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VTuberはアイドルの正統進化である! と思う(アイドル論・メディア論的に)

まえがき

VTuberは次世代のアイドルである! という仮説を思いついたわたしは小躍りした。こんな意外な関係が明らかになるとは!
だが、最近になって思うのである。それは世間では当たり前のことなのではないか? たとえばBloombergの記事にはこうある。

架空のアニメキャラクターがネット上で現実のアイドルのように活動するバーチャルユーチューバー(Vチューバー)。本物のアイドルをしのぐ人気者も登場する中、ネットを通じてファンと双方向のやり取りができる点が受け、海外進出も始まっている。

「動画で会える」Vチューバー、アイドルより人気-海外進出も

この記事からは、「VTuber=アイドル」という認識が当然の前提となっていることがうかがえる。 
しかしせっかく思いついたし資料も読んじゃったし、ここに仮説をまとめてみることにする。

注意:筆者はYouTube以外(Twitch、IRIAM、Mirrativなど)で活動しているVTuberについてはとんと無知である。そのためそちらの方面はほぼ触れないということをご承知いただきたい。


そもそもVTuberとはなにか

さて、そもそもVTuberとはなにか。
実のところ明確な定義は無いようである。かろうじて総意のようなものを見つけるとしたら、以下のようになろうか。

「VTuber(語源はバーチャルYouTuberの略)」とは、リアルタイムでアバターを動かして動画配信やライブ配信を行う「アバターを使った配信者」のことです。

バーチャル美少女ねむ.  メタバース進化論――仮想現実の荒野に芽吹く「解放」と「創造」の新世界. 技術評論社, 2022, 169p

このような簡素な定義でさえ、「配信をせずに動画を作っている場合はどうなるんだ」とか「アバターの状態でライブに出ているのはVTuberじゃないのか」とか「YouTubeを使っていない場合はVTuberではないんじゃないか」とか、色々な反論が聞こえてきそうである。
それほどまでに定義の難しい概念なのだ。

ともあれ、読者との間に共通理解がないと話が進まない。
ここでは、VTuberのキーワードとして「バーチャルYouTuber」「ライブ配信」「アバター」「ロールプレイ」を挙げ、解説を試みることにしよう。

VTuberと「バーチャルYouTuber」

「バーチャルYouTuber」(VTuber)とは、2016年12月にキズナアイがYouTuber活動を行う際に名乗り、初めて使用された名称である[4][11][12][15]

バーチャルYouTuber - Wikipedia

上に挙げたものが、世界で最初に「バーチャルYouTuber」という単語が使われた動画である。
実写のYouTuberに対応する、バーチャル(3DCG)のYouTuber。そんな意味合いであろう。
「VTuber」という単語は一般的に、このバーチャルYouTuberを略したものであると考えられている。と思う。
しかし興味深いことに、キズナアイのプロデューサーである松田純治の意見は異なるようである。

僕らがキズナアイを世に送り出してから半年頃してフォロワーが現れた。正直なところ、僕は当時からこだわっていた"実在性"をまったく考慮していないイミテーションの存在に「一緒にされたくない!!」という強い拒否反応があった。今思うともう少し寛容でもよかったじゃないか。と思うけれど、当時尖りすぎていた僕にはいろいろと許せない事があったのだ。

「バーチャルなのに飯が食えんのかよ!!!」みたいな。

キズナアイは確かに実在する。|J.matsuda

ここで言う「実在性」とは、「なぜ配信者の見た目が二次元(アニメーション)なのか」という問いへの明確な答えのようだ。
キズナアイの場合は、「人工知能が配信を始めた」ということになる。松田らはこれに徹底的にこだわった。
しかし、キズナアイに追随する存在たちはその実在性へ特にこだわりがなかった(少なくとも松田にはそう見えた)。
松田は当時、そのような状況に敗北感を覚えたと吐露している。

配信者×アバター化、生主のリプレイス的なコンテンツは、中に人がいるということを許容し、より顕著に"中の人"の魅力にフォーカスするコンテンツだった。

キズナアイは確かに実在する。|J.matsuda

その上でキズナアイとVTuberは別物であるとし、VTuberを「アバター文化」と捉えている。

しかしわたしとしては、アイドルやタレントとの類似性を鑑みるに、遅かれ早かれVTuber(バーチャルYouTuberではない)は出現していたのではないかと考えている。
皆が求めていた存在はVTuberの方だったのだ。その理由を本稿では考察していく。

ともあれ、キズナアイをきっかけにして、爆発的にVTuberの数は増えていった。そして、最初は動画投稿が主体だった活動がライブ配信へとシフトしていく。

VTuberと「ライブ配信」

ライブ配信に関して、NTTスマートコネクトのサイトにはこうある。

ライブ配信とは、撮った映像をリアルタイムでストリーミングサーバーへ送り、ユーザーがサーバーへアクセスすることにより、現場の現在の様子を、逐一観察することが出来るものを指します。ライブ配信は、もともと作成し、アップロードしておいた動画にユーザーがアクセスする形式のオンデマンド配信とは対になる手法になります。 ライブ配信は交通情報、監視システム、会議などといった業務用以外にも、音楽や芸能等のエンターテイメントの配信としても多く用いられています。また、動画共有サイトでの娯楽配信としても盛んに用いられています。

ライブ配信 | 動画配信キーワード集 | 動画配信システムならNTTスマートコネクト

現在、VTuberは主に各種プラットフォームにおけるライブ配信が主な活動内容になっている。と思う。
VTuberの出現当初は動画投稿(オンデマンド配信)が主だったものの、にじさんじの出現あたりからライブ配信へ移行していった印象がある。

ここで、実際の配信画面の一例を見てみよう。

月ノ美兎. “リスナーからアクセサリーもらいました.” YouTube, January 3, 2023. 1:07:47.  https://www.youtube.com/live/wgD-IFC0q-s?si=NLrqo2e0AQjJMP6j.

画像は、にじさんじに所属しているVTuber、月ノ美兎の配信のスクリーンショットである。
画面左側にいる少女のイラストが「アバター」と呼ばれる。配信者の実際の表情や動きをある程度反映できる。
また、画面右側にある「コメント欄」には「リスナー」(配信の視聴者)の書きこんだコメントが表示されている。

配信者はアバターを動かしながら、マイクを通した言葉をリアルタイムで視聴者に届ける。これによってアバターという架空の存在にある程度の実在感が付与される。アニメのキャラクターがそこにいるような感覚である。
配信の場合は、コメントの一部を配信者が読み上げ、それに対して反応するというやり取りが一般化している。
わたしは、この視聴者と配信者間のコミュニケーションのリアルタイム性がVTuberの重要な特徴だと考えている。これと後述するロールプレイが合わさった存在こそVTuberなのだ。

VTuberと「アバター」

アバターに関して、Wikipediaにはこうある。

アバターアヴァター (avatar) は、主にコミュニケーションで用いられる自分(ユーザー)の分身となるキャラクター像のこと。

アバター - Wikipedia

たとえば、以下の画像のように配信者が配信を行うとする。この配信者を「演者」と呼ぶことにしよう。

若い男性はバーチャルリアリティヘッドセットを使用していますネオンライトスタジオの肖像画バーチャルリアリティシミュレーションゲーム未来のテクノロジーのコンセプトは - 1人のストックフォトや画像を多数ご用意 - iStock

配信中、カメラによって演者の顔を捉える。VTuberの場合はその映像をそのまま配信するのではなく、表情や身体の傾きなどの情報として抽出し、アバターへリアルタイムに反映する。

ちなみにVTuberのアバターは人間が多いが、必ずしも人間でなくともよい。眼球でもマッチ棒でも、オムライスの載った皿がたくさんの人ならざる者の腕で支えられている姿でも構わない。

VTuberと「ロールプレイ」

VTuberを単なるアバター配信者と区別する重要な要素として、「ロールプレイ」が挙げられる。
ロールプレイはVTuberがその個人の「世界観」を守った言動を行うこと。
世界観はそのVTuberがキャラクターとして持つバックボーンであり、設定のことである。

たとえば、ホロライブに所属するVTuber、さくらみこの公式プロフィールはこうなっている。

「にゃっはろ~!ホロライブ所属のエリート巫女アイドルさくらみこですっ!」

電脳桜神社の巫女として真面目に神事をこなしてきたが、神にお使いを頼まれ日本に訪れた際。(お使いをこなしていくうち、)「ときのそら」に出会い、憧れを抱きバーチャル巫女アイドルになることを決意し、日々奮闘中!
「エリート」と自称しているが、ファンの間では「ポンコツ」という噂も・・・。

さくらみこ | 所属タレント一覧 | hololive(ホロライブ)公式サイト

「電脳桜神社」はもちろん実在せず、架空のものである。VTuberはこのような架空の肩書きを持っている場合が多く、「設定」や「世界観」などと呼称している。
設定を遵守する度合は個人によって様々だが、基本的に設定自体を完全に否定することはない。
また、視聴者側も肩書きが設定であり架空のものだと知りつつ、それを指摘するのは野暮なことであるとされる。着ぐるみの中に人間が入っていることをわざわざ指摘しないのと一緒である。

アイドルとはなにか

続いて、アイドルの定義はなんであろうか。

Wikipediaによれば、以下のようになっている。

アイドルは、英語の「idol」(偶像。崇拝される人や物)[1]から転じて、現在では「恋愛感情を持つ熱狂的なファン売上のメイン層を占めている歌手、俳優、タレント」などをいう[2][3][4]

アイドル - Wikipedia

ただ、アイドルに関する参考文献をいくつか読んだ限りでは、上の定義はアイドルファンから全面的に支持されないと感じる。
「アイドルは疑似恋愛の対象」という言説は短絡的であるとこれまでも批判されてきた。
『アイドル・スタディーズ』ではアイドルの「恋愛禁止」ルールにからめて、ライターのさやわかの論を以下のように引用している。

さやわかはまた、AKB48に代表されるアイドルの商法に対する批判的な言説を分析するなかで、それらの言説が「メンバーに対して恋心に近い感情を抱いている男性」をアイドルファンとして設定していると指摘し、そうした一面的なアイドルファン像に対して反駁する。そして、しばしばセックスアピールに還元した説明がなされるような、アイドル受容についての短絡的なイメージに対しては、「AKBはむしろそのセックスアピールを成り立たせるために行われる泥臭い努力こそが魅力になっているグループで、だからこそ今では多くの女性ファンが存在している」と論じる(さやわか 2015: 73)。

田島悠来 編. アイドル・スタディーズ――研究のための視点、問い、方法. 明石書店, 2022, 68p

他の文献で言うと、『アイドル進化論』には以下のような定義があった。

楽曲の比重が軽くなった歌手、それがアイドル歌手である。

太田省一.  アイドル進化論. 筑摩書房, 2011, 28p

また、『アイドル/メディア論講義』にはこうある。

オタク第一世代にあたる作家でコラムニストの竹内義和は、〈アイドル〉を「清純少女歌手」と明快に定義しています。

西兼志. アイドル/メディア論講義. 東京大学出版会, 2017, 13p

わたしが読んだ範囲では、他に明快な定義は見つからなかった(読んだが忘れている可能性もある)。
だが読んだ範囲で統合してみると、アイドルはパフォーマンスよりも本人のキャラクターによる魅力・周囲との関係性に依存したパフォーマーであるようだ。楽曲という作品よりも演じるアイドル本人が前に出てくるし、何かの役割を演じているときでも、やはり本人の人格や周囲との関係性が押し出されてくるのである。

詳しく見ていくにあたっては、「若さ」「虚構性」「関係性」「キャラ」「スター・タレントとの違い」あたりがキーワードなのは間違いないようだ。

アイドルと「若さ」

どうやらアイドルの原点と言ってよい存在は、1971年にデビューした南沙織のようである。
『アイドル進化論』には、彼女のデビュー曲について以下の説明があった。

デビュー曲の『17才』は、夏の海を舞台に繰り広げられる男女のみずみずしい恋愛を歌ったもので、「私」という一人称で書かれている。

太田省一.  アイドル進化論. 筑摩書房, 2011, 24p

この曲は歌手の南自身=歌詞の登場人物(「私」のこと)と捉えられるよう、意図的に作られていた。当時の担当プロデューサーである酒井政利は、南のプロデュースに関して「私小説的な作り」を一貫させていこうと考えていたようだ。つまり、楽曲が先にあるのではなく、歌手の魅力を活かすために楽曲を作るのである。

一七歳の南沙織と、南が歌う世界が重なり合うことで、同世代の若者なら誰もが憧れるような青春の世界がそこに生まれていた。

太田省一.  アイドル進化論. 筑摩書房, 2011, 28p

南を特徴付けていた「若さ」は、その後も「アイドル」という存在を定義づけることになる。
ただ、アイドルも人間である以上、いつまでも若くはいられない。ある程度の年齢になったアイドルたちは決断を迫られる。

七〇年代アイドルがそうした課題に直面した場合、南沙織のように早めに結婚・引退するか、でなければアイドル歌手にどこかで見切りをつけ、大人の歌手になることを決断するしかなかった。

太田省一.  アイドル進化論. 筑摩書房, 2011, 97p

この状況に変化をもたらしたのが、松田聖子だった。彼女と山口百恵を比較して、『アイドル/メディア論講義』にはこうある。

一方は終わること(山口百恵)、他方は終わらないこと(松田聖子)によって、伝説となり、モデルとなるわけです。しかしそれはまた、「終わること」も「終わらないこと」も、ともに〈アイドル〉を定義する「若さ」を維持するものだからにほかなりません。引退し、それ以降、表舞台に姿をあらわさないことで、若い姿のままで記憶されることになります。また、逆に、現役で活躍し続けるということによっても若さは表現されます。

西兼志. アイドル/メディア論講義. 東京大学出版会, 2017, 28p

もはや、アイドルの「若さ」は「年齢」に限定されないのだ。それはもっと抽象的なレベルへ変化した。

さらに、最近のアイドルがグループ化しているのも、この「若さ」を維持する仕組みのようである。グループと「卒業」の制度、つまりメンバーの入れ替えは切り離せない。

プロスポーツのチームと同様に、アイドルグループはまさにグループであることによって、「卒業」という制度を組み込み、メンバーを次々と入れ替えていくことで、「清純少女歌手」と定義される〈アイドル〉の「若さ」を維持していくことを可能にしているわけです。

西兼志. アイドル/メディア論講義. 東京大学出版会, 2017, 32p

ではなぜ、そうまでしてアイドルに「若さ」が求められるのだろうか。

『アイドル進化論』には以下のようにある。

こうしてみると、アイドルとは、社会が学校化し、〈若さ〉が義務になってしまうような状況のなかで、〈若さ〉を権利として再発見させてくれる存在であるようにも思われる。

太田省一.  アイドル進化論. 筑摩書房, 2011, 276p

また、『アイドル/メディア論講義』では以下のようにある。

先に、とにかく前向きという未来志向が〈アイドル〉を特徴づけるのではないかといいましたが、グループという枠組みは「若さ」というかたちでそれを実現しているのです。

西兼志. アイドル/メディア論講義. 東京大学出版会, 2017, 30p

なぜ「若さ」が重要なのかと言えば(上の二冊の主張をもとに考えると)それが現代の世界を生きる我々に求められているものだからである。
現代の社会は流動化し、先の見えない状況へ置かれることが普通になっている。そんな社会において、我々は常に「未熟」=「若い」状態と見なされ、継続的なアップデートを求められる。学校を出ても学習は終わらない。まるで人生のすべてが学校の延長であるかのように。

アイドルはそのような状況を(やや戯画化して)体験する。
デビューするために研鑽を積み、デビュー後もダンスや歌の練習、ボイストレーニングは欠かせない。グループに慣れてきたと思ったら、運営の判断で突然その人間関係がご破算になり、新しい場所で新しい関係性を築くことにもなる。このようなアイドルたちにファンは自分を重ね合わせるだけではない。ファンは「学ぶ」のだ。

このように、〈アイドル〉が学んでいくだけでなく、その姿を見て、ファンの側も学んでいくのです。なかでも、新しい状況、必ずしも納得できない状況にも前向きに臨む姿勢を学んでいくのです。

西兼志. アイドル/メディア論講義. 東京大学出版会, 2017, 111p

アイドルと「虚構性」

『アイドル工学』では、80年代における「アイドルシステム」についての分析が行われている。
同書によると、まず(1989年当時の)アイドルファンが「クール」になっていることが指摘されている。アイドルが「虚構の存在」であることを認めた上で、あえてそれを楽しむ姿勢。本音を出さず、あくまでも「お仕事」として淡々と歌い踊るアイドルを讃える姿勢。
ミニコミ誌『よい子の歌謡曲』の単行本の巻頭言を引用する形で、同書には次のようにある。

アイドルは、中身なんかで勝負しないから。表面で勝負するから。現象こそ本質だから。ブラウン管を通して。印刷を通して。メディアを通して。

稲増龍夫. アイドル工学. 筑摩書房, 1989, 21p

これは70年代の「常識的大人のアイドル観」、すなわち以下のような言説に対する反発であった。

いわく「アイドルというものは表面上どんなに可愛く見えようとも、その背後には金もうけをたくらむ大人たちの邪悪な意図が隠されているのだ」云々。

稲増龍夫. アイドル工学. 筑摩書房, 1989, 17p

この言説に対して、当時『オールナイトニッポン』でMCを担当していた近田春夫はアイドルが商業主義の産物であることをむしろ全面的に認めた上で、以下のような戦略を取った。

つまり、アイドルが商業主義の作りあげた虚構の存在であるとしても、別に「悪」を助長しているわけでもなく、むしろ「夢」を売っているのではないかと反論したのである。(中略)つまりは積極的に虚構を虚構として楽しみながら、その虚構の「出来の良さ」を論評していくこと、これが近田氏の戦略であった。

稲増龍夫. アイドル工学. 筑摩書房, 1989, 18p

これがアイドルファンにまで浸透したのである。
そんな時代精神へ見事に対応し、大ヒットしたのが「おニャン子クラブ」であった。おニャン子クラブについて同書では以下のようにある。

 おニャン子クラブの成功は、受け手をも巻きこんだシステムの勝利であった。
 そしてTV局側の陰の仕掛人が笠井さんたちであったとしたら、作詞家の秋元康は、表の仕掛人として、自らメディアに積極的に露出し、本来裏=商売の論理であるヒットのコンセプトを公言しまくるという自己相対化戦略を展開した。

稲増龍夫. アイドル工学. 筑摩書房, 1989, 194p

アイドルを発信する側が、アイドルの虚構性を積極的に公言していく事態になったわけである。

ただしファンが完全に冷め切っているかといえば、そうでもないようだ。

『アイドル論の教科書』において、著者のひとりである塚田は「アイドルとプロレスは似ている」とした上で、以下のように述べている。

 類似点の1つとしては、どちらのファンも「うそであること」をわかったうえで楽しんでいる、ということである。
(中略)
プロレスの試合が大概、筋書き(ブック)に沿った演出=演技であることは、プロレスファンにとって自明のことである。
(中略)
 アイドルファンも同様である。アイドルたちがステージの上で、あるいはカメラの前で見せる姿が半ば演技=うそであることや、一部のアイドル(グループ)によってはその歌唱が「口パク」であることも、ファンたちはすでに承知している。さらに、アイドルたちのパフォーマンスの背後に運営の「筋書き」が存在しているであろうこともファンたちはとっくにわかっている。

塚田修一・松田聡平. アイドル論の教科書. 青弓社, 2019, 109p

アイドルファンにとって「それらがファンであることの何らかの妨げになることはない」とする。かといって、そこに真実を見いだすことを完全にあきらめているわけでもないようなのだ。上の文章の直後に、同書では『合本 私、プロレスの味方です』の一部を以下のように引用している。

プロレスファンとは、虚構が虚構でなくなる瞬間というものを信じていて、それを辛抱強く待っている人たちなのかもしれない。そして、そこにこそ、プロレスファンをファンたらしめる秘密があるのではないだろうか。つまり、プロレスファンは、ウソをウソとしてその虚構性を楽しんでいる「成熟した」オーディエンスなのではなく、あくまでもウソから出たマコトを待望しているのではないか。

塚田修一・松田聡平. アイドル論の教科書. 青弓社, 2019, 110p

プロレスファンと同様、アイドルファンも、アイドルを(フィクションのキャラクターのような)完全な虚構の存在として受け止めているわけではない。そこにはアイドルを演じる存在、生身の人間がいる。人生がある。そのフィクションとリアルの共存こそ、アイドルの大きな特徴と言えるだろう。

アイドルと「関係性」

『アイドル論の教科書』では、吉澤夏子の分析を引用する形で次のようにある。

女性による男性アイドルの消費と男性による女性アイドルの消費には著しい違いがある。(中略)女性は何よりも、男性アイドル・グループの「グループ性」、つまり「メンバーの関係性」に志向するからだ。(中略)メンバー同士の「絡み」や「わちゃわちゃ」(ファンはメンバー同士が仲良くしている様子をこう表現する)が大好きである。それこそが最大の「萌え」なのである。

塚田修一・松田聡平. アイドル論の教科書. 青弓社, 2019, 26p

その上で、このような楽しみ方は「女性アイドルの女性ファン」にも存在するとし、

 さらに興味深いのは、こうした「女性アイドルの女性ファン」的なコミュニケーションが、男性ファンにも転移しつつあるように感じられることである。

塚田修一・松田聡平. アイドル論の教科書. 青弓社, 2019, 27p

と報告した。アイドルファンは性別にかかわらず、アイドル同士の「関係性」を楽しむようになってきているのだ。
『アイドル/メディア論講義』では、これは我々の生きる世界を反映したものであるとする。ここでリアルTVという言葉が登場する。

 リアルTV(リアリティ番組)とは、十数名の若者たちが共同生活を送る様子を常時、撮影し、それを放送する番組のことです。

西兼志. アイドル/メディア論講義. 東京大学出版会, 2017, 124p

たとえば『テラスハウス』は有名であるが、他にも類似の番組がたくさんあるようだ。
同書では『ロフト・ストーリー』という番組を分析したフランスの社会学者ドミニク・メールの分析を引用し、この番組の成功の要因は「関係的文化」にあるとした。

 このようなリアルTVは、また、オーディション番組でもあります。しかし、その選別の基準は、歌やダンスなどの能力ではありません。むしろ、コミュニケーション能力、「コミュ力」であって、メールが「関係的文化」と呼んでいるのも、コミュニケーションに重きを置いた文化のことにほかなりません。

西兼志. アイドル/メディア論講義. 東京大学出版会, 2017, 127p

このような番組の中では、フィクションとリアルが極限まで混濁する。もはや伝えるべき最も重要な事柄は「事実」でも「個人の資質」でもない。関係性であり、コミュニケーションである。昨今のアイドルグループも、バラエティ番組も、関係性を強調するようになってきている(「ひな壇芸人」のシステムはその代表であろう)。
そしてこの雰囲気はそのまま、我々の日常を反映しているのだ。

彼らにとって、フィクションは、もはや演じられるものではなく、生きられるものなのです。(中略)それは、メディア化した日常を生きるわたしたちの姿であり、それゆえ、リアルTVなわけです。

西兼志. アイドル/メディア論講義. 東京大学出版会, 2017, 129p

アイドルと「キャラ」

関係性と関連するものとして、「キャラ消費」が登場する。精神科医の斉藤環によれば、「キャラ」は「性格」とは異なるものだという。斉藤の文章を引用する形で、『アイドル/メディア論講義』には以下のようにある。

 一見「性格」と同義語にもみえるが、必ずしもそうではない。というのも、性格という言葉には個人のなにがしかの本質があるといまなお思われているが、「キャラ」は本質とは無関係な「役割」にすぎないからだ。
 つまり、ある人間関係やグループの内部において、その個人の立ち位置を示す座標が「キャラ」なのである。それゆえ所属する集団や関係性が変わると、キャラも変わってしまうことがよくある。

西兼志. アイドル/メディア論講義. 東京大学出版会, 2017, 147p

そしてこのキャラは、アイドルグループ内での役割としても存在する。そしてキャラは単独では生まれない。あくまでも複数人の間での「関係性」から生まれるものである。
同書ではAKBにキャラ(関係性)を意図的に生み出し、更新する仕組みが備わっているとする。

まず、AKBが大人数であること。それにより(学校の教室のように)キャラの棲み分けが起きる。さらに「チーム」などのサブグループや「総選挙」なの「序列化」を介して、キャラ分化がより複雑になる。

さらに、このキャラ形成にはファンも必須の要素として組みこまれている。
総選挙や握手会において、ファンの行動の結果がAKBの個々メンバーに対して突きつけられる。これがメンバーのキャラを形成する。そして形成されたキャラがファンを引きつけ、そのファンがまたメンバーのキャラ形成に寄与する。
これを斉藤は「『キャラ消費』の循環システム」と名付けた。

このキャラだが、完全なウソではないということに注意が必要である。ももクロメンバーのキャラ付けについて分析した部分で、同書には次のようにある。

 このように、過剰であり、本人と乖離したように見える〈キャラ〉なわけですが、だからといって、リアリティがないということではありません。乖離しながらも、ある種のリアリティを備えているのであり、その意味で、両義的であり、ありのままの姿を拡張するものとして、〈キャラ〉は「AR=拡張現実」的なものです。

西兼志. アイドル/メディア論講義. 東京大学出版会, 2017, 155p

さらに同書ではこうある。

 これは、対人コミュニケーション全般に当てはまることでもあります。〈キャラ〉は、他人や本人に認知されることで、どのようなコミュニケーションを取ればいいかをすぐに理解させてくれます。それは、〈キャラ〉を身につけ(させ)ることで、その人がほんとうはどのような人物なのかというアイデンティティをめぐる問いや本質的に答えの出ない底なしの問いにフタをすることができるということです。

西兼志. アイドル/メディア論講義. 東京大学出版会, 2017, 159p

キャラはコミュニケーションを円滑に進めるためのツールなのである。
それはアイドルだけでなく、一般の人々が日常的に用いている概念なのだ。
「若さ」や「関係性」に引き続き、この「キャラ」が求められる状況もまた、現実を生きる我々の現状を反映したものだったのである。

アイドルと「スター・タレントとの違い」

この章ではますます『アイドル/メディア論講義』の内容に頼ることになるが、ともかく同書では「映画スター」と「テレビタレント」の違いについて以下のようにある。

 それは、テレビの〈タレント〉がコミュニケーション的だということです。そして、この点は、テレビと映画というふたつのメディア的な違いにほかなりません。生放送や生中継などといった「生」がありえない映画で、コミュニケーションは原理的に不可能です。

西兼志. アイドル/メディア論講義. 東京大学出版会, 2017, 50p

ここでそもそも「スター」とはなにかという疑問が湧く。
それは同書によれば「役に対する俳優自身の前景化」である。ドイツの批評家ジークフリート・クラカウアーの文章を引用する形で、次のようにある。

スターが観客を感動させるのは、あれやこれやの役にふさわしいからではない。そうではなく、ある特定の人物――観客が現実だと信じている、あるいは、その現実と替わって欲しいと願うような、映画の外の世界に、演じている役柄とは独立して実在する人物――として存在すること、あるいはそのように見えることに適っているからなのだ。

西兼志. アイドル/メディア論講義. 東京大学出版会, 2017, 48p

つまり、スターはただの俳優ではなく、観客はスターを観るために映画を観るわけである。
テレビが登場することによって、このスターに「テレビ番組と視聴者を結びつける」という役割が足される。タレントの誕生である。

 このような〈タレント〉のコミュニケーション性を純化したかたちであらわしているのが「リアクション」であり、それを切り取って映し出すテレビ画面内の小窓の映像、いわゆるワイプ(コーナーワイプ)です。「リアクション」とワイプによって成立しているのは、情報はゼロの、感情のみからなる純粋なコミュニケーションです。視聴者と同じようにVTRを見て、同じように「リアクション」を取る〈タレント〉は、視聴者と同じ位置に立っているのであり、両者は同一化します。

西兼志. アイドル/メディア論講義. 東京大学出版会, 2017, 41p

1980年代の日本のテレビにおいて、ドラマや報道番組など、様々な番組がバラエティ化していった。それにともなってタレントが様々なジャンルに進出していくことになる。

さて、このスターやタレントとアイドルの違いはなんであろうか。同書では、スターを「過去」、タレントを「現在」に結びつけた上で、アイドルを「未来」に関係づける。

 〈スター〉が、映画特有の形象として、遅れによって、「歴史」や「伝説」として権威を帯び、テレビの〈タレント〉がコミュニケーションという現在によって特徴づけられるのに対して、〈アイドル〉は、未来への開けを体現するものなのです。

西兼志. アイドル/メディア論講義. 東京大学出版会, 2017, 85p

この論が正しいかどうかわたしには判断できないのだが、タレントが視聴者とのコミュニケーションによって規定されるということは、あとでまた参照することになる。

VTuber=新しいアイドル&タレント論

ようやくここまで来た。これで前提のおさらいは終わりである。
ここからはわたしの私見を述べていくことにする。

アバターと若さ

VTuberは永遠の若さを実現するためのツールでもある、というのがわたしの持論である。
要するにアバターをまとい、年齢を設定することで「若い」状態を維持することができるのである。少なくとも外見上は。

『アイドル進化論』において、著者はバーチャルアイドルの「初音ミク」が一般ユーザーに所有され、ユーザーによってそのイメージに様々な改変が加えられた上で増殖していく状況に触れた。

 こうして初音ミクにおける〈若さ〉は複製されていく。それは「16歳」という年齢の、完成された永遠の未完成である

太田省一.  アイドル進化論. 筑摩書房, 2011, 269p

日本のオタク文化において、こうして「永遠の若さ」はすでに実現されていた。それを受け入れる土壌があったのだ。

もちろんアイドルの「若さ」というのは外見に限らず、もっと抽象的なものだということは前に確認した。
なので「若さを維持する」という概念はもう少し拡張して、「理想の自分であることを維持する」という風に言いかえてもいいかもしれない。
これには外見のアップデートも含まれる。アバターの髪を短くしたければそうすればよいし、長くしたければそうできる。性別や種族すら変えられる。

少なくとも外見に関して言えば、アバターはアイドルと親和性が高いと考えている。

ロールプレイと虚構性

アイドルの虚構性をもう一歩進めた形がVTuberなのではないか。
すなわち、もともとアイドルが虚構の存在であるなら、もっと現実と虚構を乖離させても問題ないのではないか。

VTuberの「世界観」は明確にフィクションであるが、ファンはそれをわかって楽しんでいる。たとえ相手が悪魔や動物と名乗っている状況でも、「そういうもの」として受け止めている。

これにはハイコンテクストな、すなわち空気を読む文化が不可欠だ。日本の場合はアイドルやプロレスによって、すでにその土壌が形成されていた。VTuberの登場の前提としてアイドル文化は不可欠だったと考えている。

また、「ウソから出たマコト」を望んでいる姿勢も共通していると思う。
VTuberの配信において、「くしゃみたすかる」というコメントがリスナーから投稿されることがある。VTuberがふいにくしゃみをしたときにこのようなことが起きる。くしゃみだけでなくあくびでも同様のことが起きたりする。これは一見してリスナーの変態性の吐露のようにも思える。

だが実のところはVTuberという「ウソ」を越えて、演者の素、すなわち「ホント」が露わになった瞬間を喜んでいるのではないか。
画面の向こうに明確に生身の人間がいることを確認して、その喜びの表現なのではないだろうか。

アイドルと同様に、フィクションとリアルの入り交じった存在がVTuberなのである。

アバターとキャラおよび関係性

グループアイドルはキャラや関係性を売りにし、ファンはそれを消費するということはすでに確認した。

これはVTuberにも同じことが言える。
複数のVTuberが集まって「コラボ配信」をするのはもはや日常的な光景だし、現在の大手VTuber事務所では多種多様な人材をそろえ、彼ら彼女らが織りなす人間関係を売り出している(いわゆる「てぇてぇ」もそれである)。

では、そこに人間の身体は必要だろうか。キャラや関係性のみに注目した場合、身体は必ずしも必要ではない。
純粋なキャラおよび関係性を追求した結果、VTuberはリアルの身体を手放したのではないか。

『アイドル進化論』において、著者は2000年代の「グラドル」(グラビアアイドルの略)がテレビのバラエティ番組に出演した際、グラビア撮影でのテクニックを実演つきで披露することを挙げた。

 かつて私たちは、めったにお目にかかれないアイドルの水着姿などが載ったグラビアを見て、ほとんど妄想めいた想像を膨らませることで、自分の身近なところにアイドルがいるような感覚を得ようとしていた。ところが今、グラドル自身からこんなレクチャーをされてしまうと、結局それは紙に印刷されたイメージでしかないことをダメ押しされたような、やや醒めた感じを多少とも抱かされてしまうことは否めない。
(中略)
グラドルという生身の存在への欲望だとファン自身が思っているものも、実はバーチャルな記号への欲望にすぎないということである。

太田省一.  アイドル進化論. 筑摩書房, 2011, 13p

すなわち、ライブや握手会で直に触れあうなどしない限り、アイドルも「記号」なのである。
それはモニターに映る映像や印刷された画像にすぎない。画素の集まりである。であれば、それは実写でなくても構わないのではないか。

言ってみれば人間関係はネットワークであり、個々人はノードであって、相互にリンクされている。重要なのは変化していくネットワークの形状であって、ノードそのものではないのだ。

次世代のタレント

タレントが視聴者とのコミュニケーションによって規定されることは、前に確認した。
この点において、VTuberはタレント的でもある。

『アイドル/メディア論講義』において、情報社会の起源について以下のようにある。

社会の情報化、あるいは情報の産業化の起源は、情報の価値が時間と結びついており、他人より先に手に入れることによってのみ情報が価値を持つことの発見にあります。このような情報にとっての理想は、一瞬の遅れもないリアルタイム性、「光ー時間」です。

西兼志. アイドル/メディア論講義. 東京大学出版会, 2017, 65p

鉄道、電信、テレビ、そしてデジタルネットワーク。情報の伝達はますます速くなっていき、完全なリアルタイムに近づいていく。

タレントを規定する「視聴者とのコミュニケーション」と「ほぼリアルタイムの情報伝達」が組み合わさったとき、それはライブ配信になるのではないか。

もちろんこれはVTuberに限らない。YouTuberや芸能人も行っていることである。ただデジタルネットワークに特化している(むしろ従来のメディアに向いていない)という点では、VTuberは特異な存在だとわたしは考えている。

同書ではSNSなどの新しいメディア環境を活用するAKBについて触れ、その部分で以下のように書いた。

 メディア論の創始者ともいうべきマーシャル・マクルーハンは、新しいメディアが登場すると、古いメディアはそのコンテンツとなるといいましたが、まさにその通りの状況です。テレビは、ネット環境においてひとつのコンテンツとして取り込まれたわけです。逆にいえば、テレビという古いメディアは、そうしたかたちで、つまりテレビ的なものとして生き延びるのです。

西兼志. アイドル/メディア論講義. 東京大学出版会, 2017, 102p

たしかに、ネット配信においてもテレビ番組的な作りのコンテンツを見かけることはよくある。
また、VTuberの配信や動画においても、テレビのバラエティ番組を参考にしたとおぼしき企画はよく目にする。

デジタルメディアに特化したVTuberは、このような状況でますます飛躍するのではないだろうか。

防波堤としてのVTuber

アイドル活動には辛い面もある。
ここではVTuberという在り方が防波堤として機能する可能性を考える。

『アイドル・スタディーズ』において、著者のひとりである香月は、アイドルの「恋愛禁止」と呼ばれる風潮について論じた。ここで中森明菜がアイドル入門を意図したという著作に触れた上で、こうまとめる。

 ここでは、アイドルが異性愛的な眼差しによって成り立つ存在として規定された上で、そのこととアイドル当人のプライベートな領域に規制をかけようとする発想とが疑いなく接続され、私生活における「恋愛」とアイドルという職業とが二律背反であるかのように説明される。

田島悠来 編. アイドル・スタディーズ――研究のための視点、問い、方法. 明石書店, 2022, 64p

つまりアイドルはファンの「疑似恋愛」の対象であり、私生活におけるアイドルの恋愛が明るみに出ようものならファンを失望させてしまう。なのでアイドルに恋愛は御法度、ということである。

これは明確にルールとして定められているというよりは、アイドル自身を含めた業界全体の曖昧な慣習のようなものらしい。同書では和田彩花の言葉を引用する形で次のようにある。

 具体的にはっきり言われるわけではなくて、でも作り手も、メディアも、ファンも、同業者も、自分たち自身も、全部だと思います。男性だけじゃなくて女性のなかにも、自覚なしにそういう価値観が内面化していると思います

田島悠来 編. アイドル・スタディーズ――研究のための視点、問い、方法. 明石書店, 2022, 72p

ただ、近年ではこれを問い直すように風向きが変わっているようだ。AKB48のメンバーであった峯岸みなみのコラムを引用する形で、同書には次のようにある。

今は日本のアイドルでも自由なファッション、恋愛もオープン、公にタバコを吸っているアイドルも存在する時代。それがダメだという決まりはどこにもありません。

田島悠来 編. アイドル・スタディーズ――研究のための視点、問い、方法. 明石書店, 2022, 70p

しかし「恋愛禁止」のルールが(もとより明文化されていないのだが)撤廃されたとして、アイドルは完全に自由な私生活を手に入れられるのだろうか。そのアイドルが人気であればあるほど、街中でファンに発見される可能性は高まる。週刊誌に私生活での行動を記事にされることもあり得る。

VTuberはこの私生活の制限を回避するための方策でもあるのではないか。

VTuberは演者の素性を隠して活動する(例外はある)。顔も年齢も基本的には非公表である。演者の身元が明らかになってしまう状況を「身バレ」と呼ぶ。

つまりVTuberにとって身バレしていない状況が普通であり、これは私生活の制限を大幅に緩和するのではないか。
少なくとも、演者の顔だけで誰かに発見される恐れはない(演者の顔がネットで拡散されている場合は発見されるかもしれない)。
声が特徴的な場合は大きな声を出さないように注意する必要があるが、しかし顔よりはよほど隠しやすいであろう。

また、VTuberとしてアバターと世界観をまとうことは、演者自身とVTuberとしての自分を区別しやすくするかもしれない。
始終アイドルでいなくてもいいのである。

VTuberには誰でもなることができる。そして、すぐに辞めることができる。この辞めやすさこそ、実はVTuberの本質なのではないか。
夜の八時から十時だけアイドルになっていい。週末だけアイドルになっていい。その気になったときだけアイドルとして活動して、それが終わったら自分に戻っていい。そんな在り方をVTuberが可能にするのだ。

もちろんすべての問題をVTuberが解決するわけではなく、VTuberであっても「感情労働」の問題は存在すると考える(本稿では深く掘り下げない)。

VTuberの未来

ここまでは、現在のVTuberについて考えた。ここからはVTuberの未来について少し考えてみたいと思う。

メタバース住民の部分集合としてのVTuber

『メタバース進化論――仮想現実の荒野に芽吹く「解放」と「創造」の新世界』において、バーチャル美少女ねむは、メタバースが従来の社会構造を大きく変化させるだろうと論じた。
同書の中で、メタバースの革命性は「アイデンティティ」「コミュニケーション」「経済」の三つの側面に分けられるとしている。

アイデンティティについて、同書では以下のようにある。

 これまでは自己の「アイデンティティ」とは、基本的に与えられた固定のものを「受け入れる」ものでしたが、メタバースでは自由に「デザインする」ものに変化し、「なりたい自分」として生活することが可能になります。

バーチャル美少女ねむ.  メタバース進化論――仮想現実の荒野に芽吹く「解放」と「創造」の新世界. 技術評論社, 2022, 43p

つまり、好きなアバターを選び、好きな名前を選ぶことができる。声も変えられる(機械的に、もしくは自力で)。性別だって自由に設定できるし、そもそも人間の姿をしている必要さえもない。

さらに著者は(平野啓一郎が提唱した概念である)「分人主義」を取り上げる。

 これに対し「分人主義」では、人間を分割可能な「分人(Dividual)」として捉えます。つまり、ひとりの人間の中にはいくつもの人格(分人)があり、その集合体が人間であるという考え方です。

バーチャル美少女ねむ.  メタバース進化論――仮想現実の荒野に芽吹く「解放」と「創造」の新世界. 技術評論社, 2022, 194p

その上で、この「分人」がメタバース時代において重要な意味を持つとする。
個々の分人に姿かたちを与え、それぞれのアイデンティティを切り替えながら生きることができるのだと。

さらに経済に関連して、「分人経済」が実現すると説く。

しかしメタバースでは、私「バーチャル美少女ねむ」自身がそうであるように、自分の中のクリエイターとしての側面を自由にデザインして取り出し、姿かたちを与えて活動させることができます。
(中略)
日本においては、私のような「VTuber(バーチャルYouTuber)」は分人経済の最もわかりやすい例であると言えます。

バーチャル美少女ねむ.  メタバース進化論――仮想現実の荒野に芽吹く「解放」と「創造」の新世界. 技術評論社, 2022, 251p

つまり、VTuberはメタバース上のアイデンティティの一部(分人)と見なすことが可能なのである。
そして、VTuberの登場によって部分的に分人経済は実現していたのだ。

人格の切子面(ファセット)

VTuberの登場、そしてメタバースの登場によって、この「分人」の考え方は社会に広く浸透していくのではないかと思う。

誰も彼もがペンネームを持っているようなものだが、アバターや、時には世界観が付属してくるところが異なっている。
名義によって性別や種族が異なることもあろう。

そして、その名義のどれもが「本当の」自分ではない。どれもが等しく重要な、人格の一側面なのである。

そのような複数の分人を持つ人格全体は、まるでファセットカットを施した宝石のようなものだ。
光を当てる方向によって、どの切子面が輝くか変わる。
そしてその面のどれも、宝石の中心に位置しているわけではないのだ。

まとめ

VTuberは既存のアイドルおよびタレントの延長線上の存在であり、その出現は必然だったと考える。
デジタルネットワークが新しいメディアとして出現したいま、VTuberはますます発展してくのではないだろうか。
VTuberは、ゆくゆくはメタバース経済の一部として統合されるのではないかと思う。

あとがき

軽くまとめるつもりがえらく長くなってしまった。

しかしまだ掘り下げは足りないと思う。
たとえば「日本古来の『見立て』の文化とVTuber」「VTuberの感情労働」などについて触れたかった。
あまりに時間がかかりすぎるために、今回はやめておいた。

考えてみれば、デーモン閣下が相撲の解説を行う日本である。
ふなっしーがバラエティ番組へ引っ張りだこになるような日本である。
なぜVTuberにできないことがあろうか?

これからもVTuberはあらゆるメディアへ進出していくことであろう。見た目の(アニメーションであることに由来する)奇異さを視聴者が受け入れ、演者が別室にいるという不便さを収録現場で乗り切れれば、それは加速度的に進むと思っている。

最後に。
わたしはアイドル論・メディア論・社会学・メタバースについてずぶの素人である。ご笑納ください。
本文中、敬称略させていただきました。

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