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覚醒illegal #3

由荼(ユダ)ちづるが助産師を志し始めたのは、17の女学生時代だった。
きっかけとなったのは、当時テレビで放送されていた育児のドキュメンタリー番組を観たことだと本人は記憶している。命が誕生する瞬間に感銘を受け、自分もその場に立ち合いそして手助けをしたいと当時の由荼ちづるは色めきだっていた。自身は結婚や家庭に興味は無かった。色恋沙汰にもどこか疎く、恋人を欲する気持ちもロクに生じず、その為他人に時間を割く必要も無く、資格取得への勉強に専念する期間に身を置くまでは実に円滑的だった。それなりに集中力も高く、頭脳レベルとしても学級内で中の上程度を常に保っていた由荼ちづるが数年後資格を取得することは、本人をはじめ、周りの人間の誰にとっても至極自然であった。
しかし由荼ちづるが得たものは、助産師の資格だけではなかった。
"それ"が自分の身体に宿っていると知ったのは、助産師になってからさらに数年後の春、25歳になった頃だ。実際にはいつから宿っていたのかなどは知り得なかった。学生の頃か、幼少期か、産まれたその日からか、産まれる前からか。
由荼ちづるは"それ"に名前をつけなかった。元々漫画をよく読んでいたので、それらしい名前をつけてみようかとも思案したが、面倒になりやめた。のちに"それ"を見破った或る男には「名前はつけておいた方がいい。なにかと便利だ」と助言された。男は由荼ちづると同じ病院に勤務しており、確かな腕を持つ名医として信頼を置かれている脳神経外科医だった。
「はじめまして由荼くん。私は救世(クゼ)だ。よろしくね」
救世が由荼ちづるに初めて接触をしてきたのは、由荼ちづるが"それ"の存在に気づいてから3日後の午後、職員用の食堂だった。食堂で一番人気の野菜カレーを無心で頬張っているところに、同じく野菜カレーを載せたトレーを抱えて彼は現れた。その食堂の野菜カレーは、いわゆる一般家庭で育ってきた人間なら誰もが懐かしむ味わい深さがあり、まろやかで程よく辛いルーに、季節ごとに替わる旬の野菜がふんだんに使われ、その時期は蝉時雨が降り注ぐ血色豊かな真夏だった為、ナスやトマト、かぼちゃなど、ツヤやかな身体を大ぶりに切り刻まれた夏野菜たちが、どろどろに溶けたルーで溺れ、銀色のスプーンによる掬いを今か今かと待ち侘びていた。
明らかに常人を逸し、化け物じみた"それ"が自分の身に宿っているというおぞましい事実を知った晩は、由荼ちづるでもさすがに身の毛がよだつ想いに駆られて、大好きな風呂にゆっくり浸かることも出来ず、ただでさえ暑い熱帯夜だというのに布団にしっかり包まってとにかく孤独な夜を耐え忍んでいたが、わずか3日経った現在では由荼ちづるは存外ケロッとしており、大好きな野菜カレーを無心で頬張り、変わらぬ美味しさに時折小さく頷くなどしていた。少し日を置いてから"こいつ"との付き合い方をじっくり考えていけばいい。とりあえず今は野菜カレーが美味くて仕方がない。幸せだ。嗚呼幸せだ。由荼ちづるに焦りは無かった。
そこで例の男、救世の御登場というわけだ。
「ここ、いいかな」救世は健康的な白い歯をチラつかせて由荼ちづるに訊いた。
「あ、どうぞ」最初は戸惑いを見せる由荼ちづるだったが、持ち前の鈍さで物怖じひとつせず、対面すれば誰もが硬直する程の一流名医の相席をすんなりと受け入れた。
「はじめまして、由荼くん。私は救世だ。よろしくね」
「知ってます。有名です」
「ここの野菜カレー美味しいよね。週に2回は食べに来てしまう」
「わたし4回です」
「4回?凄いなあ。変態じゃないか」
初対面で1分と経たぬ内に変態と評されたことに対して、由荼ちづるは気を害しはしない。すでに自覚していたことであり、いまさら他人にとやかく云われようが構わなかったからだ。それはなにも週4の野菜カレーに限ったことでは無い。
「あれ、というか、なんでわたしのこと」
「知ってるさ。有名だよ」
鮮やかな意趣返しに少しばかり面食らった由荼ちづるは、スプーンを口に咥えたまま救世の姿を捉えた。救世はまるでタワーの上層階にある高級レストランで食事を嗜んでいるかのような美しい姿勢と所作で、庶民の素朴な味を愉しんでいた。思わず由荼ちづるは救世のその背後に、ガラスに仕切られた煌びやかな神宿の絶景を幻視してしまった。
「有名って、わたしが?」
「ああ。ある界隈では、ね」
「ある界隈?」
「一昨々日の晩、妙な力に目覚めただろう」
その一言で、未だ由荼ちづるの視界にぼんやりと浮かんでいた神宿の絶景が消え失せ、救世の三白眼にのみ、焦点がぎゅっと絞られた。10秒か20秒か、実際には1秒にも満たなかったかもしれない。救世の三白眼に見入ってしまい、これ以上は危険だと察知した由荼ちづるは、自身の視線を魔の三白眼から強引に引き剥がした。その行為は、時折睡眠を阻害してくるあの煩わしき金縛りを全身全霊で振り解くときと同等の感覚及び数倍のエネルギーを要するものだった。
「なんのことですか」
危機感を拭いきれないあまりに由荼ちづるは考えもなしにシラを切ろうとした。気づけばグラスに手を伸ばし、半分以上残っていた水を一気に飲み干していた。殆ど無意識だった。シラを切ることはもう不可能だろう。
由荼ちづるの挙動に救世は一瞬だけほくそ笑むと、引き続き、聴き心地の良い音を立てながら丁寧に丁寧に野菜カレーを掬って口に運んでいく。
「きみに宿る"それ"は我々からすれば上等品に値するよ。大金を積んで手に入れられるというのならば是非ともそうしたいくらいだ。しかしきみときたら、力を恐れることも、力に溺れることも無い、無い、無い。当たり前のように眠り、当たり前のように働き、当たり前のようにこうして昼食に野菜カレーを食べている。現実逃避とも思えない。きみは"それ"を当たり前のように受け入れている。やはりきみは変態なんだな」
この場合における変態の称号は些か由荼ちづるの頭を混乱させた。野菜カレーの最後の一口は飲み込めても、突如として自身に訪れた奇妙な事態はなかなか飲み込めずにいた。昔から自分一人で解決し処理することはあまり苦としてこなかった由荼ちづるだが、他人からの干渉は、喉も通らぬ毒なのだ。
「しかし、ただ一人で"それ"の扱い方を極めていこうというその度胸には敬意を払おうか。屈強たる精神を持つ者と睨んで"それ"はきみを選んだのだろう。だけどね、由荼くん。折角そんな素晴らしい力を使えるというのに、誰にも見せずにいるのは、少々モドかしくはないかい」
図星だった。運命か否か、偶然にも当時魔法ファンタジーの漫画に熱を上げていた由荼ちづるは、魔法に匹敵した"それ"を他人に見せびらかしてやりたくて3日間身悶えしていたのだ。
「私でよければ見せてくれないか」
そう囁くと、救世は白衣の胸ポケットからペンを取り、スプーンを包んでいたペーパーナプキンに何かを書き記していく。
「もしその気があるなら、今夜、仕事を落ち着かせたあとで構わない、職員用の第二駐車場に停めてある私の車の元へ来てくれ。グレーのアダムだ。ナンバーのメモを渡しておこう」
由荼ちづるの手元に置かれたペーパーナプキンには、確かにそれらしき羅列が並んでいた。
「後部座席右側の窓をノックしてくれ。6回だ。3回、3秒置いて、もう3回、という風にね。トントントン。ツーツーツー。トントントン。のリズムだ。いいかい。トントントン。ツーツーツー。トントントン。だ。それじゃあ待っているよ、由荼くん」
口を挟む隙も与えず、救世は席を立ち、颯爽とその場を後にした。テーブルの上にある皿に食べ残しは見当たらない。あれだけ悠々と弁を振るっていながらも、きっちり食事は済ませていたようだ。ルーのこびりついた白い皿と、相反してルーが綺麗に舐め取られている銀のスプーンをぼんやりと眺めながら、由荼ちづるは、じわりじわりと、救世の甘言に心を侵食されていった。
「片付けるのはわたしなのか」と我に帰ったのはおよそ9分後のことである。
勤務を終えて職員用の第二駐車場に吸い寄せられグレーのアダム車の後部座席右側の傍に立っていたのはそのさらに5時間後のことだ。
救世の言われた通りに窓を6回ノックしたのはその4秒後。
ロックが解除されて救世に促されるまま後部座席に乗り込んだのはその7秒後。
自分を乗せた高級車が病院の敷地を出て数キロ進んだ道路沿いに位置するホテルに入ったのはその19分後。
再び促されるままホテルの自動ドアを抜け、フロントを抜け、302号室に入室したのはその8分後。
シャワーを浴びてベッドに身を沈めてサレルがまま事を終えたのはその26分後。
救世が煙草に火をつけライターの蓋を閉めたのはその11分後。
鳴り響いた金属音が、由荼ちづるの催眠を解いた。だが身体は動かない。救世の甘言が耳朶の穴から脳内の奥へとぬるぬると入り込んでくる。
「由荼くん。"それ"は、私の為に、私の為だけに使いなさい。きみは私の希望だ。私を助けておくれ」
体液で湿ったシーツに柔肌を沈めながら、由荼ちづるはまどろみに身を任せていく。その最中、思い出す。救世が指示してきた独特なノックの合図。3回ノックし、3秒置いて、もう3回。トントントン。ツーツーツー。トントントン。テレビで聞いたことがある。由荼ちづるは確信した。あれは"助けて"を意味する信号だ。
「国は私を裏切った。私は国に復讐する。だから私はきみが欲しい。きみは私を裏切らない、そうだろ、なあ由荼くん」
ギシ、とベッドを軋ませて、救世は由荼ちづるに覆い被さり、由荼ちづるの顔を見下ろす。部屋は薄暗く、救世の顔はよく見えなかったが、暗闇に浮かぶ例の健康的な白い歯から辿ってみるに、救世が由荼ちづるに向けていたのは、歪んだ微笑であろうと推測できた。その歪んだ微笑に、由荼ちづるは不安も同情も抱かず、ただぼおっと、重たくなった瞼の、今にも閉ざされそうな隙間から、申し訳程度の視線を返した。やがて瞼を閉じ、次に眼を開くと、暗くて臭くて汚いドロとヘドロに塗れた細い細い路地に立っていた。手に染みついた死の匂いは、洗っても洗っても洗っても洗っても洗っても洗っても洗っても洗っても洗っても洗っても洗っても洗っても、落ちない。落ちない。落ちない。落ちない。落ちない。落ちない。落ちない。落ちない。落ちない。落ちない。落ちない。落ちない。落ちない。落ちない。落ちない。落ちない。落ちない。何度も空を仰いでみた。だが無駄だった。"穢れ"の境地に光は二度と差さない。29歳となった現在、由荼ちづるは、自身の若く清らかな血と肉と骨がイタズラに腐って朽ち果ててゆくのを常日頃感じていた。私の人生は詰みなのか。死ぬまでこのままなのか。どこかでやり直しは効かないのか。由荼ちづるは、廃れ切ったビルとビルとの、今にも閉ざされそうな隙間から、こちらに一切見向きもしない空を幾度となく仰いだ。

「由荼さん、ごめん、今手空いてるかな」
担当していた妊婦のカルテを整理していた由荼ちづるに、慌てた様子で同僚の産婦人科医が呼び掛けた。由荼ちづるは飲み掛けのコーヒーを置いて、応対の態勢に入る。
「うちが担当してる妊婦さんじゃないんだけど、緊急で搬送されてきて。電話してきた人が言うには、なんか、突然その場で倒れて、みるみるお腹が膨れていって、痛みでもがき苦し始めたとかなんとか…しかも妊婦さん携帯も身分証明するものも持ってなくて、それで唯一見つけたのがこれで」
普段は穏やかな同僚が目の前で頭を掻きむしりながらパニックに陥ってることに飲み込まれず、由荼ちづるは状況の解読に努めるようと、同僚が差し出してきた一枚の名刺を受け取り目を通した。
「一か八かで、その人に連絡を入れてみて。身内だったらいいんだけど。すぐ来てもらうように伝えてほしい。あの人ひとりじゃ可哀想。お願いできるかな」
由荼ちづるは、わかりました、とだけ返してその同僚が分娩室の方へ駆け足で戻っていくのを見届けると、すぐに電話機に手を伸ばし、名刺に記された番号に従ってボタンを打ち込んだ。コール音に耳を澄ませている間、由荼ちづるはそこで初めて名刺の主の素性を確認する。
「爆…てん?り、あ…あ、ばくてりあ、かな。総長…芥…半蔵」
読み上げ終えると同時に、もしもし、とスピーカーから声がした。
「もしもし、芥半蔵さんですか」
「誰だ。芥半蔵の女か。親族か」
由荼ちづるは眉を顰めた。圧のある口調で淡々と発されたデリカシーの無い質問に、ではなく、通話相手が芥半蔵ではないことに、だ。
「いえ、こちら中央病院の産婦人科です。失礼ですが、そちらは」
「粛清機関JBG執行班。悪いが今交戦中なんだ。後で掛け直してくれないか」
「ちょっと待ってください、芥半蔵さんはどうされたんですか」相手の非常事態に臆せず、由荼ちづるはイチ助産師として職務を全うせんと、呆国が誇る有力機関に食い下がる。
「あいつはついさっき不慮の事故で死んで仏になった、が、その遺体が蜘蛛か蟹みてーな化け物になって街中で大暴れしてやがるんだ。何の用があったか知らねえが諦めてくれ。あれは俺たちがただちに殺処分する」
執行班の男の押し殺した声に混じって、銃撃戦を思わせる発砲音、怒号や悲鳴がスピーカーから漏れている。間も無くして電話は切られ、由荼ちづるは受話器をゆっくりと戻す。如何に報告するべきか、最適解を考えてみるも導き出せないまま由荼ちづるは分娩室のドアを開けた。
出産は終わっていた。先ほどの同僚が産まれたばかりの赤子を高く抱え上げている。愛らしい産声で誕生の悦びを精一杯唄う赤子を、大きく見開いた眼でじっと眺め、立ち尽くしている。周りの看護師も全く同じ様子で、無影灯に照らされた赤子を見上げている。分娩台に眠る母親は、涙を流し、笑みを零し、赤子の方に手を伸ばして、あたしの子ども…あたしの子ども…とウワゴトのように繰り返している。嗚呼、いつだって命の誕生というものは人の心を震わせるのだ。良かった。由荼ちづるは改めて想う。助産師になれて良かった。私はここでならやり直せるのかもしれない。頑張ろう。頑張ろう。頑張ろう。頑張ろう。
ふと気配を感じた。自分の真横を通って、誰かが分娩室へと入っていくのが見えた。なびく白衣が、由荼ちづるの手元を掠める。嫌な感触が脊髄を伝い、脳へ到達した。由荼ちづるはその人物のことを深く知っていた。
「救世先生」なぜ此処に、と、看護師たちが口々に囁く。救世は構わず、産婦人科医から赤子を取り上げて、さらに高く高く抱え上げた。由荼ちづるはそのとき初めて赤子の形態を観察する。赤子の手足はそれぞれ二本か三本多く生えており、頭は肥大化し、まだ開かない筈の両眼がひん剥かれ、白く濁った眼玉をぎょろぎょろと動かしている。由荼ちづるが奇形児を見たのはこれが初めてであったが、今更大した恐怖も戦慄も抱くわけもなく平然としている。返して、あたしの子ども、返してよと、相も変わらずウワゴトを繰り返す母親の声を脳内から遮断し、由荼ちづるは、救世の言葉に耳を研ぎ澄ました。
「驚いた…さらなる進化を遂げたのか。着実に、観音へと近づいている」救世の声は震えていた。「怪僧、羅刹様。この救世公紀、貴方の再復活および新たなる発達を心より御祝い申し上げます。ただちに人造ホルマリンプールへお連れしましょう」
怪僧、羅刹。由荼ちづるには幾分か聞き馴染みのある名前であった。自身に宿る"それ"よりも遥かに恐ろしい力を持つ男の名。救世が師と崇め腹心として従えてきた男の名。何者かに銃殺されたと訊いたが、どうやらたった今救世の術により何度目かの復活を遂げたようだ。見知らぬ女の母胎を利用して。由荼ちづるがそこまで状況を理解し把握したことに勘付いたのか、救世が健康的な白い歯を向け、言い放つ。
「さあ由荼くん。久しぶりにきみの力を使う刻が来たよ」
直後、背後から咆哮が飛んできた。咄嗟に振り向くと、大柄なスキンヘッドの男が斧を振り上げ、恐ろしい形相でこちらを睨んでいた。由荼ちづるは瞬時に身を翻し腰を落とすと大柄スキンヘッドの腹部に掌底を打ち込んだ。大柄スキンヘッドは断末魔代わりの破裂音を激しく響かせ爆散し、砕けた死骸で廊下を汚した。バケツ一杯浴びた返り血を拭うことなくゆらりと体勢を直す由荼ちづるに、次なる咆哮が襲い掛かる。
「てめえが由荼ちづるかぁッ!」
由荼ちづるが自分の名を呼ぶ者の姿を視認する。大柄なドレッドヘアーの男がハンドガンの銃口をこちらへ向けていた。だが由荼ちづるの脳裏に死はよぎらない。
大柄ドレッドの発砲よりも素早く、ひとつの拳が大柄ドレッドの顔面を打ち抜いた。拳は文字通り拳のみであり、手首から先は無く、惨たらしい断面図を露わにしている。
痛みに崩れ落ち顔面を抱え込んだ大柄ドレッドの頭に、斧の刃が振り落とされた。大柄ドレッドは脳天から血と脳漿を噴出させて目の前の白衣を汚しながら、斧を握り締めて立っている救世の足元に転がる。
「由荼くん。きみの力はいつ見ても美しい。だけどね、もう少し原型を留める程度に加減ができるよう練習をしなくちゃね。私との連携を考えておくれ。拳ひとつじゃあ、心許ないだろう」
救世は、屍体を自在に扱う霊能者であり、由荼ちづるは、手で触れた生物の肉体を破壊する霊能者であった。
由荼ちづるが自身の手を死骸で汚すのは無論これが初めてではなかった。かと言って、救世に従うようになってからというわけでもなかった。
力に目覚めた4年前の春の晩、由荼ちづるは仕事帰り、強姦を図った3人の男に襲われた。車に押し込まれ、衣服を剥がされた。しかし強姦は未遂に終わった。由荼ちづるが一人残らず強姦魔の身体を粉々にして殺害したのだ。それが、力の目覚めであり、初めての殺人行為だった。後日それは怪事件として闇に葬られたそうだが、詳細は由荼ちづる自身も知らない。
「どうやら、ぐれん隊が我々の命を狙って病院に乗り込んできたらしい。地下に眠る私の可愛い可愛いソルジャーたちを向かわせた。さあ、いよいよ国が動いたぞ。先に仕掛けたのはあちらだ。皆殺しにしてやろう、由荼くん。私たちの楽園はすぐそこだ」
斧を強く握り直し、救世は、由荼ちづるに優しく微笑む。剥き出された歯は例の白さをすっかり失って、死骸の血で赤黒く汚れていた。
由荼ちづるは、救世の言葉の真意を考えるのはやめて、わかりました、とだけ返した。救世が、良い子だ、と頭を撫でた。嗚呼もうこれだけで充分だ、と目元を綻ばせて、由荼ちづるは、視界を覆う忌々しい血を、ぐいっと拭った。

霊能者襲撃の15分前、中央病院正面入り口付近にて、短身痩躯の爬虫類顔の男が、足を揺すり、歯軋りをしていた。顔面爬虫類が両の手にぶら下げている鉈の刃から、何色とも言い難い粘り気のある液体が滴り落ちていく。
「お待たせしました、神刺(カンザシ)さん。鐘田桜の病室を聞き出せました」
駆け寄ってきた手下らしき男に、神刺と称ばれた顔面爬虫類が蹴りを一閃お見舞いした。鉈を使わず下された制裁は、神刺にとって最大限の思いやりであった。
「遅いんだよど阿呆が〜〜〜。そんな仕事は3秒で終わらせるんだよダボがよ〜〜〜」
神刺は短身痩躯ではあるが、ぎりぎりに絞り上げられたワイヤーロープの如く引き締まった腕や脚は、ぐれん隊において肉弾戦で一、二を争う強者さながらであり、そして神刺は、刺身と刺青の実兄だった。
「その小娘が大目玉だと俺は睨んでる。他の奴らに先越されるな。鐘田桜を殺しにいくぞ」
応ッ、と顎を砕かれたばかりの男も含め、2名の輩が神刺の後をついていく。
たった2歩目で神刺が足を止めた。非常灯に照らされた薄暗い廊下の奥に立つ人影に目を凝らして、舌を鳴らし、吐き捨てる。
「何体いやがる、腐れゾンビが」
ここ、正面入り口付近ではすでに身体を切り刻まれバラバラにされた、無数の屍体が床に転がっている。地下のプールで秘密裡にホルマリン漬けされていたそれらこそ、救世の云っていた、可愛い可愛いソルジャーたちだった。
新たに送り込まれてきた一体の屍ソルジャーが、廊下の奥から一直線に凄まじい速度で走ってくる。およそ人間だったものとは思えぬ歪で滑稽な走り方だが、速度も異常で、瞬く間に神刺の眼前に現れた。二本の鉈をくるりと回していざ切り伏さんとした神刺のその動きよりも素早く、ひとつの拳が屍ソルジャーの頭を撃ち落とした。屍ソルジャーの身体は反動で二、三度コンクリートの床を跳ね、やがて柱に叩きつけられた。
得物の切っ先の行き場を失い、神刺は不服そうな顔で拳の主を睨んだ。拳は、救世に操られた屍体の一部などでは無く、生きた人間から生えているものには違いなかった。手首から先に延びているのはシワひとつない黒の袖であり、拳の主は、学生服を身に纏う少年だった。
「おまえ、さっきなんて言った」
少年が真っ直ぐに言い放つ。相手は、鉄拳を喰らわせた屍ソルジャーではなく、神刺だ。
「だれを、殺すって」
少年は、ちいさな眼に怒りの焔を燃やしていた。
「鐘田桜を、知ってんのか」
「僕の妹だ。指一本触れさせやしないぞ」
少年の名は、鐘田慧。忘れ去られていたであろう、この物語の主人公だ。


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