見出し画像

読書ノート 「パロール・ドネ」 クロード・レヴィ=ストロース

 レヴィ=ストロースが高等研究院(エコール・ド・パリほか)で行った講義の報告書。報告書であるため、平易かつ簡潔な文章で講義の要旨が書かれており、浅学な私でも理解が進む。そのなかで「人類学の未来」と題された講義報告が大変良い。 

「火曜日の講義では、『人類学の未来』という一般的なタイトルのもとに、現代の人類学が抱える理論と実践の両面にわたる根本的な問題を検討した」とはじまる講義のなかで、人類学の根本課題とその本質、そして進むべき学究の方向性をあらわしている。

・人類学はなくなるという批判。
・西洋化が進むなか、物理的な意味で研究対象となる人々が地球上からいなくなる
・「研究の対象」になるという主観的反感(差別的な位置)
・「不平等」を「多様性」と言い換える上から目線の「研究者」

これは、植民地主義を前提としてきた西洋社会の思考で、日本の民俗学や人類学の視点・争点ではないのかもしれない。西洋の欺瞞が垣間見える姿は内心ざまあみろ、それ見たことか、と非西洋人の私は思ってしまうが、これとてレベルの問題、では日本人がアイヌや琉球に対してもつ認識は?彼らの小型版である。他人事にしてはいけない。

書き留めるべき発言は次のようなものだろうか。

「言語学がしめしている道こそが、われわれの取るべき道である。(言語の進化に包括的な説明を与えることができず、諦めることによって、特定の地域の言語様式の変化を発見できた)」
「人類学者たちは、経済体制と社会構造の関係について思弁をこらす前に、これまで決してされることのなかった、労働力と総人口の関係、労働時間、生産性、土壌型、耕作の方法や農耕技術、気象などについてとりかかなければならない。こうしたことから、異なった社会や時代のなかで繰り返しあらわれる、意味ある相関関係と弁別的特徴を取り出すことができるようになると思われる」

文化と社会についても興味深い説明がなされている。
「現代の人類学にとって、文化と社会の対立が本当のところは何であるのかは、依然として曖昧なままなのである」
「文化のない社会は考えられても、社会のない文化は考えられない」
「社会は、動物が自らの死すべき運命を知ることを阻むものとして生じ、文化はそれを知る人間の対応として生まれている。︙(人間は)中枢神経の構造と機能を根本的に変化させるという犠牲代償を払ったうえで、組織を通じて社会なるものがつくられているのである」

 人類学の運命は、このようにまとめられている。
 「人類学の独創性は、それぞれの時代において人間性の臨界と見なされている地点に立って、人間を研究することにある。今日の人類学者がコンピュータの論理に関心を示すのは、一~二世紀ほど前に、異国の奇妙な習俗の研究が人類について知りうる限界点へと彼らを導くだろうと考えたことの延長線上にあると考えられる。人間性というものが永遠である限り、人間の可能性と不可能性を分かつこの境界を探索することを運命づけられている「隙間をつく」科学として、人類学の探求が終わることはないだろう。人類学が自分とは異なる社会に抱く(そして抱き続ける)執拗な関心は、かつて存在しこれからも存在するであろうすべての社会への人類学の関心の一形態にほかならない。
 人間社会の現実の多様性は人類学的研究にとってある種の踏み台のようなものであった。もしこの支えがなくなるときが来たとしても、歩みを止めることのないよう、ゆるぎない視点をもってその目的を果たすことができるかどうか、それはまったく人類学しだいなのである」

 少し落胆するのは、夢の意義を狭義的に説明されていることか。
「(アメリカ・イロコイ族の夢の解釈には、必ず他者の関与をともなっていることを受け)ここから考えられるのは、夢の精神分析理論がわれわれに教えてくれるのは普遍的現象としての夢の客観的性質についてではなくて、社会の中で夢が果たしている特定の機能についての考えにすぎないのではないか、ということだ。その社会の中で本質的な問題となっているのは、宇宙との関係ではなく、個人と集団の関係性である。・・・したがって、夢の中に社会秩序を超越するものを見ようとするのは無駄なことなのである」

 集団との関係性のみが夢の意義である、というのはちょっと…ではあるが、自分自身の夢を分析してみても、集団との関係(会社や職場、家族や親戚)が主たるモチーフになっている。だがしかし、それだけが夢の意義ではない。


よろしければサポートお願いいたします!更に質の高い内容をアップできるよう精進いたします!