読書ノート 「新人世の『資本論』」 齋藤幸平
NHK100分で名著「資本論」の解説者で、新進気鋭のマルクス研究者である齋藤幸平の新書。エキセントリックでおもしろい。カール・マルクスの全集プロジェクト・MEGAに日本人として一人参加し、その新たな思想的展開を伝える事が可能になっている。ベストセラーにもなっており、コロナ禍のなか、これから資本主義を刷新し、新たなイデオロギーを模索する現代の時代的雰囲気に適合している本。
刺激的なフレーズなどをピックアップして、最終的に全体像を把握していく。
免罪符として機能する消費行動。
SDGsアリバイ作りのようなもの。かつてマルクスは宗教を「大衆のアヘン」と呼んだが、SDGsはまさに現代版「大衆のアヘン」である。
「人新世(ひとしんせい)」パウル・クルッツェン(ノーベル化学賞受賞者)の命名。人間の経済活動が地球に与えた影響があまりにも大きいため、地質学的な新たな呼び名をつけた。
グローバル・サウスの人災に、日本は加担してきた。
「外部化社会」代償を遠くに転嫁し、不可視化することを、先進国は行ってきた。
「世界システム」(ウォーラーステイン)。「中核」と「周辺」。フロンティアの終焉が資本主義の終焉となる。
加害者意識の否認と先延ばし。不公正を「知らない」から「知りたくない」へ。
「オランダの誤謬」国際的な転嫁を無視して、先進国が経済成長と技術開発によって環境問題を解決しているといた認識。
グレタの主張は、資本主義が経済成長を優先する限りは、気候変動を解決できないというもの。
人類が使用した化石燃料の約半分が、冷戦が終結した一九八九年度以降のもの。
ノードハウスの甘い見込み
グレタの言う無策のシステムとは、資本主義のこと。
「あなたたちが科学に耳を傾けないのは、これまでの暮らし方を続けられる解決策しか興味がないからです。そんな答えはもうありません。あなたたち大人が、まだ間に合うときに行動しなかったからです」(グレタ・トゥーンべリ 英国議会講演 2019)
技術的転嫁、空間的転嫁、時間的転嫁
周辺部の二重の負担。つまり生態学的帝国主義の掠奪に苦しんだあとに、さらに、転嫁がもたらす破壊的作用を不平等な形で押し付けられる。
可視化される危機。グローバル・サウスへの転嫁や外部化も限界を迎え、その矛盾が先進国にも現れるようになってきた。地球はつながっている。
マイクロプラスチック。我々は毎週クレジットカード一枚分のプラスチックを食べているとも言われている。
「社会主義か、野蛮か」(ローザ・ルクセンブルク)
生産性の罠。経済成長を諦められない、生産性が上がることで失業者が増えることは避けなければならない、では、雇用を守るために経済成長をし続けなければならない、と考える。
ジェヴォンズのパラドックス。効率化すれば環境負荷が減るという一般的な想定とは異なり、技術進歩が環境負荷を増やしてしまう。省エネになったテレビは大型化し、電力消費量はむしろ上がっている、燃費が良くなった車はSUVなどの大型車の普及で無意味に。
貧困層ボトム50%は、10%の二酸化炭素排出にしか責任がないのに対して、富裕層トップ10%はその半分50%に責任がある。
経済成長と環境負荷のデカップリング(切り離し)が、現実には極めて困難(ロックストーム)。つまり、経済成長すれば環境負荷は増える。
生活の規模を1970年代後半のレベルにまで落とすこと。
どのような脱成長を目指すか。
ドーナツ経済(ケイト・ラワース)
プラネタリー・バウンダリー。地球システムに従来備わっているレジリエンス(回復力)は、一定以上の負荷が加わると失われ、急激かつ不可逆的な破壊的変化を引き起こす可能性がある。そこで、その閾値を9領域において計測し見極めることで、人類の安定的な生存に向けた限界点を確定しようとした(ヨハン・ロックストーム 環境学者)。それがプラネタリー・バウンダリー(地球の限界)である。9領域とは、気候変動、生物多様性の損失、窒素・リン循環、土地利用の変化、海洋酸性化、淡水消費量の増大、オゾン層の破壊、大気エアゾルの負荷、化学物質による汚染である。
ヨーロッパ諸国はアメリカより一人あたりGDPは低いが、社会福祉の水準はずっと上、医療y他高等教育無償の国も多いが、アメリカは無保険で治療が受けられない人や返済できない学生ローンに苦しむ人がたくさんいる。日本のGDPはアメリカよりずっと低いが、平均寿命は6歳近く長い。
トリクルダウンは幻想。
アメリカのZ世代の半数以上が、資本主義よりも社会主義に肯定的な見方を抱いている。
現代日本社会の政治的可能性の狭隘化。リベラル左派が気候危機に目を背け、以前と同様に経済成長をひたすら追求するのみ。もはや左も右もない。
平等と持続可能性を目指す脱成長。資本主義の長期停滞は不平等と貧困をもたらす。
コモン。社会的に人々に共有され、管理されるべき富。公共財。水、電力、住居、医療、教育など。地球をコモンとして管理する。
マルクスは、コモンが再建された社会を「アソシエーション」と呼ぶ。
アソシエーション=相互扶助
伝統的共同体は、経済成長をしない循環型の定常型社会である。権力関係が発生し、支配・従属関係へと転化しないようにするため、あえてその形を維持した。
資本主義の危機を乗り越えるために、「原古的な類型のより高次の形態である集団的な生産及び領有へと復帰」しなくてはならない。
脱成長コミュニズムという新たな武器
ピケティは、行き過ぎた経済格差を、累進性の強い課税で解決しようと提唱していたが、2019年刊行の『資本とイデオロギー』で、資本主義の超越のためには、「参加型社会主義」をはっきり要求するようになった。大きな思想的転向。
肝要なのは、労働と生産の変革、使用価値経済への転換、労働時間の短縮、画一的な分業の廃止、生産過程の民主化、エッセンシャルワークの重視。
エッセンシャルワーカーへのやりがいの搾取。いままでのやりかた。善意の搾取。
バルセロナ「気候非常事態宣言」「フィアレス・シティ」
気候正義、食料主権
バルセロナの気候非常事態宣言は、先進国が排出する二酸化炭素による気候変動のせいで、途上国の、社会的に立場の弱い人々が大きな被害を受けることの不公正をはっきりと認めている。そのうえで、先進国の大都市の責任を明示し、自国民だけでなく、真の意味で、「誰も取り残されない」という気候正義の目標を掲げている。
マルクスが非西欧、前資本主義社会から「脱成長」の理念を取り入れたように、バルセロナはグローバル・サウスから気候正義を取り入れたのだ。それが、あの革新的な気候非常事態宣言へとつながったのである。いわば、バルセロナは気候正義を革命の「梃子」にしようとしている。
なぜ気候正義が、そこまで重要なのだろうか。トーマス・フリードマン、ジェレミー・リフキン、そしてアーロン・バスター二も、持続可能な経済への転換を訴えていた。だが、最終的には、経済成長を優先することで、周辺部からの収奪を強化することになってしまっている。
彼らに根本的に欠けているのは、グローバル・サウスへの視点である。いや、より正確にいえば、グローバル・サウスから学ぶ姿勢である。
先進国は、これまでも経済発展と環境問題を両立させてきたし、これからも両立できるように見える。だが、その背後では、様々な問題がグローバル・サウスに転嫁され、不可視化されてきただけだった。だから、先進国と同じ方法で経済と環境の両立をグローバル・サウスでやろうとしても、うまくいくはずがない。もはや転嫁するところがどこにもないからである。現代の気候危機は、そのような外部化社会の究極的限界を端的に表わしている。
フリードマンやバスターニのように、この危機から目を背け、デカップリングと資本主義の非物質的転回がすべてを解決するかのように吹聴することもできる。だが、気候正義という概念を真剣に受け止め、グローバル・サウスに目を向け、そこでの取り組みから学ぼうとすることもできる。そうすれば、持続可能なだけでなく、公正な社会を作るのに、なにが本当に必要なのかを考え始めることができるのだ。
フリードマンらの「グリーン・ニューディール」とバルセロナの「気候非常事態宣言」の違いは、究極的には、「経済成長型」と「脱成長型」の違いである。グローバル・サウスから学ぶ姿勢を取り入れることによってこそ、持続可能な将来社会のビジョンはまったくちがったものになるのだ。
このバルセロナのやり方こそ、晩期マルクスと同じ歩みではないか。グローバル・サウスから学びながら、新しい国際的連帯の可能性を切り拓く。そうすることで、経済成長という生産力至上主義を捨て、「使用価値」を重視する社会のビジョンが生まれてくるのである。
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