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「三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実」を見て

一時期、革命という言葉、社会運動が持つ熱量に惹かれて全共闘について興味本位で調べていた。ところが現代の社会運動、SIELDS(?)とか香港のデモ運動とかBLMとかなんとかを見るにつけ、闘争初期の志がいつしか陳腐化してしまう大衆運動の必然について、いつも疑問を持っていた。

「三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実」はそんな組織運動内の実際の会話を垣間見れる貴重な映像だと聞いていたので、この疑問にも何らかの答えをもたらしてくれるのでは、と思っていた。でもドキュメンタリー映画は当たり外れが激しいし、もしかしたら超絶おもんな作品かもしれない可能性もあるわけで、わざわざ映画館に博打打ちに行くのもなあとレンタルDVD化をひたすらに待っていた。

最初にスタンスを表明しておきたいが、自分は三島由紀夫も全学連も好きではないし、その両者の社会的行動に対しても”社会変革性においては”効果は無いと思っている。ただ純粋にその行動力だけが面白いなと思うだけの野次馬根性で観察しているだけであり、もっと言えばその運動の先に直接的幸福は無いとも思っている。自分は主義で言えば社会主義寄りだが、資本主義が嫌いだからといって共産主義では決して無い。生活の中に少なからず闘争、競争原理は必要だろうと思っている。ひとまず分類するなら精神的保守であり形式的革新派閥だろうか。そんな分類も生き物だからいずれ変わってしまうだろうが。

ここからは映画を見ながら感想をつらつらと書いていくので、文脈は入り乱れるが勘弁して欲しい。


この会合をまともな討論をしている稀有な場所と思って見始めたが、その現場の温度を見ていると、有名な人間をイベントに呼んではしゃいでいる大学生の集団でしかなかった。根本的に主義信奉は持っていないと思った。提案が無いからだ。共闘の持ちかけも結局形式でしかなく、具体性に欠けていた。だから実効性改善性にしか興味がない三島に拒否されても当然だと思う。

「言葉の有効性」「無限定無前提の暴力否定」「反知性主義」
これはこの討論中に出てきたエモいワードたちだ。三島と反対のスタンスを取る全共闘とわざわざ討論しに来たのは「言葉の有効性」を確かめるためだ、と三島は言う。要は言葉で他人を関係を変えられるか、という事だろうと思うのだけれど、自分はその志にアツいものを感じて一瞬で好きになった。しかし結論から言ってしまえば、言葉は有効にはならない上、まともに噛み合いもしなかった。そしてそれに殆ど誰も気づかないままだった。そうであれば虚しく切ない言葉だとも思える。

「無限定無前提の暴力否定」に疑問を抱いたり、知識人の鼻を叩き割りたいと言うあたり、三島は社会論調と戦いすぎている。タレントのやりすぎだ。さらに若人に説諭するポーズでこの討論の場に行くのは、若人を信頼しすぎだと思う。もっと聞き役に回らないとフロアの温度は上げられないよ。東大といえど自分が何を話したいのか、その整理もつけられない人間ばかりなんだよ20代前半と言うのは。そんな事が頭の片隅に引っかかりながら見ている。

芥が出てきた。全共闘について調べていた時にこの芥VS三島のやり取りが一部映像で出てきたのだが、瞬間的にこの芥と言う人間は嫌いだなあと分かった。こういう場に於いて子供を連れてくる神経、答弁中にこの子供に縋って緊張を隠す仕草を見せるその人間性、言葉の置き方も”からかい”が主体であり、原初原点を目指そうと言うばかりで実際は何も意味を発してはいない。詭弁ばかりだ。それはつまり彼のこの場における行動目的は結果的に売名でしかない。途中退出も”わざわざ”「退屈」を宣言して帰って行った。ダサいったらこの上ない。こいつは「言葉の有効性」を発揮するのを諦めた上に「言葉の無効性」さえも放り投げた。そしてその態度証明に「言葉」を使った。残念過ぎる脳みそデッカチくんの売名マウントだ。

こうまで芥をこき下ろすのは、知の”効果”を知らないままに知を批判しているなと思うからだ。そういう態度は賢しいだけで意味をもたらさない。こういう輩は偉そうに破壊を標榜するが、それはただの解体と反発でしかないし、それは概ね創造する行為の恥じらいから逃げている結果でしかない。一方で三島は「反知性主義が知性の極致から来るものか、一番低い知性から来るものか、それがわからない」という話をする当たり、そこら辺に自覚的なんだろうと思う。流石に大人だ。


概観して「芸術の先に思想が起こり革命が成る」という物語を一般共通の形式として皆して共有しているなと感じた。だからこそ「敗北」という言葉を使っているんだろう。最近の社会を見るにつけ、思想は”芸”の一形態に過ぎないのではと思う。純然な思想というのはあり得ないし、何より社会において実現しない。社会は数式ではなく人間の生活から出来たものだからだ。

天皇という話題に皆して無頓着なのは理解できる。その具体性に反して娯楽性が薄いからだ。興味を持つ事自体がなんだかダサい匂いがする。天皇を絶対権力、ピラミッドのトップと皆して表現しているが、本当だろうか?天皇の生活を見て羨ましいと感じたことがあるんだろうか?きっと想像もしていないに違いないと思う。純人間的に考えればあんなシステムで生き方を強制されるのは不幸な側面が強すぎる。確かに裕福さと安定安全さはあるだろうけど、それは不自由さを補っているだけで闘争的関係での頂点とは全く言えない。皆それを薄っすらと認識しているからだろう、天皇を本気でやっかむ言葉を殆ど見かけたことがない。

三島が”あんな”天皇と言ったのはそういう弱者的な部分なんだろう。強欲丸出しで資本拡充権力掌握に動く天皇なら、誰だって確かに戦う価値がある仮想敵と思えるし、運動の目標だってハッキリとする、そうすればシステムの再構成も必然的に起こる。ところが現実はその真逆だ。戦う対象は漠然としているし、到達すべき目標を打ち立てても説得力を持てない、システムの流れに糸目をつけることがむしろせせこましい事のようにも感じる。そういうモヤモヤを当時闘争に参加していた人間が皆して抱えていたんだろうと、見ていて感じた。だからこそ三島は闘争が成立する構造の為の駒として、強い天皇を打ち立てたかったんだろう。しかしそれを理解できるほど大衆というのは暇じゃなく、それが伝わることは無かったし、これからもあり得ないだろう。これは人間という生物の性格的限界だろうと思う。

「観念界のお遊びなんだよ」
三島に対して”からかい”を続ける芥に、その呆れた討論まがいに、ヤジを飛ばした男が壇上で放った言葉。これに対して芥は猿踊りをはじめて”からかい”、三島は俯いて苦笑気味に笑った。自分はこの討論を通してこの場面が一番好きだ。初めてシーンに同調できたとも言える。これに対してまともな反論・提案も出てこなかった当たりが、この討論のレベルの浅さを表していると思う。遊びに来るな、腹案を持ってこいバカタレ!と言いたい。


三島はある種芸を極めた人間で、目標を設定できない生活がそれはそれはつまらなかったかったんだろうと思う。東大の人間でも結局この程度の連帯しか出来ないのだから、運動の消極化は薄っすら予感していただろうし、この雲散霧消を全共闘の連中が感情論の思い出として消化してしまった(でなければ砦理論に陥ってしまった)あたりも救いはない。三島が死んだ意味は無かった。社会にある種の「不安」を見たい層は、それを一種のオチとして受け取ってしまっただろうから。そしてそれと同じ温度で、三島本人にとってこの「不安」のない社会を生きる意味も無かったんだろう。


時代と共に思想運動は死んだんだろうと思う。なぜなら付き合う利益が無いからだ。(厳密には解りにくいから、だが)思想運動の形式自体が、資本主義的な社会構造とは食い合わせが悪すぎた。頭を捻っても飯が食えないなら、ただの妄想野郎だし、どうせ妄想するなら物語の一つでも書いたほうが便利だ。それだけの事なんだろうと思う。

昨今はあちこちでニワカな思想をぶん回すオタク野郎が社会に跋扈しているが、そのどれもが営業的思想業でしかない。そもそも意思、思想には鮮度(個人の熱情と社会の認知度の側面で)があって、それ単体では持続性に欠ける。意思を”型”に通して”芸”にすることでしか、キャラ付けさせていくことでしか、この現実の摩耗を乗り越えられない。そしてそんな積み重ねは結局オンラインサロンの新興宗教をやるか、テレビタレントとしてプロレスをするか、の二択にしかならない。

そういうおもんな現実であるならば、やはり思想より”芸”を志したほうが人間として気分が良い。そう思った。


面白かった人、ありがとう。面白くなかった人、ごめんなさい。