コンプライアンスを気にしちゃう俺たちの、コンプライアンスとの付き合い方
巷に根付いた「コンプライアンス」
時は令和。
世はまさに、前代未聞の大コンプライアンス時代。
「コンプライアンス」という言葉が出始めのころは主に企業活動に対して使われていた気がしますが、最近だと個人の言動に適用されることも増えて来たように感じます。(というか、日常での接触数を考えると後者の方が出くわす場面は多い気がします。)
個人的見解では、芸人さんの闇営業問題や、フリースタイルダンジョンでの伏せ字としてその略称の「コンプラ」が使われたことで一気にポピュラーになった印象です。
言葉の意味としては、見つけた中だとこの説明↓が分かりやすいと思いました。
コンプライアンスを守る意識が人々に根付き、気にすることが多くなってきたことで、「これを言いたいけど、言うと傷つく人がいるかな」だとか「変に広まって非難されないかな」と心配になり、自分の中のコンプライアンスフィルターを通過できず、結局は言えずに心のうちに秘めたままで終わるような経験をしている人は少なくないはずですし、1人がその場面に遭っている数も2・3回では足りてないはずです。
自然発生しちゃうコンプライアンスチェック
その他にも、既に世に出ている発言や表現に対して、
といったコメントが付いてる光景を見たことはないでしょうか。
目の細やかさ・粗さに個人差はあるものの、発信者のコンプライアンスフィルターを突破して多くの人に届けられた言葉に対して他社からの指摘が入るのも、Twitterを始めとしたSNSの登場によって目にする頻度がぐんと多くなったんだと思います。
(俺も過去にその類のコメントをしたことがあるかもしれません)
ただイチャモンを付けたくて重箱の隅をつつくようにそんな指摘をしている人もいそうではありますが、多くは発信者の身を案じた優しさだったり、1つの物事を多視点で見たことによる気を利かせたアドバイスだったりというパターンなのかな…と俺は性善説ぎみに捉えています。
過度なコンプライアンス意識に感じる懸念
その良さげな指摘がどうしたの?と思われた方もいるかもしれませんが、この指摘は必要最低限に留めるべきではないかと考えるので、こういう形でカジュアルに警鐘を鳴らさせてもらいます。
俺が危険視しているのは、それらの指摘が引き起こる「不必要な懸念に対して、必要以上の対応をしてしまうことにより、窮屈な環境の構築してしまう可能性がある」という側面です。
上記に挙げたようなコメントは、コメント主が想像を働かせたことによりたどり着いた反応・非難の紹介なので、コメント主が不快な思いをしたり・ショックを受けた訳ではない、あくまで「自分はそうじゃないけど」な内容であり、もっと言わせてもらうと実際にその言葉で嫌な気持ちになった人の存在を確認できていないことも往々にしてあるんですよね。
「どれくらい気にすべき表現なのか」を考えてみる
その状況を踏まえると、とある発言で"傷付く人がいるかもしれない"とは確かに考えられるけれども、その人は本当にいるのか?…いるとしたら、どれくらいの確率でいるのか?いたとして、想像通りのリアクションになるのか?ということを考えてみた方がいいかもしれません。
果たしてこの指摘は気にするべき観点に基づいているのか、該当する人の元に届いたとして本当に嫌な気持ちになるのか、そういう思案を巡らせた後にコメント・指摘として言っておくべきなのか判断ができるといいのかと、俺は考えています。
思いついた例が気にする必要がないくらい少ないパターンだったり、よく考えると実際の害がなさそうな懸念事項だったとして、そんなことに神経を使って・縮こまって・殻にこもって・首を絞めちゃって…、息苦しさを感じるのは誰にとっても良い環境ではないと思うからです。
気を利かせたはずの指摘で、お互いが必要以上に気を遣いすぎた結果、思ったことを言えない場面が増えて、やりたいように振る舞えなくなり、抱えるはずのないストレスが山積みになってしまうのは、もちろん損ではあるし、得にはならずで、世間・コミュニティ全体で見た時にもマイナスですからね。
とはいえ、コンプライアンスフィルターに引っかかるようであれば、発信した後も気がかりで仕方ないと思うので、自分主導で発する自分の原動については安心して世に出せる程度になるよう検討していいと思います。
多少の保険をかけておいた方が不必要な指摘は来づらくなりますし、クリティカルな表現を避けて言いたいことを言うという作業も、人間味があると思うので。
生きやすい世の中を目指して
みんなが、ほどよく好き勝手に色々と思ったことが言えて、ストレスがかかりすぎないように適度にガス抜きができるような世の中にしていけるといいなと思うものの、まずは1人1人がそんな世間を作るべく自分から発することを気にしつつも気にしすぎず、人の言動を無理なく許容していけるような振る舞いを身につけていく必要がある…として、まずは自分からはじめていかねば!と、ここまで書きながら考えた次第です。
最後に、この記事も人によっては気にしすぎ案件だと思うかもしれません。そんな時はもちろん、ここで書いたことは気にしなくて結構ですし、記憶から消してもらっていいですし、記録(アクセス履歴)も消してもらって大丈夫です。
気にしすぎだと感じなかった人は、ほどよく許容し合える世の中を目指して、草の根的にちょっとずつちょっとずつ一緒に行動していけると嬉しい限りです。
それじゃ、また。
おまけ
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