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壊れたラジオはいつも酒を飲む

「で、あなた結婚は?どうなの?しないの?」

隣の女性がジョッキを片手に大きな声で私にいった。

「そういうの興味ないんで」

答えた私の声が、ものすごく低く怖かったことと一瞬空気が止まったこと、冷たく残されたポテトの山と汗をかいたウーロン茶のグラスのことが今でも時々思い出される。それから女性のYシャツの下から2番目のボタンが今にもはち切れそうだなと思った。

あれは異動してきた女性上司を迎えた前の会社の飲み会でのことだった。その人の隣に座って、ひとまず1年よろしくお願いしますというつもりだった。あの時はほぼ初対面に近かった。

基本的に職場の飲み会にはいかない。酒は飲めない、食は細い、コミュ力も低い。とにかく行くメリットがないから、私は歓迎会か送別会にたまに現れるだけの人だった。

今思えばもっと答え方もあったし、交し方もあったのだろうけれど、20代半ばの私の出来た最大級の答えがこれだった。

その後2年間同じところでこの上司の元で働いたが、ついぞ恋愛・結婚ネタを振られることはなかったし、勿論上司の結婚式に呼ばれることもなかった。私の生きてきた世界には出てこなかった極端すぎるこの上司は、「女の人は結婚と出産が一番、男は何より三高」みたいな昭和のステレオタイプが具現化したような声と横幅の大きい人だった。体力と馬力と謎の愛嬌のようなものもあったから、悪口も聞いたが褒める言葉も聞いたように思う。

冒頭のような自分の価値観をまき散らすような行動には辟易していたものの、今まで見たこともない生命体を見るような気持ちで興味深く見ていた。大声でおしゃべりをしていても、仕事に支障がなければ止めなかったし、「そっすね」しか言わない戦法で大体お話は流した。壊れたラジオのようにいつも結婚式のプランだとか彼氏の親の攻略法だとかを繰り返していたが、フロアにいる全員に聞こえる声でしゃべり続けられるあの度胸はやはりすごいものだった。

幸い仕事面では私のことを普通に評価してくれた人であったから、それだけは良かった。仕事に関係ない会話と判断すれば私は空気になったし、向こうも私を空気として扱った。空気のような存在であることは別に苦ではなかったし、変に媚びをうって疲れ果てている他の同僚たちをみながら、あの時の反応でよかったと何度か思った。

夏に居酒屋に入ると、あの時のことを思い出す。結婚も出産も終えた彼女は今、何をアイデンティティとしているんだろうか。

グミを食べながら書いています。書くことを続けるためのグミ代に使わせていただきます。