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読書ノート 「ハンス・ヨナスを読む」 戸谷洋志                   

 世の中には様々な入門書があるが、なかには、その語り口は入門に適しているのだろうかと訝しむようなものがある。それもたくさん。つい、専門用語を頻繁に使用し(そうすることで執筆者は読者への優位を匂わす)、些細な、取るに足りないエピソードをちりばめ、いかに執筆者がその対象を熟知しているかのアピール合戦に成り下がってしまう。
 「ハンス・ヨナスを読む」は、そんな名ばかりの入門書とは真逆の、まさに執筆者の懐の深さがよく解る一冊である。作者は大変頭のいい人だなあと感じる。

 ハンス・ヨナスについての本を読もうと思ったのは、彼がハンナ・アーレントの親友であり、アーレントの『エルサレムのアイヒマン』を巡って対立し、大きな喧嘩をした後に和解する、という話に興味を持ったからだ。ユダヤ人であるヨナスは、アイヒマンを「陳腐」「凡庸」で把握しようとしたアーレント(彼女もユダヤ人である)に憤慨した。怒りには、理由がある。ヨナスの思想についてもっと知りたいと思ったのがはじまりである。

 執筆者の称賛に戻るのだが、まず、原文をきっちり提示してくれる。その後、原文を簡潔かつ漏れない文章で説明するのだが、これがわかりやすい。わかりやすさは善だと思うくらい、ハンスの言いたかったことが手にとるようにわかり、腑に落ちる。なかなかここまで噛み砕いて思想を説明できる人って少ないよなあ、高名な学者でも何言ってるのかわからん文章って多く、もしや、わかりにくくすることで自分の考えを俗人の手の届かないものにしようとしているのでは、とまたもや勘ぐってしまう。ちなみに同時期に読んだジャック・ラカンの「アンコール」、初見は全く意味がわからず、まるで呪詛であった。

ハンス・ヨナスの思想のエッセンスを抽出する。

「彼の哲学の中心的なテーマは『未来への責任』に他なりません」

「現代社会は急速なテクノロジーの進歩によって支配されており、そのスピードについていくのは容易ではありません。そうした進歩は、今まで考えることもできなかったような新しい可能性を開き、その力を拡大させていきます。もちろんそれが私たちの生活を豊かにすることもあるでしょうし、快適にすることもあるでしょう。しかし、良いことばかりであるとは限りません。今日のテクノロジーは遠い未来にまで影響を及ぼします。その影響がネガティブな形で未来の世代を脅かすことも考えられるのです。

 原子力発電所について考えてみましょう。発電の過程で生じる放射性廃棄物は、その放射線量が自然放射線レベルに低下するまでに、約10万年の期間がかかるといわれています。したがって、それらは10万年間の貯蔵に耐えられる最終処分場で保管されなければなりません。しかし、もし万が一、たとえば千年後に何らかの災害が起きて最終処分場が崩壊し、放射性廃棄物が漏出すれば、その時代に生きている人々は深刻な被害を受けます。そのとき、私たちは自分たちの行為によって千年後の人々を脅かすことになります。

 もっと直接的な例としては、遺伝子工学を挙げることができます。昨今、ゲノム編集の技術が急速な進歩を遂げており、生殖細胞に対する操作も限定的に容認されるようになりました。この技術によって可能性の次元では、まだ生まれていない自分の子供を自由にデザインし、身体を強化したり、髪や眼の色を親が選んだりすることができます。しかしそれによって生まれてきた子どもは、編集された自分の遺伝子を生涯に渡って抱え続けなければなりません。また、その子どもの子どもも、編集された遺伝子を抱え続けることになります。そして、場合によっては数世代も後になって、編集の結果がまったく思いもよらない形で発現し、身体に深刻なダメージを与えることも考えられます。この場合にも、私たちは現在の行為によってまだ産まれていない未来の世代を脅かすことになるのです。

 テクノロジーは私たちに未来を脅かす力を与えました。そうである以上、私たちは未来の他者に責任を負わなければなりません。しかし、未来の他者が私たちの被害者になるとき、もしかしたら私たちはすでに死んでしまっているかも知れません。その場合、被害者である未来の他者には、加害者である私たちを非難することができませんし、賠償を求めることもできません。このとき、私たちは普通の意味で『責任をとる』ことができません。 

 ここに未来への責任という問題が抱えている独特の難しさがあります。未来への責任において、責任を引き受ける私たちと、責任の対象となる未来の他者とは、非相互的な関係に置かれることになります。この関係は近代的な倫理学の関係を覆すものです。何故なら、近代的な倫理学には、当事者が常に相互的な関係にあり、コミュニケーションによって合意を形成できるということを前提にしてきたからです。しかし、私たちは未来の他者とコミュニケーションすることなどできませんし、そもそも出会うことすらできないかも知れません。そうである以上、未来への責任は近代的な倫理学では十分に説明することができない、ということになります。

 これに対してヨナスは、近代倫理学の前提に囚われず、まったく新しい倫理学をゼロから構想することで、未来への責任を基礎付けようとします。近代倫理学の前提に囚われないということは、その根拠となっている世界観や人間観にも囚われない、ということです。したがってヨナスは未来への責任を説明するために、存在とは何か、生命とは何か、人間とは何か、倫理とは何か、という根源的な問いにまで遡り、全面的な再検討を行っていきます。こうした射程の広さと奥行きの深さは、ヨナスの個性を示す最たるものであるといえます」


まあ、全く引っかかるところのない、理路整然とした文脈!必要十分条件とはこのようなことを言うのでしょうか。結構書こうと思っても書けませんよ。すばらしい。この調子ですべての哲人、思想を解説してくれないかしらと妄想してしまう。 と、感想めいたことはここまでにし、ここからは自らがこの簡潔明瞭な著作をさらに要約してみましょう。できるかな。

・テクノロジーについて

 テクノロジー(語源はギリシア語の「テクノロギア」、この言葉は「テクネー(技術)」「ロギア(理論)」のふたつの語から成り立っている)は、相互に連関しながら成り立っている。
 インターネットはコンピューターが必要で、コンピューターを動かすには電気が必要、電気を使うには発電所が必要で、発電所を動かすにはそこで働く人々が必要。そうした人々は通勤のために電車や自動車が必要。このようにひとつのテクノロジーは別のテクノロジーと関係することで初めて有効に機能することができる。 
 テクノロジーについて考えることは、そのネットワーク全体を考えることになり、こうした全体を人間との関係に注目しながら検討することが必要である。


・科学技術文明

 私たちの世界はひとつの全体としてのテクノロジーによって覆われている。
 ハンマーのような穏やかな性格、つまりある特定の目的をもっていて、それに見合いさえすれば事足りるという性格は、近代的なテクノロジーには認められない。なぜなら、テクノロジーは絶え間なく進歩を続けようとするからである。

「目的はそれ自体で液状化する」

 進歩を動機付けているのは「弁証法を描く円環的なもの」。テクノロジーは、所与の目的を目指して進歩するのではなく、自分自身が引き起こす問題に対応するようにして、自己生産的にさらなる進歩を続けていく。
 「人間にはテクノロジーを進歩させないことができない」 

・テクノロジーと科学

 テクノロジーは科学の応用。科学はテクノロジーから自由になれない。科学は実験をしなければならない。理論的な領域と実践的な領域はひとつのダイナミズムのなかに組み込まれており、これをヨナスは「無限の円環」と表現している。


・科学の没価値性
 科学の本質は没価値性である。科学においては客観性と没価値性が結びついている。これに対して、テクノロジーにおいては有用性が没価値性と結びつくことになる。

 原子爆弾→悪。原子爆弾→有用性という評価基準では、進歩。ここに善悪の主観的評価が入り込む余地はなく、ひいては「テクノロジーにおいては破壊力が悪ですらなくなる」という最大の危険性が存在する。

 人間の存在が有用性によって支配されるということは、人間の存在論的根拠を失うことを意味している。

・未来への責任

 未来への責任の基礎付けには独特の困難が存在する。即ち、未来の他者は現在において存在せず、民主主義的合意形成ができない。唯一可能な方法は、未来への責任を、未来の他者との同意を得ることなく正当化すること。言い換えると、同意を根拠とするのではなく、むしろその存在を根拠として責任を基礎づける、ということ。そのためには没価値的な存在論ではなく、善を見出すことが可能な存在の概念を、存在論を構築することが必要になる。

・生命論

 科学では生命を十分に理解することができない。それは、科学の研究方法として、『分析」が使用されるからである。「分析」は、全体として現れている複雑な現象を、単純な「諸要素」へと置き換えること。「諸要素」はそれだけで生きているわけではなく、「諸要素」の塊、物質の塊をいくら集めてきたところで、そこから生命そのものを示すことはできない。つまり、生物学的な生命の理解は、生命を死んだものとして捉える事にならざるを得ない。「死の存在論的優位」というべき自体が起こっている、とヨナスは強烈に批判する。

生命を生命として理解するためには、「有機体」と「精神」とを統合的に捉えることが不可欠である。

 生命には死んだ物質に還元できない何かがある、その何かが「精神」だとするなら、「精神」は、あらゆる原始的な生命にも認められるものでなければならない。

 他方、「精神」は、有機体として存在する。そうである以上、通常我々が人間の精神にだけ認めているような事柄、例えば自由といった概念も、根源的には生命としての有機体の機能と結びついているはず。

 生命を理解するためには、私自身が生命であり、すでに生きているという経験をしているものでなければならない。→わたしを理解するためには、わたしがわたしを経験しなければならない。 →批判的分析と現象学的記述

・生命の本質としての代謝

 生命の現象学的記述の基本的なふたつの概念

 ①質量︙ある存在を構成している物質
 ②形相︙ある存在のまとまりを持った形

 非生命(例えばガラス)は、質量と形相は原則的に完全に同一である。

 生命は、こうした同一性は当てはまらない。なぜなら、生命は「代謝」をする。

 摂食や発汗、排泄、呼吸などの代謝は、自分の身体の外側にあるものを、自分の身体の内側に取り込み、また同時に自分の内側にあるものを、外側に排出する働きである。代謝をすることによって自分の身体を構成する諸物質を絶え間なく交換している。この交換によって生命の個体性は維持されていく。そうであるとすれば、生命の質量と形相の間には、質量が絶え間なく変化していくことによって、初めて形相が維持されている、という構造が示される。

 生命の存在は、移り変わる質量によって支えられた形相のうちに、根拠、本質を持つ。ヨナスはその存在のあり方を次のように表現する。

「有機体は、ある瞬間には物質の事実的な集積と一致するが、瞬間の連なりのなかではいかなる個別の集積にも束縛されていず、その形相ーその有機体自身であるところの形相ーにのみ束縛されている。有機体は、物質の利用可能性に依存しつつ、その物質のまさしくその物質としての同一性からは独立している。有機体自身の機能的な同一性は、物質の実態的な同一性とは合致しないのだ。要するに、有機体の形相は、質量に対する困窮する自由という関係にあるのである」

 生命は、質量の同一性からは自由。同時に質量の利用可能性に依存している。

 生命に、「行為しない自由はない」。それは代謝の停止が死を意味するからである。死んでしまった生命は、たとえその生命の質量がどれほどこの世界に残されていても、もうどこにも存在しない。

 生命の内と外の概念の発生、自己は有機体内に留まる。非生命との鋭い対立。

 世界の両義性(世界は生命にとって異質なものであり、かつ存在するための条件である)

 代謝は生命を存在させる働きであると同時に死を可能にする。この著しい矛盾を生きることこそが生命の本質である。

・生物種の進化

 生物種の進化の系譜のなかで自由は漸次的に増大していく。

 植物は、地中に埋まっているため、直接的に代謝を行うことができる。

 動物は、空間を移動して、また加工(咀嚼など)するなど間接的に代謝を行う。

代謝への隔たりの増大が自由を増大し、また死へのリスクを増大させ、生命の自己意識を先鋭化させる。残る課題は、自由とは何か。自由とは人間にとって何を意味しているか、ということ。 

ホモ・ピクトル

 進化の頂点にいる人間の特殊な種類の自由とは何か。

 「ホモ・ピクトル(描く人)」

人間は不完全性を前提として像を描く。

人間は類似の完全性に囚われることなく像を描くことができる。現実のあり方に囚われていない。

「可能なものの王国」

像を描くということが、「事物を再創造」することであると同時に「新しい事物を創造」することでもある。

ヨナスは、何かを描くという行為に必ず伴う「自分の振る舞いと心の状態」を「私」と呼ぶ。
「チーズケーキ」を語ることは、そう語る「私」自身を克明に映し出すことになる。

「私たちは『像』という語をよくよく考えたうえで用いている。人間は、人間にふさわしいものの像に従って、自分自身の内的なありかたと外的な行為を形成し、経験し、判断している。望むと望まざるとに拘らず、人間は人間という理念を『生きている』」


※自分にふさわしい像は何か→「あるべきようは(明恵)」に繋がる。

 

・歴史を繋ぐものとしての人間

ヨナスは、進歩史観と一線を画す歴史観を持っている。すなわち、歴史的に形成される人間像の間に優劣をつけない(過去の人間を現代の人間より下位に見ない)。→つまり、人間、個人の人間、個体としての人間は進歩してはいない、ということ。

・責任について

 責任という日本語は「Verantwortung」というドイツ語からの翻訳。

 「Ver-」は行為の遂行を強調する接頭語、「ant-」は英語「anti』で相手に向かって、の意。「wortung」は「言葉にすること」。つまり、「誰かを相手にしてはっきりとした意志に基づいて、言葉にすること」。ドイツ語には「責任」という意味に加え、「弁明する」というニュアンスも含まれている。

・生命の存在はそれ自体で善である。

 目的を持つということは、その目的を目指す努力を肯定すること、つまり自分自身が現実にこの世界に存在している以上、善はこの世界に存在するのであり、生命の存在において、存在と価値は一体になっていると考えられます。ここに至ってヨナスは、没価値的な存在論に対抗しうる、もうひとつの存在論の可能性を提起している。

 もし「私」が生命に対して責任を感じないのなら、そのとき「私」は生命を生命として認識していない。

 責任の能力は有用性からの自由を前提とする。それは、私自身を取り巻く環境から距離を持って物事を眺める、という能力。こうした、隔たりをもって物事と関係するということは、ヨナスの哲学的人間学に基づけば、人間だけが持つ自由の次元に他ならない。ヨナスはこうした議論に基づいて人間だけに責任の主体としての視覚を認める。

・未来の形而上学の仕事

 「あなたの行為を原因とする影響が、地上における真に人間らしい生き方の存続と両立するように、行為せよ」

・神について

 未来への責任という行為を引き受けるということは、私たちの人生にどのような意味を持つのだろうか。

 最悪の未来を回避すること。

 決断の瞬間は永遠の眼差し

 人は死ねば消え去るが、行為は決して消え去りはしない→行為の不死性

・仮設的な神話

 「始まりにおいて、私たちには知りようもない選択によって、存在の根拠である神的なものは、生成という偶然と冒険と無限の多様性に身を委ねることを決定した。しかも、それは全面的になされた。すなわち、空間と時間の冒険へ入り込んだとき、神は何一つ自分の要素を残しておかなかった。

 神の像は、物質的万有によってためらいがちに開始され、人間以前の生命が示す、最初は広く、後にはだんだん狭くなってゆく螺旋状の姿で、長らく、未決定なままで形作られていた。その神の像は、この最後の転換によって、また劇的な運動の加速によって、人間による不確かな管理のもとへ移行する。その結果、神の像は、人間が自分と世界に関して行うことによってー救われる形で、もしくは台無しにされる形でー実現されることになる。

 つかの間の「である」が「だった」に貪り食われていく。そうした時間をもつ世界の出来事において、ひとつの永遠の現在が育ってゆく。その永遠の現在の相貌は、神的なものが時間の中で経験する喜びと悲しみ、勝利と敗北を通じて描線が刻まれてゆくにつれて、ゆっくりと姿を現す。それらの経験はこのような仕方で不死のものとして持続する。

 私たちは作り上げることも壊すこともできる。治すことも傷つけることもできる。神性を養うことも放棄することもできる。それを完成させることも歪めることもできる。一方の刻印による傷跡は他方の刻印による輝きと同じだけ後世に残る。したがって、私たちの行為の不死性は虚勢に満ちた自惚れの理由にはならない。むしろ私たちには、私たちの行為の大多数がいかなる傷跡を残さないようにと望む理由のほうがたっぷりとあるだろう。しかし、それは認められない。私たちの行為は実際に描線を引いたのであり、それは残るのである」

・無力な神

 アウシュビッツという悲劇と整合しうるように、神の概念そのものを再構成する。

 アウシュビッツで悲劇が起きた理由を、神が「欲したからではなく、そうできなかったから」として説明する。つまりその悲劇は、神の不在を証明するのではなく、神の無力を証明するものであるとする。

 ヨナスは、神が私を守るのではなく、私が神を守る、と語る。

・未来への責任は、人類の存続の責任であり、歴史が可能であることの責任です。そして、その責任を引き受けるということは、一度行われてしまった人間の行為が、その後で無かったことにはならない、という時間性を受け入れることを前提にしています。即ち未来への責任には、これまで人類が引いてきた描線を受け入れながら、新しい描線が引く可能性を開き続けることが、同時に含まれています。したがってその責任を果たすことは、殺された人々の存在を無かったことにしないということ、そうした仕方で、その存在を「永遠」へと「参与」させることを前提にしているのです。しかしその「描線」は「不正行為」として引かれたものであり、「影」であり、私たちはこれを「修復」しなければなりません。そしてその「修復」とは、「神性と未来の世界」に対する「義務」を引き受けること以外の何ものでもない、とヨナスは考えていたのです。

・アーレントからの批判

 「責任」はあくまでも社会的な関係であって、「国家的あるいは政治的な共生から生じる」ものであると主張。公的な責任概念。ヨナスは家族をモデルに、私的な責任概念を展開。両者は真っ向から対立している。

議論は公的な場で公的に行われる。

・ガダマーからの批判

 ヨナスはカントに従っている。新規性はない。

・アーベルからの批判

 ヨナスはカントの倫理学の刷新を試みながらも、失敗している。

・国際社会における受容

「責任という原理」は二〇世紀に最もよく読まれた倫理学書に。

 予防原則、予防的アプローチ。完全な科学的確実性が伴わないのだとしても、深刻な被害が生じうる場合には、これを回避する対策を講じなければならない。

・哲学者であるというと同時に、ユダヤ人であるということ

 これは、ひとつの「緊張」を意味していた。 生命の逃れられない本質としての代謝と、そこから導き出される人間の自由と再創造の能力をもって、神に守られるのではなく、神にも責任を持って活動していくことを高らかに宣言し、ひとを肯定するヨナスは、アウシュビッツに象徴される人間の不条理・不合理に全面的に対峙し、戦いを挑んでいる。
 人間中心主義を未来に繋げようとする思惟が途切れることのないように、我々は生きていかなければならない。

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