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MEN同じ顔の男たちに描かれた私について


 ※この記事にはネタバレを含みます。

 これはとても不快で恐ろしい映画です。この映画の主人公のような、無理解な男性に傷つけられつつも、力強く生きようとする現代の女性にとって――いいえ。

 私のように、この映画の男と同じ顔をした、弱く情けない男にとってです。

 おひさしぶりにもほどがあります。片山順一です。すっかり畑と家と直売所の往復生活が板についてしまいました。水菜って売れるんですね。

 最近は、この十数年で一番まともに働いているといえる私ですが、腐った性根は変わりません。

 そういうわけで、2022年12月に上映している映画。『FILMRED』でも、『すずめの戸締り』でも、『SLAMDUNK』でもなくて、『MEN同じ顔の男たち』というイギリスの映画のレビューになります。

エッセンス

 この映画のあらすじを一言で表すと、元夫の事故死か自殺か分からない死を目撃してしまった女性が、療養のために訪れた田舎の村で、さらに不快で不可解な男たちと出会い恐怖する、というものです。

 もっとも、女性はべつに負けることもなく、ひたすら不快な目に遭いながらも命や性が脅かされるわけでもないんです。田舎の閉ざされた屋敷で恐怖に遭うというと、私の見た映画では、『サイコ』とか、『十三日の金曜日』を連想しましたけれども、このホラーに出て来る怪物は、気持ち悪いけど弱いのです。というより、ホラーというジャンルにおいて、おびえ逃げまどい、悲鳴を上げさせられることで一種の魅せ場を作ってきた女性という記号が、古びたといえるのかもしれません。

だって六十年代や七十年代そこらから、彼女たちは圧倒的に強くなったのです。

 不可解な男たちは、女性の滞在する屋敷の管理人、森から現れた全裸のよくわからない男、村の警察官、バーの店主、教会の牧師や異常な少年などなど。どいつもこいつも、もれなく同じ俳優が演ずる同じ顔をしています。

 これは、不幸な出来事で心の傷ついた女性にデリカシーのない常識を押し付けて、さらに傷をえぐり続けるという、男社会に蔓延している、ステレオタイプな価値観を比喩的に表していると解釈されているみたいですね。

『ノットオールメンだ? どいつもこいつも同じだろうが』というわけです。

解釈と理解が必要なタイプの映画

 この映画は、私たちの認識する現実の基準で見ると、おかしいところがたくさんあります。落ちてくるとき、どう見ても木に生っている量より増えている、りんご。人の筋肉と骨を切り裂く異常に鋭い果物ナイフ、骨と神経がぶっ裂けているのに動く手、ちょっと面白い全裸、クライマックスの次々に生まれ変わる男たちなどなど。

 ただ、主人公の女性の力は、べつにそこらへんの女の人と変わりません。スマホを使ってSNSで会話できるし、仕事もリモートです。走る速さも同じ、何か特殊な設定が観客に明示されて、それで作中の世界が決まっているわけではないんです。

 それなのに、一見つながっているかのような、不可解な出来事が並んでいる。常識的な因果関係に従えば、決してつながっていないはずなのに、何かのつながりがあるような気がする。

 そういうときは、その変な出来事が、精神的な意味を持っていると解釈することができます。

 つまり、何かを『象徴』しているということなのです。

 私の知るアニメだと、古いんですけど『少女革命ウテナ』がそうでした。アニメの中では、おとぎ話のように美しい学園に、急にいろんな建物が出てきて、決闘が済むと意味もなく崩れて、映画版では主人公が何の説明もなく車になったりするなど。

 こういう訳の分からない出来事が、注意深く見ていくと、登場人物の心情とかを表しているわけです。

 象徴性を見出そうとすれば、気持ち悪くて難解で意味不明にも見えるこの作品に、何か言いたいことがあるのだと分かるんです。

読み取った象徴性

 まず何よりも、この同じ顔の男たちは何なのか。

 私は、こいつらを『私』だと思いました。

 言い換えましょう。

 三十七歳と四か月近くになっても、女性と恋人関係になれた経験が一度もなく、むろん結婚なんてしておらず、かといってストレスの解消に性欲を使うのが便利だから、夜ごとエロサイトをあさっている、もちろんろくな金も稼いでおらず、人との競争にも勝てず勝とうともしていない、できない、ただ生きているだけのキモい男です。

 もっと言うなら、繊細なくせに欲望と寂しさはすさまじいので、近くの女性に、にちゃっとした視線や欲望を知らずに向けていつの間にか嫌われ、嫌われていることだけには敏感に気付き、傷ついて苦しみ相手を憎み、でも寂しさは解消されずもだえ苦しんでいるインセルになり切れない、弱い男です。

 頭の中で黒い欲望が四六時中渦巻いていて、その端っこが行動に出て嫌われるのに、いざとなるとそれを実行する暴力性も蛮勇も持たず、妄想を帯びながら、にちゃにちゃと近寄って、やはり断られ悲鳴を上げて苦しみもだえるやつ。

 それでもたまたま女性の隙を突き、もしかしたらの瞬間にも、じつは出会っているんだけど、本当に大事なことには鈍いから肝心なところで行動できず、結局嫌われるか、もっと上の奴にかっさらわれて自らの寂しさに逃げ込む。そういうやつ。

 この私という、弱く情けない男のキモさが、見事に象徴的に描かれているのです。

 象徴的なシーンをふたつ上げましょう。

ぶっ刺されたナイフ、自分で引き裂いた手

 たとえば、終盤。玄関ドアの郵便受けから、男の腕がぬっと差し込まれ、主人公は恐怖して手元のナイフを、その一の腕に突き立てます。

 ナイフは貫通。男はそれを引き抜くこともできず、かといって逃げたいから郵便受けから無理やり腕を引き抜こうとします。ナイフがドアにひっかかったまま、無理やり引っ張るんです――ゆっくりと、でもきれいに、マッシュルームみたいに自分の腕を引き裂けました。

 ラストを除くと、もっともグロテスクで不快なシーンでしょう。

 これも、私に言わせれば象徴的なんです。

 彼女自身がやったのは、ナイフを突き刺すところまでに過ぎません。

 男は痛いので引き抜いてくださいと一言あれば、こんなに傷を広げなくて済んだ。許してもらえないかもしれないけど、謝って、もうしないと言えばこんなひどいことにならなくて済んだかもしれない。

 相手をちゃんと見て、気持ちを確かめることができたら、傷口をこんなに広げなくてもよかった。

 ああでも、せっかくアプローチして断られた。痛い。もう嫌だ、こんなところに居たくない。安心できるところに帰りたい。郵便受けの向こうに手なんかだしていなくない。この人は愛してくれない。逃げたい、逃げたい逃げたい安全な場所に、場所に!!!!

 そうやって、ただ単に断られただけだというだけの事実を、自分の中でより痛く苦しく重たいものに意味づけてしまうんです。だから苦痛が倍加する。彼女は、そこまでやったわけじゃないのに。

 ほら、やっぱり駄目だった。あの女、俺を断りやがった傷つけやがった、もてあそぶみたいに俺の手を縦に引き裂きやがった! こんなになっちまってこれからどうするんだよ、畜生いてえいてえいてえいてえよ、くそっ!

 ……というわけです。

男が男を生むラスト

 二か所目。それはあの圧倒的嫌悪感に満ちた、作中の男たちが次々と男を産み落としていくシーン。

 現れる男は女性が妊娠したときのように、パンパンにはらんでいるんです。その大きなおなかを仰向けにし、苦痛に顔をゆがめながら、股間にある本物の女性器から男を産み落とすのです。

 生まれた男の背中が割れて、また男が生まれ、最後の男が口から産み落としたのは、主人公の女性を傷つけるために自殺すると言っていた、あの最低の夫でした。DVの果てに、主人公に自らの死を見せつけて深く傷つけてしまった男です。

 男から生まれた血みどろの男は、泣きそうな情けない顔で彼女の隣に座ります。そして自らの苦しみに震えながら、哀れなほどか細い声で言います。『愛してほしい』と。

 これも、つらつら考えていると分かりました。

 私には女性が居ません。でも女性が欲しいので女性について考え、学び、女性を作ります。私の作中に出て来る、美しく理想的な女性です。あるいはポルノに出て来る、私のキモさに寛容な、ありえない女性たちです。
たぶんそれこそが、最初に子供を産んだ男にくっついた女性器。私という情けなく弱い男にくっついた女性器なのです。

 そして私は無理やり張り付けた女性器を使って、女性の快楽と苦痛を想像します。出産、生殖を妄想します。でも弱い男が弱い男と共に弱い男のために生み出せるのは、結局、同じ弱い男だけです。女性器を使っても、絶望的な苦痛と孤独の連鎖しか生めません。痛み、苦しみ生み出したのは自分と全く同じような、健全に人を愛せない弱い男。

 生殖できない弱い男。あんなに苦しかったのに。あんなに頑張ったのに。こんなに傷ついているのに。

 なんなんですかこれ!!!!??!!??

 つらくてしょうがありませんよ。苦しくてしょうがありません、寂しくてしょうがありません。助けてください、お願いです。

 あなた、あなたが手を握ってください。この傷だらけで血まみれの私を助けてください愛してください、セックスしてください。生殖してください私を、私たちを苦から救ってくださいよ!! あなたのおまんこで!!!!!!!

 ――主人公の女性は、男たちが醜悪で独りよがりな出産の苦しみにうめけばうめくほど、興味をなくしていきます。恋をした相手の女性にではなく、弱くてキモい自分たちの苦しみしか見つめられない、最低な男たちの連鎖を、興味なさげに聞いているのかいないのかといったふうで別の部屋に入っていきます。もちろん、『愛してほしい』にも取り合いません。だって愛せないんだから。キモすぎて。

 そして夜が明け、映画は終わりを迎えるのです。
 彼女の友人、おそらく情けなくない男の子供を、きちんと妊娠した女性が迎えに来てくれて。キモい男にひたすら付き合わされ、受動的に傷つけられ続けられる悪夢は終わるのです。

ネットのレビュー

 残念ながら私と同じような弱くキモい男性は、この映画をご覧になってはいないようです。傷ついた人の感想が一見した限り、まだ聞こえてきません。

まあ、弱くてキモい男が、わずかなお金で心を慰めるためのものは、この爛れたぐずぐずの社会に死ぬほどあります。わざわざ、こんなものを見なくてもいいでしょう。

 だから、映画をちゃんと見る、きちんと芸術が分かっているキモくない男性と、普通の女性たちは、この映画の男たちを笑いものにするのです。

 キモいよね、怖いよね、と。

 それは、おそらくこの見事な映画を撮影した監督の意思でもあるのでしょう。

 そして、私も思ったのです。
 私の一部を着実にえぐり取った、この映画の男たちを、心底キモいと。

 映画館で嫌悪に満ちた映像を見ながら、私はこの不思議に魅力的な女性主人公の心情に同化して、やめろ近寄るなと思いました。彼女に男たちが近づいてくるたびに、馬鹿か、無理に決まってるだろうがと思いました。

 私がやっていることなのに。

刻み付ける芸術

 私という弱くてキモい男の心を、根元からえぐり抜く映画だったと思います。

 ほかの象徴について語る気力もありません。たんぽぽの綿毛だとか、おっぴろげレリーフだとか、セックスや生殖の露骨な直喩ともいえる、いろんなものもでてくるけど、キモい私はこれ以上この映画について考えると死にたくなるので、誰かがやってください。

 ただ一言。私は、こういう映画だと思って、シネコンに足を運び、千九百円を支払って映画を見ました。そしてその予想通りだったから、今こうしてかろうじて文章にできています。

 苦行者であることは、私のアイデンティティでもあるんですよ。

 しばらく、アヘ顔ダブルピースとか言えません。
 私に都合のいい、女性器を触ることもできません。

 ――うそです。映画を見たその夜にXVideosに行きました。女性器からキモい男を生みました。

 でもこの映画の衝撃は、何をしたって、もう一生忘れられないでしょう。

 むしろ想定していない観客に、異なる価値観を刻み付けることができる力。
 それこそが、真なる芸術ということなのです。

 A24。すさまじい配給会社です。

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