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"HOME"less2020.

中学や高校、専門のときもそうだった。
金がなくて金がなくて、灯りと人が最後まであるのはその県の中心地の駅だった。

駅は日常と非日常を一定の規律の下で丸ごと受け入れる特殊な場所だ。説明できないが、夏至線や太陽系のような構造を感じる。


ろくな音楽もない。巷にあふれる音楽を聴いては、人類が育み発展させてきたお前らのラブの引き出しはそんなものかと怒鳴りたくなる。
それでも街か、自然か、思いつく誰かをとりあえず無差別に想像して、その歌を歌いながら帰る。
型でくり抜くとき生地が余るのを解ってながらも、形を崩さない程度、勿体なさそうに上に乗せて喉のオーブンまで運んでいく。

欲張りで傲慢な奴だ。
なんでも完璧に伝わることも、受け取ることもできはしないというのは赤ちゃんが赤ちゃんの頃に学ぶべき正しい自他境界であり、
その無茶に、我儘と欲で張り合う私は未熟者の青ちゃんである。

表現という文字に「伝」という字は入っていない。
伝達者とはあまり言わないし、表現者はよく使われる。
伝達と表現の差の本懐を実はまだ知らないような気がする。

駅の良さを話そう。
例えば関係ない人が沢山乗るところだ。ぜんぜん違う、途方もないほど縁もゆかりも無い人間が同じ連結車両の中にいる。
それは非常にドラマチックな事実で、いろいろな解釈の仕方がある。

他には、夜まで灯りがついてることだ。
帰る場所がないとき、駅構内や駅周辺の明かりは非常に優しい。どんなに寒くても、そこに人と灯りがあるだけで暮らしに絶望しないでいられるのは何故だろうか。
大体そういうときは携帯も使えなくなってるから、人を眺めてその人の暮らしを勝手に想像するのも面白い。
幸せなのか、それ以外なのか、
僕があの人だったらどんな顔をして歩いてるか。

駅から帰る間、音楽をずっと片耳に流していた。ラブソングが多い。売れるんだろうし、僕も書くからわかる。作りやすいんだ。
気持ちを乗せるのも容易いし、それはequalで共感を生むのも容易いということだ。

すごく貧乏だった頃、ラブソングという文化全体に腹が立って憎しみソングを書きまくった時期があったが、その歌詞が自分を蝕んでいくのがわかって早めにやめた。
八方美人をディスって「全方向美人」とか書いてたから、全方向美少女がYouTubeショートに流れてきたときはタイトル文字で一瞬血の気が引いた。蓋を開けたら全肯定美少女ソング、普通に名曲で安心した。

駅を使えば、大抵すぐ海沿いに行くことができる。
僕にとって美しい港は、未来への励ましだったり、過去への労りだったりに使われる。
そう言えば僕の地元には手早く海へ行く手段がなかった。こんなに愛してるのに。

経営に適していると納得する程度まで料理の勉強を積んだら、開業に適したタイミングを見計らって、猫と沢山の花を囲みながら気の優しい料理店をする。
休日は嵐みたいに巨大な犬をゾロゾロ引き連れて動物大家族で暮らして、その姿がSNSでバズる。


駅に惹かれるのは、夢を見るしか娯楽がなかった日々の記憶と密接に繋がってるからかもしれない。
駅の音をきいてると、「ここまで生きこれたんだ、くたばらずにやってこれたんだ」と、
過去と現在とこれからを丸ごと認められるような気持ちになれる。

駅の良いところは他にもある。
知らない場所に行ってもどの辺の駅にいるのか把握できることだ。人生と違ってな。

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