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あなたの肉体にも悪魔がいる。

フランス文学の金字塔、ラディゲの『肉体の悪魔』を読んだ。
舞台は20世紀初頭、世界大戦の火蓋が切られた壮絶な時代。
16歳の少年が19歳の人妻に恋をするおはなし。
互いの身を滅ぼすほどの恋をふたりは若くして経験するのだが、その筆致がまた素晴らしい、さすが、三島由紀夫をして絶賛せしめただけのことはある。
早熟の天才が人間心理を鋭くえぐるとどうなるか、ぜひともご一読いただきたい。

ところで、恋愛と将棋は似ていると思うのだが、どうだろう。

例えば、序盤の駆け引きにおいて、ある程度定跡化されているところ。
ふたりきりのディナーが成立すればそれは互いの好意の証であり、すぐに角道を閉じればそれは振り飛車を目指す証である。
飲みに行き終電を逃せばそれはある程度の蓋然性でセックスを企図している証であり、端歩に応じなければそれはある程度の蓋然性で穴熊を狙っている証である。

はたまた例えば、中盤において定跡を外れてから面白くなってくるところ。
旅先で迷子になり互いの寛容さと快活さが試されるときこそ面白く、居飛車側の飛車先突破を許したときの振り飛車側の捌きかたこそ面白い。
恋人の親族と食事にいくときに発揮されるマナーとコミュニケーションこそ面白く、まったくの逆サイドから急に見せる端攻めこそ面白い。

そして、恋愛も将棋も終盤が恐ろしく長く、長考せざるを得ないところ。
結婚に踏み切る前に違いに未来の家庭を透視しようとするやり取りは疲弊するし、自玉の守備を徹底的に見つめながらも勇敢に相手玉を追いかけるときにはやはり疲弊する。
子どもの教育に執心しながらもセックスレスの解消を目指そうと懊悩するし、詰むや詰まざるやの局面で相手からの詰めろを解除しつつこちらから王手するのにやはり懊悩する。

ああ、ひとつ付言させてほしい。
ラディゲの『肉体の悪魔』よろしく、恋愛にも将棋にも言えることだが、あまりに身をやつす様はさながら肉体に悪魔を宿したようではないだろうか。

恋愛でも将棋でも、いつだって私たちは追い求めている。
悪魔的な一手を。

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