GHQとハーバード…国立博物館誕生物語 - 東博月例講演会
東京国立博物館のポストを見てて、講演会が開催されている事を知った…。
GHQ…。
連合軍最高司令官総本部。
第二次世界大戦後の日本社会、芸術文化面にもアメリカは関与してるよなぁ…と、気になる。国際情勢も左右するし、いろんな動きの影響をバリバリにうける、関係の深い国、アメリカ合衆国。
GHQの戦後日本の民主化政策、戦後の社会通念や価値観を教育するには文化面も抑えただろうから、何か今の見方に繋がるかなーと考えて講演を聴いていた。
講演は戦後のGHQ政策の本や記録から、日米で国立博物館に関わった人の来歴や流れの説明がまとめられていた。その流れをざっくり把握した中で、一番印象に残ったのは、アメリカの東洋美術研究ガチ勢がGHQに参画してた事。
国立博物館誕生の主なポイント
1945年8月 終戦
1946年12月 移管計画開始
GHQ指導の下、宮内庁管轄の帝室博物館を国立博物館として文部省に移管する計画を開始。
※帝室博物館:東京帝室博物館、京都帝室博物館、奈良帝室博物館1947年5月 5月3日、国立博物館開館
※計画開始から7年かけて移管との事だったので、開館後も移管作業は続いている。GHQの移管指導チーム構成
GHQ(連合軍最高司令官)
┗ CIE(民間情報教育局)
┗ A&M(アーツアンドモニュメント)
ローレンス・シックマン
スタウト
※ファーストネーム失念
ラングドン・ウォーナー
※A&Mが移管計画の統括をしており、メンバーはハーバード大学の東洋美術研究員との事。
※ハーバード大学は、1912年にアメリカの大学で初めてアジア美術のコースを設置。日本のGHQ交渉窓口と移管計画参加者
CLO(終戦連絡中央事務局)※外務省の機関
白洲次郎
移管計画会議参加者 ※名前があった方
土岐政夫(帝室博物館館長、宮内官僚)
安倍能成(帝室博物館館長、哲学者)
細川護立(宮内官僚、肥後細川家)
谷川徹三(美術評論家、谷川俊太郎の父)
吉田茂
当時の記録を元にその関わりが淡々とまとめられていたが、講師の方の情報バイアスがかかっておらず、会議と参加者の来歴などの事実の積み上げが色々な背景を想像させた。
その当時の会議現場の真実はわからないが、敗戦国、統治国の歴史文化を抹消する事なく、東洋美術の研究者に博物館移管計画を主導させてたGHQはかなり判断レベルが高いのでは…。
政治、経済面ではまた違うだろうけど、「日本文化」の部分では、美術や文化の研究者が主導するなら丁寧に扱わないハズがない…。
なんのかんの、文化財保護側、芸術のクーリエ、パトロン側は、ただただ『芸術』にお金を使うだけなので、文化芸術への愛、そして美の守護神たる家系、理解者としての誇り、人の歴史と芸術への真摯な敬意、そのような自負なくばやってられないだろうなと、個人的に感じている。
…遡れば、メディチ家。日本だったら肥後の殿様細川さん。超コレクター層の人々。
戦前にハーバードで東洋美術の研究を選んでいる人なんて、超ハイクラスの家柄。
直前に東京大空襲や、広島、長崎の原爆で一般市民を巻き込んだ『虐殺』があったにも関わらず、A&Mに東洋美術のクーリエだろう人たちが立っている事が意外だった。
一般人を巻き込んだ戦闘、良心の呵責への心理補填や、それ以上やったら国際的な批判が大変になるという回避もあるのかもしれない…けど、いずれにせよ、精神面から叩き潰して洗脳という方向には進まなかったんだなぁと。
日本の担当者も宮内庁の官僚や哲学者、美術品に造詣が深い当代一流の方が揃っている。
また、戦前から欧州と極東地域で外交任務に着いていた吉田茂や白洲次郎が国際関係や政治面を見ている。
視野も広く、考えも深く、経験の幅も厚いメンバーが、本質的に高尚な視点で良い意味の「意識の高い」話し合いをする場がGHQと当時の日本政府にはあったのかもしれない。
万世一系の天皇を中心とする長い歴史のある国としての存在が潰されず、「ブランド」が守られている希少な敗戦国、日本。
私たち、戦後生まれの美術教育は欧米視点のセオリー枠で、欧米の価値観で育ってきたな…とよく思う。
それでも、自然、四季を一体にした世界を衣食住の中に整え、五感で美しさを愛でる日本の美の様式は、モダンになりながら、生活の中で受け継がれている。
「戦争に負けて、外交に勝った。」
この言葉がジワジワくる。
政治的な意味だけではなく「独立」や「自立」の方法、スタイルも、日本人が四季の移り変わりに合わせて過ごしてきたように、その時期に一番良いやり方で柔軟に行くのが良いのかもしれない。
骨太。
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