短編小説:芝生上のエトセトラ
俺を虐めていたB也が死んだ。
家のベランダから転落し、即死だったという。
俺はB也が自宅のマンションのベランダに腰掛けて過ごしているのをたまに見かけていた。
大きなマンションの三階で、いつもチューハイみたいな缶を飲みながら大声で笑いながら通話をしていたり、ぼけっと煙草を吸っているのが目立っていたため、気に留めなくても目に入っていたのだ。
親は酒やタバコはともかく、あんなところで頻繁に座っていることを注意しなかったのだろうか。三階とはいえ落ちれば怪我をするし、遂に打ち所が悪く呆気なく死んでしまった。
ホームルームでの訃報にクラスは静まり返ったが、帰宅準備中にはヒソヒソと事故なのか自殺だったのかなど話し合う生徒が何人かいた。
俺はもう虐められないんだ。安心するも笑顔になれるわけでもない。
帰路にある公園に寄り、制服が汚れないようにフェイスタオルを敷いてごろ寝をする。草の香りに包まれる感覚が非常に心地良く、このごろ寝は中学3年間ほぼ日課となった。
「あ、A太郎じゃん」
振り向くとC助がいた。
C助は不幸な奴だった。少し気弱で所謂オタクタイプ、俺と同じくB也に虐められていた。その事を学校に報告するもいじめの証拠はなく、B也に対しては多少の注意程度で片付けられてしまったが、それが仇となり虐めがエスカレートした。
暫くはすれ違い様に「キモい」「死ね」などとつぶやかれたりする程度だったが、学校からの注意は火に油だったようで、誰もいないトイレで眼鏡を奪い取って粉々にされたり、テスト直前にノートをシュレッダーにかけられたりなど非道な虐めが繰り返された。
しかしそれも証拠は残っておらず学校側は何の対処も出来ぬまま、C助は登校拒否を続け、気付けば遠くの他校に転校していた。
「おー、C助か。知らない制服だから誰かと思ったよ」
「こんな遠くから○○中学に通ってるの、僕くらいですからね。最近どう?そっちは」
C助には、ちょうど今日B也が死んだ事を告げた。眼鏡の奥の眼が少し潤み、哀しんだのかと思いきや彼は小さく笑って拳を握った。
少し驚いたが、ニ年以上酷い目に遭っていたC助の立場を考えると不自然では無い。毎日続く地獄に、大人も手を差し伸べてくれなかった。B也のC助への虐めはあまりにも目立たず、同じく虐められていた俺ですら気付けなかったくらいだ。
だが俺への虐めは形に残るものが幾つかあった。
メッセージでの長文での罵詈雑言。廊下で仲間同士俺を囲んで通行料を払えと金を取ることも幾度もあり、財布を忘れた日にはつま先を強く踏みにじられて歩けなくされた事もある。それには目撃者が数名居たが、全員見て見ぬ振りをして去って行った。
B也は俺が兎に角目立たない様に過ごしていた事を知ってそうしたのだろう。だから反撃もしなければ、C助のように教師に告げたりもしないと判っていたのだ。その通り大事にして学校のいじめられっ子として認知されるのは避けたかったので、耐える事を選んでしまった。
C助は爽やかな顔をして帰って行った。
今の学校ではうまくやれているらしく、その上過去のトラウマの原因であるB也が死んだ。やはり近所に住んでいるため道ですれ違う事すら怯えていた様なので、今の彼はこの上なく安堵しているのだろう。
次の日も学校は静かで穏やかであった。
俺の左斜め前がB也の席だったが、持ち主を失いぽっかりとした印象である。俺もC助程ではないが、流石に安心して過ごす事が出来た。
B也の死に対して、泣く生徒は居なかった。仲間…というよりも金魚のフンと呼ぶに等しいB也と行動を共にしていた奴らも大人しくなっていた。金魚を失ったフンは水槽の中をぷかぷか漂うだけだ。ただ目立つ少しヤンチャな奴が一人消えただけなのであった。
昼休みの終わり頃、突然D美が菊の花束持って現れ、それをB也が使用していた机に置き合掌した。静かだった教室が一瞬ザワっとした。
D美はクラスの中では少し大人びていて口数は少なく、あまり女子グループとつるむようなタイプではなかった。話しかければニコリとはするが、あまり話題にのめり込む様な場面は見た事がない。
誰もD美に話しかけられないまま、午後の授業が始まり、そのまま1日が終わった。
俺は今日も帰路の公園に寝転んでいた。
俺だけじゃなく、何故D美があんな事をしたのか、今頃クラスメイト全員が考えているだろう。B也とD美が親しかったという印象は全く無い。虐められていたという様子も、何も手掛かりになるものは思い付かない。
「いつもここにいるよね」
声がして見上げると、D美がこちらを覗き込んでいた。流石に驚いて飛び起きた。D美は俺の横にハンカチを敷き、そこに腰掛けた。
「ねえ、お花くらい当たり前じゃない。人が死んだんだから」
と、D美はこちらから訊ねた訳でもないのに自ら答えた。まぁ、言われてみればそうだ…としか言えそうになく、口がモゴモゴしてしまい、それを見たD美は少し笑った。
「B也君は、きっと自殺だよ」
D美の突然の発言に俺はまた驚き、モゴモゴしていた口がぽかんと開いた。
D美の推測は恐らく当たっていそうだ。
彼女が言うには、俺やC助含めて数人の弱々しい男子ばかりを狙って虐めをしていた。それは自己嫌悪或いは自信の無さから他人を蔑んで自らの地位を上げようとする、汚い手法の自己顕示欲の満たし方だと。そう思うとB也は不良風の割には悪そうな生徒と歪み合いをしているところは誰も目撃していないし、教師や先輩の前では大人しく過ごしていた。
やり場のない気持ちを虐めという形で他人にぶつけるしかなかったのだろう。
また、D美も俺と同じくベランダで過ごすB也の姿を頻繁に目撃していた。家の中では居心地が悪かったのではないか。あの容姿では明らかに未成年であることから、酒や煙草は親のものをくすねていたのではないか。家の中に人がいる様子も感じられたが、長時間ベランダの危険な場所に腰掛けていても止めさせないような家族なのだろう……
俺はD美の発想力と、彼女が沢山話す姿の両方に驚いた。
「これ、誰にも言わないでね。当たってるか分からないんだからさ」
「言わないよ。俺があいつが自殺して喜んでる馬鹿みたいに思われるだろ」
「A太郎君って、やっぱそういう考え方するんだね」
D美にまた少し笑われた。
そうだ、俺はそういう人間だ。
目立たないということに尽力する。
良くも悪くも目立つと必ず変な噂が流れたり、こちらは興味のない人間に興味を抱かれたりする。そして目立つような事をすると、それを維持する努力も必要だ。何かで良い結果を出せば少しでも堕落する訳にはいかないし、よくテレビで見るような多少捻くれた若者が大人になって更生する感動ストーリーには虫唾が走る。
だからノーマルの中のノーマルで居続けること。目立たない、ただ限りなくグレーなモブキャラであり続けること。例えるならばこの芝生の中の一本の草でありたい。それが一番楽なのだった。
「だから何かに熱中する気力も無い。こうして公園でダラダラしてるくらいが、俺には一番しあわせなんだよ」
D美は不思議そうな顔でこちらをじっと覗き込んだ。1.6秒くらい、D美と見つめ合う。
透き通るような白い肌に少しそばかすがあって、長いまつ毛が大きな瞳の周りを縁取るように整列していた。瞬きをすると風が起こりそうなくらいの、扇のようなまつ毛だ。そしてほんの少し化粧をしているのか、唇は艶があり…何色とも言えない可愛らしいピンク色に染まっていた。
こんな近くで女子の顔を見たことのない俺は、恥ずかしながらも硬直してしまった。
「な、なんだよ」
「ふーん。と、思ってさ」
つまらない奴だと思われたらしい。
お互いまた明日、と片手で味気ない挨拶をして、D美は芝生に敷いていたハンカチを丁寧に畳み、帰って行った。
この日はなんだか歩く気になれず、日が暮れるまで芝生の上に居続けた。B也の自殺説が二割、D美の顔が八割という割合で芝生に横たわる俺の脳の中はぐるぐると回り続けていた。
気付けばB也の死から一週間が経過した。B也は"金魚のフン"達以外は殆ど交流が無かったこともあり、彼の話をする者は既に一人も居なかった。彼らもそれ以降は俺に絡んでくる事もなく、むしろ他の生徒達と気楽に接せるようになり談笑している様子が伺えた。
ーーーー平和だ。
だが、なんだか気持ちが落ち着かない。
原因はB也の自殺説を信じてしまっているからだろう。
いつも通りの帰りのホームルームが終わり、いつも通り俺は公園の芝生用のタオルがカバンに入っている事を確認し、教室を出た瞬間の事だった。
背中をぽんと叩かれ振り向くと、D美がいた。
「これからB也君の家に行ってみない?」
俺は嫌な予感がした。
D美は先日話したときと同じく真顔ではあるが、それでも分かる程に何かに熱中しているような様子だったのだ。大人しいようで好奇心旺盛なことも、先日の自殺説を語る姿を見て確証済。そして、俺が断っても断り切れないような強い眼差しをしており、白旗を振るしか無かった。
「同行というよりも、連行だな」
そう承諾して歩き出すと、またD美は少し笑った。
B也の家はちょうど学校から歩いて十分程度の場所にあるマンションで、周囲に学校が多い事から住民の殆どが核家庭のようだ。公園と呼ぶまでもない小さな遊具が敷地内に設置されていたり、裏に大きな駐車場と駐輪場がある。
俺とD美がマンションの入り口に到着し、部屋番号をベランダの位置から確認しようとしたその数分の間だけで、自転車に幼児を乗せた住民や、帰宅する小中学生などと何人もすれ違った。
「3階の手前だから、この番号よね」
「違ったら違ったで聞いてみればいいよ」
一階はオートロックになっていた。インターホンに部屋番号を入力し呼びボタンを押すと、すぐに応答のランプが光った。
「どちらさまですか」
「××中の3年○組の者です…えっと、」
「あー。どうぞお入りください」
B也の家で間違いは無いようだ。
クラスメイトというだけで通されたが……D美は一体何を家族と話そうとしているのか。会話の打ち合わせすら何もしていないことにこの時点で気付くがもう遅い。
ただ、D美の性格を考えると失礼な発言は無いだろう。俺はただ隣で座っていれば良い。そう思うと少し気が楽になり、部屋のドアの前に到着してもう一度インターホンを鳴らした。
ドアが開きそこに立っていたのは、B也の家族とは思えないような、すっきりとした印象の青年がいた。顔はよく見れば似ているかもしれないが、茶髪で常にボサボサだったB也とは真逆の黒髪の艶のある短髪で、眉や髭も丁寧に処理しているであろう、清潔感のある青年だ。そしてこれもまたB也とは真逆で、爽やかなライトブルーのポロシャツにチノパンという、知的な印象の服装であった。
俺はB也の家族は皆似たような傾向の髪型や性格だと思い込み若干緊張していたため、強張っていた肩の力がガクッと抜けた。
リビングに案内され、お茶を頂く。
今俺たちを部屋に入れ対応してくれているのはB也の兄である。詳細は聞いていないが、恐らく大学生で、授業が早めに終わり家にいるという様子が伺えた。
「この度はご愁傷様でした。あの、これお仏壇にと思い…」
D美はカバンから菓子折りのような、紙で包装された箱を取り出した。今日は何が何でもここに来るということを早くから決意していたに違いない。
B也の写真と花、線香などが置かれている簡易的な仏壇がリビングの角にあり、二人で手を合わせた。
B也の写真は修学旅行中のもので、何しろ俺がシャッターを押す係として旅行中に何度も呼び出されていたので鮮明に記憶が残っている。はしゃいでいる、小さな子供のような笑顔の写真だった。
「わざわざ来てくれる子がいるとは思わなかったよ、ありがとう」
B也の兄は深々と頭を下げた。
どうやら担任の先生以外は誰も来ていないらしい。確かに死の直後のクラスメイトの反応や、金魚のフン達の最近の様子を思い返すと頷ける。
「お兄さんに色々とお聞きしたいんです。えっと、このA太郎君はB也君にずっと虐められていて。彼だけじゃなくてC助君も。それで、何というか、B也君はどうして虐めを繰り返していたのですか。そして、自殺だったんですか。」
落ち着いてソファーに座ったというときに、D美が開口一番に手持ちの爆弾の全てに着火した。予想外の展開に俺は漫画のようにお茶を吹き出しそうになりなんとか飲み込むが、動けない。お兄さんも俯いてしまった。
「そうか、A太郎君、本当に申し訳ありませんでした。C助君の事は僕も一緒に家まで謝りに行ってね…転校されると聞いたから、せめてもの謝罪としてC助君の新しい制服や教科書は僕が支払いさせてもらった。A太郎君にも、何か代わりに償えれば」
「えっ、なんで?なんでお兄さんが?」
今日のD美はいつもと違う。容赦なく話すし遠慮なく訊く。数分前の俺の安堵を返して欲しい程、前のめりな姿勢だ。
B也のお兄さんはB也の写真を見ながら、ゆっくりと話した。
君達は運が良い。両親が帰って来るまでまだ時間はたっぷりあるからね、と付け添えて。
話はB也が小学生の頃に遡って始まった。
両親は教育熱心でB也は私立の中学校を受験させようと早くから決意していたそうだが、勉強の苦手なB也は簡単な漢字や九九を覚えるにも相当な苦労をし、テストの点数も悪かった。
必ず入学させたいという父親のプレッシャーで母親は徐々にヒステリー気味になり、塾に通わせたり自宅での自習も欠かさず取り組ませ、特に受験直前は寝ることも許されず机に向かわせていたそうだ。
その時期は呪いのように母親は「お兄ちゃんと同じ学校に入らなきゃ」と幾度も繰り返しB也の背後で呟いていた。
B也の私立中学入学は叶わなかった。点数が大幅に足りず、合格ラインにかすりもしなかった。
学校の合否結果の掲示板前で、諦めずに番号を何度も探すB也。その後ろで父親は母親の頭を思い切り殴り、身体は地面に叩き付けられた。
B也は結局俺達と同じ地元の公立中学校に入学したが、入学式には家族は一人も行かず、その後の行事などにも一切顔を出していなかった。
………確かにこの話はご両親がいる前では出来ない話だ。俺とD美はじっと黙ってお兄さんの話を聞き続けた。
公立中学校に入っても学力は下の中程度で、両親は食事中や団欒のときも有名大学に入学したお兄さんにしか話しかけないようになってしまった。
そして小遣いもろくに与えられず、お兄さんに少し分けて貰うような形でしか金を手に入れるしか無かった。
そして自分の部屋の中にいても、ドアを開けたままにするという規則があり、頻繁に親が監視に来る。休んでいても、机に向かっていても「あんたなんかどうせ…」と、毒を含んだ言葉ばかり浴びせられ続けた。
B也はグレた。
だが元々気弱なB也は両親に逆らうような態度は取らなかった。
その為、やはりD美の言う通り自分より気の弱い生徒をターゲットに虐めを始めた。C助の問題では母親が学校に呼び出され注意程度で事が済んだが、両親は自分で起こした問題は自分で解決しろと突き放し、謝罪には仕方なく兄が同行した。これ以降ますます両親はB也への蔑みの暴言や兄との比較発言が増す。
家の居心地がさらに悪くなり、B也は毎日遠回りをしたり少ない所持金で遊ぶなど、一秒でも帰宅時間を遅くなるよう努めた。
また、家族全員での食事の時間は何よりも苦痛であったため、食事が終わっているであろう時間を見計らい、冷めた飯を一人で食べる。食後は部屋にも居づらく感じ、就寝時間迄ベランダでぼんやりと時間が経つのを待っていた。
「ベランダ………」
俺とD美は同じタイミングで一言、復唱した。
B也の家庭での居場所は、遂にあのベランダのみに限定されてしまったのだ。雨の降る日も。どんな熱帯夜で蚊に刺され続けても。真冬の一番寒い日も。
この家では脱衣所に立派な換装機能付きの洗濯機があり、ベランダに洗濯物を干す習慣が無い。そうなるとベランダには用が無く、物置代わりとして大きな工具箱など滅多に使わないものがいくつか置いてある程度であったという。
"用のないもの"ばかりが置かれたベランダで、B也は何を思い過ごしていたのだろう…
「僕はベランダに引きこもるB也を何度も部屋に戻るよう声をかけていたんだ。それでもあいつは、もうちょっと経ったら…とか言って結局遅くまで入ってこなかった。しまいには父さんに、B也を説得するなと止められた。父さんも母さんもあいつが酒を飲んで時間を潰すのを黙認していたし、B也がベランダに居てくれた方が、居心地がよかったんだろうね……」
お兄さんは悲しそうに少しニコッとして、俺達のティーカップに新しいお茶を注いでくれた。
そして「僕だけがあいつを守れたはずなのにね」と小さな声を震わせて言った。
「B也君の遺書とかはあったんですか」
今日のD美は誰にも止められない。
「無かったよ。スマホにもそんな履歴は無かったんだ。ただ、その日はベランダに沢山酒の空き缶が転がっていて。勢いで飛び降りたのか、酔って落ちてしまったのか……」
「帰ります。お兄さん今日は本当にありがとうございました」
D美は勢いよく立ち上がり90度のお辞儀をして玄関に向かった。俺も慌てて後を追う。
ドアを閉める前にもう一度二人でお辞儀をした。
早足のD美の後を追う。彼女はすっきりとしたようで、少し心の靄が残るような表情だった。俺もきっと彼女と同じ気持ちであろう。自殺にせよ事故にせよ、家庭の事情がB也を死に追いやった…いや、殺したようなものだった。
B也の虐めは辛かった。正直これ以上続けば俺もC助のようになっていたかもしれない。だがその恨みの感情の矛先はB也ではなく、その家族へと変わった。
D美の歩幅は徐々に狭くなり、ゆっくりと俯きながら歩き始め、さりげなくも支えを必要にするように、俺の手を握った。女子の手って柔らかくて、指も細くて、こんなに儚いんだ。D美の冷たい手を軽く握り返すと、D美もきゅっと握り返す。
東へと伸びる二人の影が、真ん中で結ばれている。
この時間が長く続けば良いと、ゆっくりゆっくり歩いた。
「なあ、今日のこと、誰かに知らせた方がいいよな」
ちょっと気まずくなった俺は、業務的な口調でそう言った。
「うーん。どうだろう。B也くんは知られたくないんじゃないかな。C助には言ってもいいかもしれないけど、だからと言ってうちの学校に戻ってくるわけでもないでしょう」
「じゃあ、言わないでおこう。誰にも」
「うん。誰にも」
B也の悲惨な家庭の事情が二人だけの秘密になった。
複雑ながらも、俺は少し嬉しくなってしまった。
季節は過ぎ、卒業に向けての準備が始まった。卒業アルバムのスナップ写真のページには、担任にB也の写真も掲載して欲しいとD美と二人で伝えた。他にも卒業式の歌の練習や、高校受験の合否…そうして卒業式が近づいてくる。俺は無難にも家から近いということで近所の高校を受験し合格した。D美は私立のいわゆるお嬢様学校に通うことになった。
とあるプリントがクラス全員に配られ、卒業記念の冊子を作成する為コメントを書いて提出するというものだった。名前、中学校生活での一番の思い出、将来の夢。
将来の夢なんて何もなく、ごく普通のサラリーマンとして、強いて言えば定時で上がれて、美味い社食があって、ボーナスと有給が…なんて書けるか。
その時に久しくB也とその兄の顔が浮かんだ。
『幸せな家庭を築く!』
思い切ってでかい文字で書いてしまった。それを見た隣の席の男子には、平凡でお前らしいなと笑われた。そして何々?なんて書いたの?と前の席の女子が反応して振り返る。
「やっだ、A太郎君、D美とおんなじこと書いてるじゃん!」
と大きな声で笑った。D美と周りのクラスメイトが振り返り恥ずかしくなるも、次の瞬間にD美のプリントが他の女子達から俺の席に持ち運ばれた。
『幸せな家庭を築くこと』
D美らしい、整った字でそう書かれていた。
嬉しさと恥ずかしさで逃げ出したくなった。
冷やかしの笑い声を掻き分けるようにD美が俺の席に来て、二人のプリントを見比べてにやりと笑った。
「あんた達お似合いじゃん」
「一緒に幸せな家庭築いちゃえよ」
祭りのように冷やかしの声は大きくなる。
「あは、そうしよっか」
D美がそう言った直後、俺の顎に手を添えて軽くキスをした。
クラス中がどよめいた。きゃーとか、わーとか、もっとやれとか、煩いことこの上ない。勿論クラスメイト全員が俺のことを見ている。
しかし俺には不思議と何も気にならなかった。
ピンク色の唇は柔らかくて少し潤っていた。透き通っていて少しそばかすのある頬をそっと撫でた。D美が瞬きをすると扇のようなまつ毛が本当に少しだけ風を起こしたような気がした。
そして卒業式も無事終わり、帰り道に俺とD美は手を繋いでいつもの公演の芝生に腰をかけた。今日クラスメイトと撮った大量の写真を見返しながら、しみじみと思い出に浸ったり、周囲の目も気にせず抱き合ったりした。公園は暖かな春の日差しに包まれて柔らかな春風が走り、D美の髪から漂ういい香りが俺の鼻腔にすんなりと侵入してくる。平凡ながらも天国のような居心地の良さを感じる。
「あ、あれ見て」
突然D美が俺を突き飛ばして指を差す。
何もなかった芝生の端に、一輪の白く小さな花が咲いていた。
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