「死にたい」気持ち

長く細く生きるより、絶頂で死にたい。

いつもそう思っている。

後先を考えないとも考えられないともいう私の物の見方は、多分自分の中の頂点でぷっつり死にたいといつも思っているから存在するのだ。

生きると決めたのは私じゃなくて、産み落とされたわけだから死ぬ瞬間ぐらい私が決めてもいいじゃないかという究極のエゴイズムがいつからか私の中核にある。自殺というのとも何とも違うその感覚は、文字にするのであればいつも死に場所を求めているみたいなことになる。令和の時代に何を言うんだと思うだろうか。

若気の至りと片付けるにはなかなか難しくて、そろそろ30が見えてくるというのにこの気持ちは消えそうにない。

その気持ちが何故私の中にあるのかは結構純粋な疑問として残っているが、それが消える可能性はないのか考えた。

結局一人で生きているからなんだろう。というかそれしか考えられない。私が死んだところで残される人もいないし、何だったら祖母よりも先に死にたいと思っている。両親と弟もいて、今は同居する程度には仲が良くその点恵まれているに違いないのだけど、それでも衝動の抑止力にはならない。

死との距離感はこれでも最近かなり遠ざかって、少し現実を生きるようになってきた。

「つらい、死にたい」と相談されること、結構あるが、まさか公に「そうだよねー」と同意するわけにいかない。なんだかんだ生きてみたら?というしかない中、私がひねり出した中でましだったものは、時間経過とともに変化していく社会を体感することが面白いというすごく抽象的なことしかなかった。

価値観が揺らいでいくさまとか白が黒になるようなこととか、知識だけじゃなかなか理解できないことだと思う。それから起こったことが歴史に残ってどう表現されていくのかは単純に面白い。一つの出来事と複数の感情が結びつくさまを何度もかみしめることは生きることの一つの醍醐味だと私は思っている。

それから若い頃の私には、「やり直し。ここはまだ、頂点の死に場所じゃない」という気持ちもあった。納得がいかないのでやり直すみたいなことだけど、今の私の体はこの理由ではもう動けなくなっている。でも若い人にとっては、納得できる理由かもしれない。

ただ、親が友人が周囲の人が悲しむというのは何だか、違う気がして、それにすでに他の人が伝えた後のような気がして、言えないでいる。私自身が肯定できないことを言っても仕方あるまい。そんな気持ちもある。

一つ言えるのは死にたい気持ちと闘いながら折り合いがつかないままの大人も存在するということだ。誰もが割り切れるわけじゃない。恵まれているとかそんなことは誰かの枠組みなんだから、別にあなたが悩むことは罪じゃない。そんな話をしたくなる。

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