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読書ノート 「言葉とは何か」 丸山圭三郎

 丸山圭三郎にいつの頃から読み親しんでいるかといえば、ラカンと同時期である、というのが正しい答えだろう。ラカンを理解するためにはソシュールを理解しなければならず、ソシュールを理解するためには、今も昔も、丸山圭三郎しか明快に説明できる学者は日本にはいないのだから。でも何故ラカン?そうか、新宮一成がラカン派の精神分析学者だったからだ。そういう変な入り方でした。そして新宮一成は、わたしにとって「夢」に通じる。

 もしかしたら今は新しい学者が出現し、更に明快にソシュールとラカンやチョムスキー、構造主義などについて説明できるかもしれない。しかし原典を日本人に寄り添って、日本語や日本の風土に寄り添って、精緻な読みと共に丁寧に説明できる学者は、あまりいない。河合隼雄や井筒俊彦、今村仁司など、原典を理解し、その原点に負けない力量を持った優れた学者はそうそういないものだ。

 あとがきで仲尾浩が述べているように、現代はAI、IOTによる自動要約や自動翻訳が飛躍的に進化し続けるとともに、グローバリゼーションのもと、危機言語(消滅が予測される言語)が増加し続けている。人間文化の申し子(いや、人間文化がコトバの申し子か)というべきコトバが、言語間の垣根が低くなり、多様性を失うことについて、既に鬼籍に入った丸山圭三郎ならどう考えるだろう。

 この本は、ソシュール言語学の真髄・エッセンスを、素人に対して簡潔な文章でありながら、たいへんわかりやすくまとめたものである。であるので、私のようなものでも理解は進む。とはいっても、言葉の多様性、複雑さ、とらえどころのなさについて理解するのには時間がかかるし、その抽象性についていくのは、意識的な修練をしていないとすぐに劣化してしまう類のものごとである。

 このノートでは、その理解が進み、定着するように、覚書のスタイルをとり、自己修練に活用していきたい。丸山の文章から気づきを得、言葉を操り、文字や物語を紡ぎ出すときの、基本的な姿勢や認識となっていくように。


Ⅰ 言葉と文化


・「言葉とは物や概念の呼び名である」ではない。

・言葉とは名前のリストであり、それぞれの国語の単語が、既存の事物や概念と一対一の対応をしているように思い込んでいる人が少なくない。

・言語を構成する諸要素は、その共存それ自体によって互いに価値を決定しあっているのである。

・概念は言葉とともに誕生し、それぞれの単語は全体の体型のなかにおかれてはじめて意味を持ち、その大きさ、意味範囲はその単語を取り巻く他の単語によってしか決められない。

・言語はそれ自身一つの《文化》であり、《社会制度》である。

・言葉はそれが話されている社会に共通な、経験の固有の概念化・構造化である。

・外国語を学ぶということは、すでに知っている事物や概念の新しい名前を知ることではなく、今までとは全く異なった分析やカテゴリー化の新しい視点を獲得することにほかならない。

・日本語は、特殊な例(「ん」と「っ」)をのぞけばすべて母音で終わる音節ばかり。しかし英語をはじめ外国語ではそうではなく、子音が二つも三つも続いたり、子音で終わったりする音節が珍しくない。

・身振りも同様。

・詩に至っては、外国語に訳した途端にその価値の半分以上は失われてしまう。


Ⅱ 言葉とはなにか


 1  ホモ・ロクエンス


・ホモ・ロクエンス(言葉を持つヒト)

・人間の歴史は言葉とともに始まった。

・言葉こそは人間の発明した最高の道具。

・言葉は、生理器官の自然な本能的使用(肺呼吸や直立歩行》とは、本質的に異なるもの。

・身近にして未知なもの。

 2  言語観の変遷


・言霊思想「言葉と名前はただ単に叙述機能をもつばかりではなく、対象そのものをも、そして対象が持つ力をも、己のうちに孕んでいる」と考える神話的思考。

・西欧における言語詳省察の歴史
第一期(古代~18世紀後半まで)
 言葉は思弁の対象であって観察の対象ではなかった
第二期(19世紀~20世紀初頭)
 サンスクリットの発見で言語学が科学に
第三期(現代)
 ソシュール以後、コペルニクス的転回を遂げる

・20世紀の新しい人間学の様々な理論と方法は、実にそのほとんどが、ソシュールの言葉の本質と人間文化をめぐる思想に源を発している。

・ソフィストがまず問題にしたのは、事物の命名について。プラトン「クラテュロスー名前の正しさについて」によると、当時は二つの学派が対立していて、ひとつはヘラクレイトス、クラテュロスらの、言葉の基本的音は、自然を反映する価値を持つ、という考え方、これに対しもう一つの学派は、デモクリトスに代表される相対主義と結びついた、事物の命名は単に社会的な約束事による恣意的なものに過ぎない、という立場であった。
・このふたつは両方ともとんでもない誤り。

・17,18世紀頃「一般理性文法」「ポール・ロワイヤル文法」(ランスロー/アルノー)は、言葉を人間の理性の具現、思考体系の反映としてとらえた。思考は言葉以前に存在する、という。

・19世紀、ボップの梵語・サンスクリット言語の研究による、インド=ヨーロッパ言語の概念。比較古生物学や進化論の影響、「言葉も進化する」という考え方。
・19世紀の傾向は、主知主義の反対の極である、科学的経験主義であった。これがいわゆる実証主義とも呼ばれる考え方の根本となった。

・ソシュールは人間学的視点を見出す。記号学という新しい分野のなかで、言葉をはじめほかのすべての文化現象が対象とされるようになった。この視点とは、それまで混同されていた自然と文化の構造の根本的な違いに注目し、言葉を人間の本能行為としてではなく、自然のなかにはそもそも存在しなかった歴史・社会的産物として捉えるものということができる。

 3  言語能力・社会の制度・個人の言葉


・ソシュール、言葉を厳密に規定する。

・ソシュールは、人間のもつ普遍的な言語能力、抽象化能力、象徴能力、カテゴリー化能力およびその活動をランガージュlangageと呼び、個々の言語共同体で用いられている多種多様な国語体をラングlangueと呼んで、この二つをはっきりと分けた。

・これはもともと二つの表現があったフランス語を母国語としていた人だから思いついた。英語ではlanguageという一語で表される。

ランガージュは、「言語能力」、生得の潜在的能力のこと。

ラングは、「言語」、ランガージュがそれぞれ個別の社会において顕現されたものであり、その社会固有の独自な構造をもった制度を指す。

・「ラングとはランガージュの能力の社会的所産であり、この能力の行使を個人に許すべく社会が採り入れた、必要な契約の総体である」(ソシュール)

ランガージュは孵化能力、雛鳥がラング

ランガージュは潜在的能力、ラングは顕在的社会制度。

ラングも具体的・物理的な実体ではない。具体的音声の連続を、パロールparoleと呼んでラングと区別した。

・したがってラングパロールの区別という視点に立つと、今度はラングの方が潜在的構造であり、パロールはこれを顕在化し具体化したもの。ラングパロールの条件であり規則の体系であって、パロールという行為によってのみ実現される。

ラング、パロールの両者が相互依存の形をとっていることにも注目。個人の言葉が非力理解されるためには社会の約束事がなければならないが、その約束事が成立するためには、まず個々人の言葉がなくてはならない。歴史的にはパロールの事実が先行したはずなのに、現実には既成のラングに個人が拘束される面のほうが遥かに強い。これは、人間が自ら作り出したものによって逆に支配され作られていくという、一切の文化的営為のもつパラドックスでもある

 4  言葉の構造


・ソシュールの「体系」は、独立した個々の要素が寄り集まって全体を作るのではなく、全体との関連と、他の要素の相互関係のなかで、はじめて個の意味が生ずるような「体系」なのである。「場」を重視する考え方に通じる。

・ひとたび体系の場から切り離されると、すでに体系の中の個としては意味を失ってしまう。

・人間が環境を作るものでありながら、作られた環境によって逆に作りかえされる、作りつつ作られ、作られつつ作るという相互限定が、人間と社会ー個と全体の間に成り立っている。

・①各構成因子間の相互関係②全体と個の関係

・ある文のなかに現れる個々の要素は、他の要素との差異・対立関係におかれてはじめて意味を持つ。このように個々の語の持つ意味と機能を決定する関係は、与えられた一定のコンテクスト内で直接観察される顕在的なもの。それぞれの個は対比contrasteをなしてる相関関係にあり、ソシュールはこれを連辞関係と呼んだ。

・連辞関係は、各要素が特定の連辞のなかで、その前後におかれた要素との相互関係において価値を生ずる。

・そして、もう一つの関係は、各要素と体系全体の関係で、その場に現れる資格はもちながらたまたま話者が別の要素をすでに選んでしまったためにそのコンテクストからは排除されることとなった要素群との潜在的な関係。

・潜在化している語群は現実の文には現れておらず、同一コンテクスト内では相互排除関係にあるので、マルティネはこれを対立におかれた関係と考えた。もともとのソシュール用語では連合(連想)関係と呼ばれたもので、のちの人びとが範列関係という述語で言い換えた。

・ヤコブソンの失語症の研究で、失語症では、連辞・連合関係が壊れていることを発見した。選択能力の障害(連合関係が壊れる)、結合能力の障害(連辞関係が壊れる)が見られる。

・選択と結合(連合と連辞)。

・この二つの関係は、言語の体系のなかに見いだせるのみならず、人間の一切の精神活動の軸となっている。

・連辞・連合関係が、フロイトが照射した無意識や夢の構造を紐解くツールとなった。

 5  言葉の状態と歴史


・言葉は一つの体系をなしている。

・言葉はその話し手にとっては歴史的事実である以前に意識的事実である。

・言葉の上ライト歴史という二つの秩序の区別。

・ある一定時期のラングの記述を共時言語学時代とともに変化するラングの記述を通時言語学と呼ぶ。

・一つの要素は機能を変えつつ存続することもあれば、機能を他の要素にゆずって消えてしまうこともある。グロテスクは17世紀は「喜劇的」であったが、19世紀には「悲劇的」機能を担っていた。

・時代の移り変わる様々な段階で、まず共時的断面に眼を据え、その俯瞰図と俯瞰図とを比較する事によって体系総体の変化をたどるのが通じてき研究である。

共時態、通時態。点の歴史から面の歴史へ。

 6  言葉と物


・言葉の研究において最重要なのは意味の問題。

・「言葉に依存しない概念も事物もない」

・「事物を作り出すのは視点である」

・各言語は一つの《世界像》であり、それを通して連続体の現実を分析するプリズムであり、独自のゲシュタルトなのである。

 7  言葉と記号


・言葉は記号ではない。

・広辞苑では、記号=「一定の思想内容を示すための手段としての、文字・符号などの総称」「言語も記号の一つと考えられる」としている。

言語記号は、他の一切の記号とは異なり、予め自らの外にある意味を指し示すものではさらさらなく、いわば表現と意味を同時に備えた二重の存在である

言語記号(シーニュ)は他の記号と違って、表現と意味を兼ね備えた二重の存在である。

・ソシュールは、表現の面をシニフィアン(意味するもの)、内容の面をシニフィエ(意味されるもの)と名付けた。それぞれ、フランス語のsignifier「意味する」の現在分詞と過去分詞である。

シーニュが二つの項からなるということよりも、シーニュが誕生すると同時に二つの項が生まれ、一方は他方の存在を前提として存在するという事実が重要。

シニフィアン、シニフィエともに言語内に見られるカテゴリークラスであり、シニフィアンが物理音だとか、シニフィエが言語外現実だとか指向対象だ、などと考えてはならない。

・ヘラクレイトスやデモクリトスの論争は、「言語は物の名である」という立場での不毛な論争であった。

・事物とその名称としての言葉との間に、何ら必然かつ自然な結びつきがない、ということと恣意性の問題とは一切無関係。

・意味のありかが言語内であることがわかった以上、デモクリトス的な恣意性が言語学的問題となりえない。

 8  言葉の単位


・「アタマ・ガ・イタ・イ」第一次文節、記号素(モネーム)、音のイメージと意味が一体化した最小の形。

・記号素を二つに分割→語彙素と形態素。

「a・t・a・m・a」の「t」、第二次文節、意味を区別する働きがある音、音素(フォネーム)

記号素(モネーム)はシーニュの最小単位音素(フォネーム)はシニフィアンの最小単位。

・言葉の持つ二重分節構造は驚くべき経済性を示す。

・シニフィアン、シニフィエ間の絆の無動機性と、経験事実を記号素に分節する区切り方の恣意性は、言葉のもっとも根源的な性質である。

 9  言葉の恣意性


・ソシュールが指摘した恣意性

・①シニフィアンとシニフィエの関係には自然かつ論理的な絆はない。(シーニュ内の縦の関係で、原理的にはそのシーニュが属している体系全体を考慮に入れなくても検証できるもの)

・②一言語体系内のシーニュどうしの横の関係に見出されるもので、個々の語の持つ価値が、その体系内に共存する他の語との対立関係からのみ決定されるという恣意性。

・「シニフィアンは、個人の自由選択に任されているという意味で恣意的なのではない。それは概念との関係において恣意的なのであり、それをこの概念に特に結びつけるものは、自らのうちに一切もっていないという意味である。社会全体も、シーニュを変えることは出来ないであろう。というのは、過去の継承が、シーニュに進化事実を押し付けているからである」

 10 言葉の意味と価値


・意味論の出発点として確認できることは、事物そのもののなかにかくれているア・プリオリな意味を人間が発見して名づけるのではなく、人間がその言語を通して、事物に意味を付与していくということ(=言葉の第一次分節活動)と、シーニュに宿る意味(=シニフィエ)を表現するシニフィアンは、物理音ではなくて音的イメージに過ぎないという事実である。

・つまり、自然音はそれ自体の物質のなかに人に反応させる何かを持っているのに対し、言語音の意味は、物理音自体とは無関係に、その語の音的イメージと他の語の音的イメージの対立からのみ生ずる、ということである。

・言葉の本質的機能がその信号性にある。

・言葉のもつ意味とは、他の単語との関係のうちにとらえられた体系内の《価値》である。

・体系とは、単位という客観的な実体は存在しない。

・その体系のなかでは、個々の単位の大きさや価値はネガティブにしか定義されない。

・個々の項の大きさなどはもともとない。存在するものは隣接する他の諸項と、全体との、二つの関係だけから生まれる大きさでしかない。

・「…ではない」という定義しか出来ない対象。これが文化の構造の本質である。関係そのものが《意味》を作っている世界である。

・言葉の持つ価値は、その体系のなかで占める位置と大きさだけによって決定される。

外示的意味(デノテーション)、共示的意味(コノテーション)

・外示的意味は、語の持つ最大公約数的、抽象的意味。

・共示的意味は、語の持つ個人的、状況的意味。

・第一のコノテーションは、一言語内の個々の語に宿る個人的・感情的イメージ。まだ沈殿していない意味。ラング化されてないパロール次元にあるもの。
・第二のコノテーションは、一定時期のラングに見出される共同主観的付随概念。
・第三のコノテーションは、非常に重要。既成の意味を背負わされている語の、その既成性を逆手に取って新しい意味生産を行おうとする営為。

・どんな言語も、それが言語である限りシニフィエシニフィアンをもっているが、二次言語というのは上の図からもわかるように、「その表現面であるシニフィアンが既成の一次言語からなるような言葉」であり、その内容面であるシニフィエこそ、既成の意味体系には見出だせなかった新しい意味であるコノテーションに他ならない。

・言葉を言葉ではないものにしてその既成構造から逃れるというのではなく、あくまで言葉の既成性のうちに身をおき同時にその構造を乗り越える方向をもつ文学言語に代表される創造的実践活動こそ、この新しい意味生産の出発点である。これはちょうど、言葉がはじめて生ずる発生状態にも似ていて、いくつもの意味を内包するメタフォール的存在であり、すり減った貨幣になる以前の本質的言語の姿である。

・個々人のパロール活動はあくまでラングの音韻体系、文法体系、意味体系を前提とし、この絶対的なと行ってよいほどの規制の下にあるが、主体が真の表現行為を行いさえすれば、そこには、必ずや言葉の創造的活動が見出されると言える。言葉は原理的に恣意的なもの。それならば、その非自然的な構造が人為の故に作られたように、人為によってこれを作りかえることも、また可能ではないだろうか。



解説・あとがきから


・ソシュール研究
 第一世代 小林秀夫による紹介、時枝論争といったソシュール理論の需要
 第二世代 丸山圭三郎によるソシュール理論の理解・消化
 第三世代 ソシュール理論の発展

・「ソシュールの思想」「文化のフェティシズム」
・「記号の解体の五段階」
・「生命と過剰」
・「ホモ・モルタリス」「赤のひとかた」

・言語名称目録観(ノマンクラチュール)との戦い
・メルロ・ポンティ「言葉は意味を持つ」

・意味のないことのおぞましさ、文化をいきいきとしたものにするには、おぞましくても「無・意味」の世界と向き合うこと。そして根源的な「意味すること」を何度でも試みること。

・「言語そのものを『視点』ととらえる地点までいかざるを得ない」
・言葉はものの見方

・「問題は(中略)、その絶対分節としてのカオス自体への疑問なのだ。現実は否定された、これを生み出す言葉の実体性も否定された、その根底にあるアラヤ識の実体性も否定された、残るものはカオスとしての空である、というのであれば、やはりそこには出発点もしくは終点が想定されることになりはしないだろうか。すべてはコピーのコピーであり、オリジナルはどこにもないということを見極めてはじめて、意識の〈空化〉がなされるのではないだろうか」

・コトバとともに生きる
・「貴方は文学を専攻しているのにソシュールを読んでいないのですか」
・コーパス言語学

・従来のソシュール研究は哲学や文学理論、精神分析学などとの関係で語られることが多かったが、今日では言語研究は、コンピュータサイエンス、工学、教育、福祉、政治経済など、ほとんどありとあらゆる分野との協力が求められ、あまりに興味深い研究が多すぎて、途方に暮れてしまうと言っても過言ではない。



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