変わりはなく、目立った術も使えないので、本当に妖怪にされたの?と疑問に思ってしまう。でも身体能力は飛躍的にアップしているし尻尾の件もあるので軽く犬とミックスぐらいはされているようで、一応ちゃんと妖怪ではあるのだと思う。宝青坊の主の気まぐれか遊び心か、「精気を抜こうが抜くまいが、たかが人間の青ガキがどうせ大したこともできないんだし」ってどうでも良くなったりして適当に対応されてたりしたらいいなって思う。

┣ 白の「やりたくないこと」とは何だったのか

滝を見て国師暗殺の夜を断片的に思い出した時に、宣に向かって「やりたくないけどやらなければならないことってある?」と聞いているので、国師暗殺は「やりたくないこと」だった可能性が高い。
人間と争うこと自体に反感を持っていた説。宣も言っていたように、争っても世は良くならない、何のために犠牲を出すのか疑問を感じていたのではないか。それでも一族(種族)のためには人間と戦うほかなく、しかし、人間を殺そうと血気盛んな同族たちとも心からは分かり合えず、深い孤独の中にいたから、すべてを投げ打って自分のことを思ってくれる宣が特別な存在になった。

┣ 大蛇になった白にずっと自我はあったのか

力の強大さに負けて我を忘れたりしていたのか、「やりたくないけどやらなきゃいけないこと」だと腹を括って自分の意思でやったのか
→愛する人との別れを決意し、その直後には、自分が「かわいそう」だと言った罪のない民を自らの手で傷付け、悲しさや苦しみを心の中に押し込んで「やらなきゃいけないこと」だと腹を括り、追ってくる宣に取り合おうとせず国師を殺すために進み続ける白。そうして力を振るっている最中でも宣の言葉は理解していたし、宣が舞わせたたんぽぽの綿毛を見て、岩に体を打ち付けながら苦悩していたので、基本的にずっと自我は保っていた説。
決別を決めたとはいえ、それも宣を危険に巻き込まないためだし、最愛の人に自分の残酷な所業を見られることは辛かったはずなので、もう、こんなの、やけくそにもなると思う。天の理ってなんだよ!!定めってなんだよ!!!!!!(大泣き)

┣ 国師を打ち倒したあと、蛇たちが全員で村を襲おうとしたのは何故なのか

「裏切り者(白)を殺せ、人間を殺せ、村を滅ぼせ」で決起してやってきたのに、傷付いて倒れている弱った白を後回しにして村に向かったのは何故なのか
→裏切り者(白)に対してみんな反感を持っている感じが強く出ていたので、この状況であれば真っ先に白にトドメを刺しに行きそうなのに、一行は迷わず村の方を襲撃しに向かった。演出上そうした方が良かったか、白よりも村の方が近かったか、白が国師と闘う様子を実はみんな見ていて「白は同族を裏切っていない」と理解し許したか。

┣ 素敵なことだけ覚えていればいい

国師暗殺に失敗した白は自分が何者なのか一切の記憶をなくす。そして宣と出会い、永州へ下る船の上での宣の「忘れたほうが良いこともあるさ」というセリフ。そして辿り着いた宝青坊で、かんざしの能力を使う反動で記憶をなくす可能性があることを知る。この物語の中で「記憶」は重要なキーワードの一つである。
物語クライマックスで宣は「覚えてる?たんぽぽのこと、船のこと、あの夜のこと」と白に問いかけるが、これは、出会った時に白が記憶をなくしていたこと、かんざしの力を使うと記憶を無くす可能性があることから、白がもう自分との記憶を何かしら失ってしまっているのではないかと考えたことから発せられた言葉であると推測できる。また、戦いに身を投じる決意をした白にとって、自分と過ごした思い出は忘れるべきものに分類されてしまったのではないかと心配していた可能性も。
そして問いかけに対して白が「覚えてるよ」と答え、宣は「覚えてる…よかった」と言い残して落命する。
人生は辛いことも多いが、素敵なことだけちゃんと2人で覚えていられたことを確認し、それを受けて宣の人生は「よかった」で幕を引くのである。無理

┣ 雨

転生を繰り返した500年後の宣(許宣?)は「物忘れ癖」があるらしく、雨が降っているにも関わらず傘を忘れて街を歩いていく。晴れているならまだ「物忘れ」で済まされるが、雨に打たれていて傘の存在を思い出さないのは不自然である。
物語の中で他に雨が降っているシーンは、青の襲撃を受けて白と宣が地下の寺院に迷い込む夜のシーンで、こちらの1つめの雨のシーンが「別れ」であるのに対し、転生後の雨のシーンは「再会」であり、制作側にそこまで意図はないかもしれないがエモい。
民話「白蛇伝」で白娘子と許宣が出会う断橋のシーンでは白娘子が大雨を降らせるので、再会のシーンはただその描写に寄せただけの可能性も。

┣ 川

転生した宣を探しに行くという白に対して、青の「忘却の川を何度も渡っていて、向こうは覚えていないんだよ」というセリフがあり、その直後の再会のシーンは舞台が橋の上である。すれ違って川を渡ろうとするが、白たちはかんざしを落として宣を引き留め、川を渡ることなく再会を果たす。そして「お嬢さん、どこかでお会いしたことがありますか?」「話すと長くなりますが」が本編最後のセリフである。「忘却の川を渡る=記憶をなくす(輪廻転生の際には前世の記憶を失う)」だが、川を渡り切らず橋の上で再会を果たして、記憶はなくても魂が覚えているということをより強めて見せている。
ちなみに民話「白蛇伝」で白娘子と許宣が出会うのは杭州の断橋であり、このシーンは白蛇伝を象徴するともいえる重要な場所である。

┣ 傘は何を表しているか

民話「白蛇伝」において傘と雨は、白娘子と許宣が巡り合う際の重要なシンボルである。
本映画で傘は、宣の手によって生み出され(滝の下で白を見つけたとき宣は傘を作っていた)、初めて2人が心を通わせる(手が重なる)きっかけとなり、しかし一度は捨て置かれ(木にひっかけてそのままにされる)、それでも映画の最後には宣の手に戻ってくる。この物語において傘は、2人を繋ぐ「赤い糸」のようなものだったのではないか。

┣ 恋は千年を超えたのか

映画を見終わって、少し冷静になれた人たちが口を揃えて問題提起しているこの議題。本作で描かれた宣と白の5日間から修行中の白が記憶を取り戻し再会するまでが500年。ここで結ばれたのならば、500年の恋である。
しかし本映画のテーマは、千年「を超える」恋なのだ。超えて今もなお続いているか、本映画の5日間より前から始まっていた、もしくはこの両方と考えるのが自然だと思う。
現在中国で公開中の白蛇2:青蛇劫起は予告を見る限り現代の話であるし、青が主人公とはいえ「白蛇2」なので、白に関係がないわけがない。白蛇2まだ見てないけど、つまりこれは今もなお続いてる説はほぼ確で良いと思っている(勝手に断定)。唐時代の終わりが900年頃なので、今も続いていれば正真正銘1000年を超える恋である。
白蛇:縁起で描かれた5日間より前から始まってた説の方だが、これはまあ判断材料が少なくて考察のしようがないというか妄想の域を出ないけれど、縁 -YUÁN-の歌詞を読めばもうこの通り、宣と白の恋は何度も巡り合う縁の話なのである。これより前世で出会っていたと仮定してもいいのではないか。

┣ 宣が白に全てを捧げる動機

蛇狩りの村人たちの「見たかあの綺麗な子」や、青の「姉さんの美貌に惑わされただけ」といった台詞からも白の美貌が人並外れたものであることが強調されているが、宣は最初から、白の見た目に酔ったり照れたり見惚れたりするような素振りを一切見せていないと思う(見落としてなければ)。このことから、単純に見た目だけで恋に落ちたのではないと推察することができる。では宣はなぜ、滝の下で助けただけの見ず知らずの美女と共に追手から逃げ、危機から彼女を守り、全てを投げ打つまでに至ったのか。

白の憂い:国師は私欲のために民に重税を課すor蛇を納めさせるという暴君っぷりで、しかし力のない平民たちは権力に抗うことができずにいる。そんな時代や境遇の理不尽さを、知識によって打破しようとしていたのが宣である。「運命が決まっているにしても、自由に生きていきたいから」や「人生は辛いことが多いって言うし」と語る彼の言葉には時折どこか憂いというか重さがある。さらに作中で彼の血縁者の存在が一切描写されていないという"引っかかり"からも、彼の今までの人生が恵まれた一重にあたたかなものでは無かったであろうことを感じさせる。「やりたくないけどやらなければならないことってある?」と問う白の憂いに自分を重ねたのではないか。

知的探究心:物事を多角的に捉えようとしたり、与えられた役割に嫌々甘んずるのではなく、勉強によって見識を広げ手段を増やそうとする宣は、科学者的な気質があるように思う。出会ったばかりで素性のしれない女性を助け一緒に逃げるに至るには、間近で見た白の仙術やかんざしの能力の謎をもっと深く知りたいという知識欲が手伝った面も多少はあるのではないかと思う。

直感:あとはもう、理屈ではない何かの存在である。俗に言う「恋」や「運命」など、論理では太刀打ちできない強い直感的な何かに誘われていったんでしょう…。どちらかというと理系で頭の冴える宣だからこそ、理屈ではない何かに駆り立てられ命を懸けて白を守ろうとする姿に…こちらも…より胸が…

┗宣とは一体何者だったのか

妙に頭が良く、またこの時代の一般的な感覚とは少し違った感性の持ち主である。そして登場シーンや崖を登るシーンから分かる、高い身体能力。外見と人柄の素朴さ、そして妖怪たちに吹っ飛ばされがちなので見落としがちだが、彼は人間としては恐らくかなりのハイスペックである。宣とは一体何者だったのかと考え始めたときに読んであまりの尊さに頭を抱えたのが下の考察なので、ぜひ読んでみてもらいたい。宣の捨て子説、前世の宣は仙人だった説のくだりはもはや敬服合掌って感じでした。私もそれ推したい…!


■■感想■■


息遣いがやっべえマジで上手い無理すごい
佐久間さんの声に聞こえない所とかあって、本当に本当にすごい
「佐久間さんの声なんだ」と感動するも、あまりにも上手すぎてすぐ誰が演じてるとか忘れて普通に見入っては、5分おきぐらいに「あっ、これ佐久間さんなんだってば!!!」って思い直す、というのを上映中ずっと繰り返してた


佐久間さんは勢い付け、焦り、驚きなどの文字にされないアドリブ系がマジですっごい、すっごい上手い。あと広い空間とか遠くから叫ぶ系


白の仙術により傘で飛ぶシーンの、宣の焦り→驚き→感動の演技が本当に凄くて大好き😭
「飛んでる…!?」

「これが風に乗るってことかぁ!」
が良すぎて(上手すぎて)感激しながら見てた


劇中歌があるということは把握してたし、楽しみにしつつ、ヤバイでしょうねっていう覚悟は十分にしていったつもりだった。永州へ向かう船で「俺が歌う」って言われた瞬間に「きた…きてしまった…」って構えたけど、宣の舟唄は、オタクのいろんな不純な動機や感情を全て一瞬で溶かして浄化してもなおあまりある尊さだった。たった16小節の短い舟歌を聴きながら、私はこれだけのためにお金を払えると思った。

初回から当然ホロホロ泣くんですけど、2回目からはボロッボロに泣く。当然ラストに想いを馳せて。「教えようか」「お願い」って言われた瞬間にもう涙腺の蛇口ぶっ壊れる


悠木碧ちゃんヤベェとは聞いてたけど、声優に疎いManの私はピンときてなかった。でも宝青坊の主はマジでヤバヤバだった。声も素晴らしいし、もう総合的にキャラクターが良すぎる。心から、なんて魅力的なんだろうと思った。妖狐が面にきた時がより妖しくて残酷で本当に好きすぎる。フィギュア欲しい。
→叶った!!!夢叶ったね!!!!
フィギュア全体ポチしました。



人間と妖怪の恋、1000年を超える恋、輪廻転生とテーマを聞いただけでストーリーの大筋は予想がつくし、「つまり今世では結ばれない悲恋ものなのだな、妖怪は長生きするし人間は寿命があるからそら当たり前やんな、来世でも巡り合うんよな」っていう気持ちで見に行ったところ、大きく2回ぐらい予想を裏切られて私は39万キロぐらい吹っ飛んだ
まず1つ目は、「宣が妖怪になる」というのが想像もしなかった展開で心底ビックリした。視聴者側もまだ「えっ妖怪になっちゃうの!!?それってなんかヤバいことないの?ちょっと待って大丈夫?」って困惑しているうちに、宣は覚悟を決めてしまう。普通であれば怖気づくところだが、宣に迷いはなく、真っ直ぐな性格、そして決意の固さがより浮き彫りになって見えたシーンだと思う。
そして2つ目は、宣が寿命ではなく戦いの中で死んでしまうこと。予想外の展開で宣が妖怪になったので、寿命で死別しなくて良くなったやん!え、このまま1000年一緒にいられる?それとも記憶なくしたりして一回離れ離れ?って思ってる中で、戦闘中の負傷でまさかの落命。本当に本当に予想外すぎて無理だった。こんなの泣くしかない。宣と白、まだ出会って5日です。
いくら来世で再会できるとしても、これほどまでに心が通じ愛し合える相手に出会い、2人のこれからの明るい未来が思い描けたところで今生の別れ。何もできないままでの別れ…もうあまりにも悲しくて切なくて…。白を抱いたまま息絶えて氷になった宣の姿と、満身創痍でろくに動けもしない状態で必死に宣の魂をつなぎ止めようとする白の姿は何度思い出してもトラウマレベルに悲しくて残酷で芸術的。そしてここで回想される舟歌。思い返したら涙の滲む作品はよくあるけど、こんなに何度でもボロボロ大粒の涙が溢れる作品はたぶん初めてです。


あらすじも書いてますのでよければ↓


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