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【小説】連れていく(5)


前回:【小説】連れていく(4)



 神戸線の車内は、二人が楽に座れるくらいには空いていた。降車客と乗車客の均衡が保たれ、閑散を維持している。身軽な地元客や通勤客が大半だったが、中には大きいリュックサックを床に置いている人もいて、佳織は同じ鉄道ファンだろうかと、親近感を覚えた。


 ただ、瞼が重い。歩き疲れだろうか。だが、ここで眠るわけにはいかない。この先、神戸線は大阪湾沿いを走る。車窓から夕陽に照らされる海と、広がる水平線を見なければ、神戸線に乗った意味が薄くなってしまう。佳織は何とか起きているように努めた。梨絵にJRの神戸線は愛称で、本当は「東海道・山陽本線」と言うのだとか、今乗っているJR西日本二二三系電車には、九号車にプラス五〇〇円で乗ることができる優良座席があるのだとか、話をして眠気を誤魔化そうとする。


 だが、梨絵の反応はいまいち薄く、話が盛り上がることはない。話のタネも減ると、佳織の意識はよりまどろむようになった。列車の不規則な揺れが、心地いい。


 自分が寝てしまったことに佳織が気づいたのは、列車が姫路駅に到着する手前のことだった。起きると、鉄道ファンが、こちらを一瞥していた。隣の梨絵は、スマートフォンでゲームに興じている。寝ぼけまなこで見ると、車窓にはビル群が増えてきていた。しまったと佳織が後悔し始めたころにはもう遅く、列車は姫路駅に到着した。二人は列車を降りて、向かいの山陽本線に乗る。空色の駅名標を撮影している時間は、ない。


「あたし、どれくらい寝とった?」


 山陽本線は平日だというのに、わりあい混んでいた。どの席にももう先客がいて、二人は立っているしかなかった。


「乗ってからわりとすぐでしたし、一時間に満たないくらいじゃないですか」


「なんで起こしてくれんかったん?あたし、列車が走ぃとるときは、なるべく寝ぇへんようにしとんのに」


「すいません、あまりにも気持ちよさそうに寝ていたもので……」


「神戸線の神戸―明石間は、大阪湾沿いを走んの。太陽に照らされて輝く海を見たかったんやけどなぁ」


 佳織が妬ましさ半分で、梨絵を見ると、口を小さく開けていた。「そんなところがあったんですか」と目も見開かれていた。


 スマートフォンを見ていても、よほど集中しない限り、正面の海は目に入る。わざわざそちら側の席を選んで座ったというのに。ということは、梨絵も一緒に寝ていたということか。それならば、しょうがない。わざわざ目くじらを立てるようなことではないなと、佳織は思い直した。


 姫路―岡山間の山陽本線は、比較的山間を行く。相生までは住宅街もあるが、相生を過ぎてからは降りる人も少なく、車内の光景はさほど変わり映えしない。二人はなかなか座ることができなかった。この区間は、山陽本線の中でも、最も本数が少ないのだ。なので、一本の電車に乗る人数は自然、多くなる。夏休みを利用して来たと思われる大学生らしき乗客もちらほら。梨絵は、少し辟易した。疑問を佳織にぶつけてみる。


「門司さん、どうして山陽新幹線に乗らなかったんですか?」


「山陽新幹線は半分ぐらいがトンネルで、海沿いはなかなか走らんのよ。せやから、海が見える神戸線に乗ろう思うてたのに、あんま意味なかったなぁ」


 会話は終了してしまった。落葉樹ばかり続く車窓にも、スマートフォンでのゲームにも、少し飽きてきた。ある種の切迫感に駆られて、梨絵は再び話を切り出した。


「門司さんって、広島に行くって言ってましたよね」


「それがどうかしたん?」


「広島に行って何するんですか?」


「そんなら逆に聞くけど、自分は何したいん?広島行くいうとったけど、あたしについてきてどうしたいん?」


「それは……」


 梨絵は口ごもってしまう。


「冗談やって。彼に会いに行くんや。あたしは大阪に住んでねんけど、彼は広島に住んどって。彼が去年、仕事の都合で引っ越してんけどね、『しばらく生活が落ち着くまで待ってくれや』って。で、ようやく落ち着いてきたいうから、明後日久々に会うんよ。あっ、写真見る?」


 佳織は頼まれてもいないのに、スマートフォンを梨絵に見せた。画面に、伊藤とのツーショット写真が映る。黒い髪はどちらかというと茶色っぽく、目じりがくっきりと上がっていた。真面目な好青年のように、梨絵の目には映った。大きな地球儀をバックに、二人ともピースサインをしている。満面の笑みの佳織。画面の中も、今目の前にいる本人もそれは変わっていない。


「シュッとしとるやろ?この見た目で、けっこう押しが強いとこあってね。初めてのデートんときも、手ぇつないで引っ張うてくれて。びっくりしたわ」


「はい、かっこいいです。彼氏さんも、門司さんも。羨ましいです。それに比べて私なんて……」


 そう言うと梨絵は、伏し目がちに俯いた。枯れた花のようにうなだれている。


「自分も十分、綺麗やろ。落ち込まんでもええやん」


「いや、私なんてダメですよ。異性との付き合いから逃げてばっかりで。不快にさせたらどうしよう。怒らせたらどうしようって、何も喋れずじまいで。そうやって逃げて逃げて逃げ出して、気づいたら、もうこんな年になってしまいました」


「こない年って、自分まだ若いやん。これからなんぼでも取り返せるて」


「いや、もうダメなんです。ここまで来たら人の性格なんて、そう簡単に変わらないですよ。きっとこれからも、人から逃げ続けて、一生まともな人間にはなれずに、終わってしまうと思います。人から、環境から、そして自分から。立ち向かうこともせずに、簡単な道ばっかり選んで。本当に駄目な人間ですよね」


 梨絵の、つり革を掴む右手が揺れる。


「それはちゃう思うけどな。人間、ときには逃げることも必要やん。自分を保つためには」


「それは立ち向かっている人だからこそ、言える言葉ですよ。私みたいな逃げ続けている弱虫が、必要なわけないじゃないですか」


「そんなん言うのやめぇや。世の中にはな、必ず自分のことを必要や言うてくれる人が……」


 
「いません、そんな人、いるわけがありません」


 食い気味に言葉を遮った梨絵に、佳織は返す言葉をなくした。これ以上言っても梨絵は聞く耳を持たないだろう。会話はずっと平行線を辿っていくだけだ。二人は何も言わず、車窓を眺めた。雑多な山の斜面に、たまに住宅地が現れる。列車は、交差しない物語たちを乗せて、淡々と走っていく。空は少しずつ翳り始めていた。





「お水ありがとうございます」


 二人は駅前のファミリーレストランに来ていた。どちらも地元の名産品に対する知識がなかったため、適当なファミリーレストランで済まそうと、佳織が提案したのだった。
 


「別にええって。それよりも空いとってよかったなぁ。ホテル」

 佳織が泊まろうとしていたのは、倉敷駅から徒歩五分の、ビジネスホテルだった。受付は二階にあり、背の高い受付係が対応してくれた。四階に一部屋、空室があり、その部屋を除いては満室らしく、梨絵はそれを聞くと胸をなでおろした。まだ会って一日も経っていないのに、佳織のことを梨絵はすっかり信頼していた。ただ、同じ階だと気まずいと感じるくらいには、梨絵も子供ではなかった。


「地方のファミレスいうんも、また違うた雰囲気があってええなぁ」


「そうですね。なんか西日本って感じがします。みんな関西弁で喋ってますし」


「正式には関西弁とは、またちゃうんけどなぁ。せやけど、確かにこのチェーンは西日本にぎょうさんあるし、ある意味、西日本を代表するいうても、言い過ぎちゃうかもな」


 佳織はかつて九州に行ったときに、駅前に同じ黄色の建物があったことを、思い出していた。黄色に赤文字の看板は、遠くからでもよく目立っていた。


「そうですね。たまにはこういうのもいいかもしれませんね。ところで、明日はどうするんですか」


「明日は八時にホテルを出て、まずは倉敷市駅から水島臨海鉄道に乗るわ」


「水島臨海鉄道?って何ですか?」


 梨絵には、その路線名は全く初耳だった。


「全国的に有名な路線ちゃうし、知らんのも無理ないわなぁ。水島臨海鉄道いうんはね、西日本唯一の臨海鉄道なんよ。ここでいう臨海鉄道は、もともとは貨物輸送のために設立されたもんで、旅客輸送を行うとんのは、その中でも日本に二つだけなんやって。そのうちの一つが水島臨海鉄道いうわけ」


 佳織の説明は、梨絵にとって雲を掴むように感じられた。専門用語を並べられても、鉄道に明るくない梨絵には、ぼんやりとしかわからない。つまり、海のそばを走る電車ということか。そんな曖昧な理解を、梨絵はした。佳織は続ける。


「でな、その水島臨海鉄道、略して水鉄には、日本でわずか七両しか製造されんかったキハ38があって。昔懐かしの国鉄色なんやけど、なんとここでしか走っとらんの。編成を組むキハ37も、日本ではわずか五両しか製造されへんかったレアものやし、これに乗らずして、今回の目的は果たせへんて」


 一方的に捲し立てる佳織に、梨絵はたじろぐことしかできなかった。こんな風に自分の好きなものを、熱意を持って語ることができる人間に、梨絵は出会ったことがなかった。


 それからも、佳織が水島臨海鉄道について話していると、店員が二人の元に料理を運んでくる。梨絵が頼んだハンバーグステーキが先に来てしまった。鉄板の上で軽やかな音を立てる肉汁が、二人の沈黙の間にこだまする。


「あの、ただその列車に乗って、往復して終わりということですか」


 気を逸らすように、梨絵は会話を切り出した。


「それはまたちゃうなぁ。どっかの駅で途中下車して街を歩いたり、なんか食べたりはするで。せっかくの旅なんやから、楽しまな」


「どこで降りるんですか?」


「それは明日決めるわ。ちょうどガイドブックもあるしね」


 佳織がカバンから取り出したガイドブックは、ちゃんとした厚さの本になっていた。地元の学生と商工会議所が制作したものらしい。梨絵は見せてもらうように頼んだが、料理が先と佳織は断った。やがて、佳織が頼んだオムライスが運ばれてきた。ビーフシチューがかかっており、キラキラと照明を反射している。佳織は律義に「いただきます」と手を合わせ、それを見た梨絵も真似をする。二人が、初めて共にする食事だった。





 靴を脱いでから、綺麗に敷かれたシーツに、佳織は勢いよくなだれ込んだ。シルクのような滑らかな肌触りが気持ちいい。佳織はベッドの上に全身を乗せた。一つ大きく伸びをする。枕元の照明が眩しい。まさか一人旅が二人旅になるなんて、思ってもなかったな。佳織は微笑み、ポケットからスマートフォンを取り出した。


〝今、何してん?〟


 そうラインを打ち込むと、すぐに既読の表示がついた。まるで佳織からラインが来ることを、予知していたかのように。返信もすぐだ。


〝今、家で飲んどるわ。そっちは?〟


〝ご飯も食べ終うて、ホテルに戻ってきたとこ。奮発してビーフシチューがかかったオムライス食べてもうた〟


〝オムライス好きやな〟


〝そらオムライスは国民食やもん。三度の飯よりオムライスが好きやから〟


〝オムライスもご飯やん〟


〝バレてもうたか〟


 佳織がギクッと驚く猫のスタンプを送ると、伊藤は「なんでやねん」とツッコむ芸人のスタンプで返してきた。押してみると、声が出て少しびっくりする。


〝ところでな、今日阪急に乗ったんやけどなぁ。ひょんなことから、ニシキタの駅前で出会うた人と、一緒に回ることになってもうた〟


〝ひょんなことって?〟


〝別に大した話ちゃうで。時計台の下で、写真撮ってくれませんかって声かけられたん。で、その後近くの喫茶店でもういっぺん会うて。まあ行く方向も同じやったし、どうせならいうことで、一緒に甲陽線に乗うたんや〟


〝そいつ男?女?〟


〝女の人。せやけど、すごい可愛い人やったなぁ。石ころの中で輝くターコイズみたいな。そない人やった〟


〝そう言われると、ちょい会うてみたい感じもするな。まあ、カオリの方が、可愛いんやろうけど〟


〝ややなー、いーちゃんったら。褒めてもなんも出ぇへんって〟


 佳織は足をジタバタさせた。できることなら今の姿を、伊藤に見せたいと思う。八ヶ月も会っていないと擦れた想いはたまる一方だ。


〝でさ、明後日が何の日か、覚えとる?〟


〝八ヶ月ぶりに、俺たちが会う日やろ。今から楽しみやな〟


〝せやけど、他にもあるやん〟


 佳織は虫眼鏡を手に持ち、うーん?と覗く猫のスタンプを送った。例によってすぐに既読はついたが、伊藤からの返信は滞った。圧が強すぎたか。しばらく考えて、佳織がフォローを入れようとしたとき、伊藤からの返信が来た。


〝心配せんでも、分かっとんで。せやから大丈夫。また明後日会おうな〟


〝早う会いたい〟


〝俺もや〟


 スマートフォンのスイッチを切り、枕元に置く。佳織は起き上がって、意味もなく部屋の中を歩き回った。明後日、伊藤に会える。そのことが佳織にとっては、キハ38やキハ37よりも上位の楽しみになっていた。待望が湧き水のように、佳織の心の底から、溢れ出していた。



続く



次回:【小説】連れていく(6)


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