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ツギ・ハギ・ハグ

優しいとか正しいとか、まじめとか立派とか。
そういう風に思われていたいって、結構幼いころから意識してた。そして実際そう思ってもらえてきていたような気でいる。

小学校の頃とかはそれがかなりわかりやすくて、班長とか委員長とかそういう響きが好きすぎて立候補してた節がある。たくさん褒めてもらえるから通知表を渡されるのもごほうび感覚だった。「ねえちょっと見してよ」と友達から言われて見せた、わたしのその通知表の内容をみて「すっご、さすがガリ勉だ〜!」とか、からかわれた記憶もある。

今現在はどうか?というと、その軌道からちょっとずつ、じわじわ〜っとそれる形で方向転換し続けている感じがあって、それに合わせて自分を甘やかすように「まあこれはこれで」って顔で暮らしている。

良くも悪くも、なまけるとか、くだけるとかを覚えた気がしている。そしてそこに劣等感もさしてない。

なんとなくこうして自分を言葉であらわしながら気がついたことなのだけど、わたしはもしかしたら、優しくて正しくてまじめで立派なひとになりたかったわけではないのかもしれない。憧れはちゃんと持っているけど。


優しくて正しくてまじめで立派なひと、と。
思われていたかったから、そう思われるようにしていた。みたいな。そんな感じがする。

うん、きっと、絶対そう。
「そうなりたい」ではなくて、「そう思われたい」、しっくりくるのはそっちだった。

優等生!みたいなその響き、雰囲気、オーラがとにかくかっこよくて、まず形からはいって。その形をつくるのがわりとうまくいって、その形をつくれたことで、もう充分に満足していた。

いろんな方面から見て、わたしの「だめさ」加減が、あれなんだろ、なんだか最近目立つな、こんな感じだったっけ?まあ別に良いけども、みたいに思ってたけど。

たぶんそれは「だめ」でもある程度ゆるされることを理解して、とってつけてつぎはぎをしてまでまっとうなひとをそれまで演じなくても良いって、ゆるんできているから。

「だめ」でも「まっとう」でも、それが自分のことなら、まずは認めていくのがやりやすい。
そう気がついていった結果、じゃないかなあ。
どんな自分であれ、自分である以上は守りたいし、守るべきって、今は思ってる。

――まっとうでも、まっとうになりたいのでもなく、まっとうと思わせて、そのとおり!とうぬぼれていたいだけだった!みたいな。
こんな自分の小ささをこうして言葉にしても、特に反省とか自己嫌悪とかに繋がらないあたり、結構わたしの自分への甘やかしは徹底されている。

自分をそれなりに愛せるなら、まずはそれで良い。

別にそんなに優しくなくて、それなりにまちがってもいて、ふまじめでちゃらんぽらんなわたしでも。それが今のわたしだとしても。
わたしなりにそういうわたし自身を認めていられるならそれで良い。

昔の、優等生への憧れの強かったわたしは、誰かに認めてもらうとか、愛してもらうとかがあって始めて、自分のことを認め愛せるものだと思っていたのだろうけれど、今はそうじゃないと思う。


自分のことを認めるため、愛するためになにより必要なのは、まずは自分から自分を認めて、愛すること。
ひとからの愛や評価はそのためのプラスアルファのパーツだと思う。

つぎはぎして自分を繕って、誰かに愛されて抱きしめられるのを待つのも大切だけれど。
まずはその前に、自分のことを自分でハグするような感覚でいたわってみることが、うるおったこころで生きていくのには結構重要な感じがする。


甘やかされたいな、抱きしめられたいな、と思う自分のこころの声に気づけたなら、まずはできるだけ自分がそれに応えてあげたい。
誰かに甘えて抱きしめてもらうのは、自分へのいたわりを試したあとにとっておく。


誰かに愛されたいときに、誰かを愛するよりもまず先に自分を愛してみること。そういう自分であること。

たぶんそれがわたしなりのわたしの動かし方として合ってる。

こうして文章を書く趣味を続けるのもまた、自分を愛するためのひとつの方法で、おまじないで、魔法のようなもの。


……そろそろまぶたが重たいのに、どうもこの言葉たちのまとめかたに困ったので、昔のわたしがつくった歌をひとつ唱えて眠っちゃおう。



ももいろのボディクリームぬってみる今日はわたしを愛したいので


こうして曖昧な終わり方でこの話をやめにするのもまた、わたしへの甘やかしだなあ。

ありがとう、わたしを甘やかすわたし。


おやすみなさい。ふふ。

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