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読書ノート 「吉里吉里人」 井上ひさし

 

単行本表紙

 2020年初頭、新型コロナウイルス感染症、クラスター、ロックダウン、オーバーシュート、ソーシャル・ディスタンシングなど、数ヶ月前までは耳にすることが全くなかった、新しい「危機の言葉」が急激に氾濫し、うろつき回っていた。

 この時に、もし吉里吉里人をヨミガエラスことができるなら、それはどのようなものだろう。悔し涙を流しながら死んでしまった吉里吉里人、諦めをその身に刻み、しかしなお諦めていない吉里吉里人の魂を、ヨミガエラスことができるもの、それは何だろう。

 高校時代に、ワンダーフォーゲル部の部室であった高校の理科実験室で、体操服のまま直に床に寝転びながら、ブライアン・オールディスの「世界Aの報告書」を読んでいる時、その横でH・Kが井上ひさしの「吉里吉里人」を読んでいた。その分厚いハードカバーを読んでいることに尊敬と競争心を感じたものだ。その後、文庫を購入し、ひと通り読み飛ばし、ライバルをクリアした気分になっていた。

 大学生になり、ちょうどその頃発刊した雑誌『へるめす』で、大江健三郎、井上ひさし、筒井康隆の鼎談や、吉里吉里人が第1回SF大賞を取るなどの話題で再度関心を持ち、読み返すことが増えた。読み返す度に様々に新たな発見がある、読めば読むほどその奥深さ、思慮深さが感じられた。

 傑作であった。日本文学の中、純文学でなく、いわゆる物語、大衆文学と言った分類で低く位置つけされているものの中でありながら、実は一番世界文学に近いといっていいのではないか、そう思わせられるような、余人では獲得し難いグローバルな視点がある、世界に誇るべき作品であると僕は思う。僕が素晴らしいと思っている3つの小説「同時代ゲーム」「虚航船団」「吉里吉里人」の中でも、ベスト1ではないか(好みは「虚航船団」ではあるが)。この文庫(新潮文庫、上・中・下巻)三冊も、惜しくもその後手放してしまった(古本屋に売らなきゃよかった)。


 当時の批評はどのようなものであったか。それを調べる術を今は持たない。

「井上ひさしの代表作と言われて、私は躊躇なくこの作品をあげる」「日本文壇の最高傑作」「そのいい加減さ、猥褻、軽佻浮薄、言語遊戯に淫するところ、などなどにおいて、ジョイス「ユリシーズ」を彷彿とさせる」これは今のネット内に存在する評価の言葉であるが、当時は表舞台ではまともに取り上げられていなかったのではないか。

 吉里吉里人のテーマは、日本の中央主権体制に反発して、医療と金本位制を武器に、世界各地の少数民族との連携を呼びかけ、近代化した農業を理想とした自由共和制国家として独立宣言をする東北の村を、悲壮感なく、笑いの中で読者に示すこと。荒唐無稽な吉里吉里人たちのこの試みは、最終的には支配者、征服者の癇に障り、完膚なきまでに滅ぼされるのだが、それは過去幾度もあった、征服者の殺戮の歴史の繰り返しであることも最後の結末で示唆される。

この、支配者=被支配者、制度=非制度、恐怖=笑いの対立を、井上ひさしは二千五百枚の大作のなかに、幾層にも染み込ませ、描いた。そこに吉里吉里人の世界文学たる所以がある。

 ところが、その主人公たちと同じく、この作品自体も日本文学の主流では評価がされていない。そこに業を煮やした筒井康隆が、無理やりこの作品にSF大賞を受賞させようと画策したぐらいである。当時のSFは世間の評価は子供の読み物、正当な文学とは程遠い、という扱いであり、辺境のもの同士がくっつくようなことではあったが、兎にも角にも、その価値を引き上げようと筒井は考えたのだった(筒井は大江健三郎の「同時代ゲーム」にSF大賞を取らせたかったのだが、小松左京らが賛同せず、泣く泣く諦めたという経緯があるという)。


 全世界がパンデミックや気候災害の恐怖に震えている現代、その恐怖を笑い飛ばし、人類に希望と勇気を与えられるものは何だろう。それは笑いの言葉か。生死を超越した魂か。大きな災いの後に、何が立ち上がってくるのだろう。ショック・ドクトリンではなく、人間に精神の、恐怖からの反発で立ち上がってくるものを捕まえようと、僕はしたい。もしくはそれを生み出す。

 真剣な時に、茶化すな、と怒る人がいるが、本当に救いのない時、深刻そうな顔ばかりしていてどうするのか、と僕は思う。勇気は笑いから生まれる。そして権威や制度を茶化すことで、固まって動かない思考を破ることができる。ギャグやユーモアが嫌いな人は、対象への想像力が枯渇し、過去のモラルに固まってしまっている。さらに言うと、笑いは自分自身も客観視しないと生まれない。自分を対象化し笑う、ということができない人は、その笑いが自分に向かうと思ってしまう被害妄想者だ。そのような人間にはこの小説を読み通すことすらできないであろう。ましてや理解はできっこない。

 前述した危機の言葉、恐ろしく硬直した言葉群は、聴くものを緊張させ、恐怖の沼に落とし込み、動けなくさせる。支配をもくろむ者には都合が良い、吉里吉里人の対極にいる言葉だ。こうした言葉たちをのさばらせていてはいけない。


 吉里吉里人の物語を、今ヨミガエラセルには、どのようにすればいいのか。
 電脳空間に吉里吉里人をヨミガエラセル。
 ITで武装した吉里吉里人を現出させる。
 医療、経済、貨幣、農業、方言に加え、SNSやIOTで強化した彼らを描く

 現代の吉里吉里人の敵は人間ではなく、システムかもしれない。選択肢を作らない恐怖のシステムに私たちは対抗しなければならない。
 自己肥大を助長し、データを収奪することで一部の個人利益の拡大再生産を目論むシステムを駆逐し、他者に対する共感を基本単位としたシステムを創造しなければならない。
 そしてそのシステムで拡大再生産されるべきものは、人間性・ヒューマニティや、博愛主義・フィランソロフィーなのである。



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