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フィリピン行き航空券

こんにちは! 

Pikaです。

突然ですが皆さんはこんな状況になったらどうしますか?

急にここに来てください

と言われてとりあえず送られて来た

その日から一週間後の外国行きの片道航空券

そこには、何があるか分からない。

その国の言葉も分からない。

誰が自分を待ってるかも分からない。

行った所で何が起こるか、変わるか分からない。

あなたには仕事があります。

親はそこに行くことに反対してます。

でも、、、

そこに行けば夢が叶うかもしれない。

皆さんならどうしますか?

行けます?行かないですか?

自分の6年前の晩夏まさにそんな選択を迫られる状況にいました。

前回のNoteの投稿でも書いた通り学生時にプロチームからのオファーがなく

プロサッカー選手になる事が子供の頃からの夢だった自分は仙台大学を卒業しても尚プロサッカー選手になる諦めきれないでいました。

地元のサッカークラブでコーチのアルバイトをしながらそのクラブの子供達と一緒に身体を動かしていました。

ゲームに混ざったり、走ったりとにかくカラダが鈍らない様に工夫して過ごしていました。

どこのプロクラブからも、地域クラブでさえ当然のことの様にオファー、話がありませんでした。

その状況が半月以上経ち、周りの友人たちからも

「ヒカル大丈夫かこの先、、、」

「もう普通に働いた方がいいんじゃない?」

「俺の所で働けば?言えば多分雇ってくれるよ?」

みんなが自分の将来について心配してくれていました。

そしてとうとう、、、

あんなに応援してくれていた親父からも、、、

「もう普通に就職したら?」

いやマジか、、、キツ。

泣きましたあの夜は。何て言うんだろうか?この感情?

とにかく説明できないくらいで、頭が真っ白になり、、、

多分悔しさで泣きました。

その次の日からコーチのアルバイトをしながらもハローワークに行って就活活動を始めました。

とうとう自分もサッカーやめる時が来たのか、、、

なんて思いながらもやれる事やっていました。冬までにはどこかに、どこでもいいからまず就職しよう。なんても思ってました。(舐めてますよね笑)

それから1ヶ月後急に人生の岐路に立たされます。

アルバイトをしてた地元クラブのジュニアユースの監督、斉藤さんの学生の頃の後輩で、、、

伊藤壇(いとうだん)さん

「アジアの渡り鳥」と言われ、アジア20カ国以上ものプロチームとプロ契約をしアジアを渡り歩いてるとてつもない人に、ちょうどシーズンオフで日本に帰っていたタイミングで1日限定のサッカークリニックを開いて欲しいとお願いした所、開いてくれる事が決まりました。

このクリニックで自分の全てが変わります、、、

その日開かれたクリニックに自分はコーチングスタッフとして参加していました。

伊藤壇さんは他にも数名プロサッカー選手を連れて来ていました、その中に

大友慧(おおともさとし)さん

知る人ぞ知る2000ー2002年シーズンベガルタ仙台でプレーした(81試合出場15ゴール)ベガルタ仙台を初のJ1に導いた男も伊藤壇さんに呼ばれて来ていました。

(大友慧さんとのエピソードも今度ゆっくりNoteで書かせて頂きます。)

そのクリニックが終わり、自分は家に帰りゆっくりしていたら斉藤さんから電が来て、

「今からこれる?クリニックの打ち上げしてるんだけど、お前こないと絶対後悔するよ。」

そう言われ自転車を走らせ斉藤さんから言われた地元の料亭に大急ぎで行きました。

料亭に着いたらアジアサッカーについて伊藤壇さん、大友慧さんが自分の体験談も踏まえて語っていました。

その全ての会話が自分には新鮮衝撃的刺激的すぎて、、、

自分はなんて狭い世界で生きていたんだろう。

そう切実に思いました。

彼らは自分の可能性は他人に決められるものじゃなく、自分で広げていくもの。そして人生は一度きり、やりたい事を何としてでもやり続けるブレない信念の強さを彼らから感じました。

そして何より、、、

人生めちゃくちゃ楽しそう。笑

大盛り上がりで打ち上げが進む中で大友慧さん次のチャレンジについて話が変わりました。

「フィリピンに行く。フィリピンサッカーにチャレンジしようと思う。」

理由に3つ、、、

① 大友慧さんはフィリピン人の母と日本人の父を持つハーフということ。

② 当時外国人枠がなく来シーズンから外国人枠が導入されることで、世界に散らばっているハーフフィリピン人選手を獲得し、ローカル人枠でプレーさせようとする動きが各チームで進んでいると言う情報を手に入れていた大友慧さんが、このタイミングを狙って自分もハーフフィリピン人であることを生かし、チャレンジしようとしていること。

③ フィリピン代表としてプレーができるかもしれないと言う希望。

でした。

これまで黙ってただただとてつもない話を聞いていただけでした。

このフィリピン挑戦の話だけはスルーする事が出来ずついつい、、、

「自分もフィリピン人の母と日本人の父を持つハーフです自分も挑戦してみたいです。」

そう口が勝手に動いたの覚えています。

偉大な先輩二人を前にして、

そしてしゃべっていた所にカットインして話を止めて、、

自分は何をしているんだとも思いながら、、、

とにかく必死に自分の気持ちを伝えました。

寛大で器がでかく分け隔てなく何でも受け入れてくれる大友慧さん、伊藤壇さんは直ぐに、、、

「チャレンジしよう一緒に。後悔のない選択をしたほうがいい。」

そう心強い言葉と共に自分背中を押してくれました

大友慧さんが、、、

「自分が先にフィリピンに行って練習参加してどんな感じか見て、情報を送るからタイミングをみてヒカルくんも来て。」

そう言われ伊藤壇さんと大友慧さんと連絡先を交換して長い一日が終わりました。

この日を境に自分の中の、

日本でプロにならなければいけない!

Jリーガーになれなかったら失敗だとか!

それらの無駄な固定概念みたいなものが綺麗さっぱり無くなって物の見方、価値観が変わりシンプルに考え方の幅が広がったのと視野が広くなったような気がしました。

間違いなく言えます。

伊藤壇さんと大友慧さんに出会えていなかったら、、、

今の自分はいません。


ここからです!!!!

無駄なプライドがなくなった自分は大友慧さんの連絡を待ちながら自分で今まで出会った人達人脈がある人、ありそうな人に片っ端から連絡して繋がりはないか、コネクションはないか代理人を紹介してくれないかなど自分から行動し色々いろんな人に手当たり次第に聞き回っていました。

そこで自分はふと思い出します。

Daisuke Sato (サトウダイスケ)という男を。

彼は今現フィリピン代表

タイの強豪ムアントンユナイテッドでプレー

フィリピン代表の副キャプテンです。

彼とは実は大学の頃の後輩自分が4年の時の新入生1年生でした。

彼は浦和レッズユースでトップチームに上がれずに仙台大に入学して来ました。

彼は入学直後がらすぐさまAチームに混ざり

夏のインターハイ後レギュラーになり

自分が左ウイングで彼が左サイドバック

サイドでコンビを組んでいました。

その頃かな、、、

めちゃくちゃ馴れ馴れしくなりまさかの、、、

タメ口に変わりました。笑

「ピッカとは同じニオイがする。」

そんな事も言い出して来たりと、

まあーとにかく主張性が強く自分に自信を持った後輩だったんと言う強い印象が自分の中てはありました。

自分は大学を卒業し、

彼は進学をせずに仙台大学を辞めて単身一人でフィリピンへと渡りプロ契約を勝ち取っていた。

自分は卒業してからなとなく過ごす日々の中で、

まだ伊藤壇さんと大友慧さんに出会う前になとなく彼のニュースを何かで見てダイスケフィリピンでプロになったのと彼が自分と同じくハーフフィリピーノだと言う事もそのニュースの記事で知りました。

彼のfacebookは知っていてふと思い出した自分は彼にメッセージを入れてみました。

割と直ぐ返事が返って来て互いの最近の出来事などを話したり、フィリピンサッカーについて話を聞いたりしてる内にフィリピンサッカーへチャレンジしたい事を彼に伝えたら、

「チームのボスに言ってみようか?

ちょっと待って今からメッセージ入れてみる。」

そう彼が言った数分後に彼から連絡がきて、、、

「今からチームのマネージャーがピッカにEメールで航空券送るらしいからピッカのEメール教えて?」

とりあえずEメールアドレスを教えることにして

送った後に、めちゃくちゃパニックになったのを覚えています。

何だろうこの感じ例えて言うなら、、、

ミューツーに一発目でモンスターボールお試しで投げてそれで捕まえちゃった的な?

いや違うか?

あ!ことわさで言うと、、、

寝耳へ小判ですね。

いや違うか?笑

とにかく急に事が進み過ぎてパニック状態で彼の返事を緊張しながら待っていました。

そしたら知らないアドレスから全文英語のもう何が書いてあるか分からない、全く理解のできないメールの後に添付ファイル付きメールが送られてきてそれを開いてみると、、、

1週間後の

成田発

ニイノアキノ国際空港(マニラ空港)

昼便

片道航空券

が送られて来ました。

子供の頃数家族と行っただけで何も分からない国。

正直その国の言語である、フィリピン語(タガログ語)も英語もわからない。

航空券だけ送られて来て誰が自分をピックアップしてくれるかも、どこに泊まるのか分からない。

その航空券を使ってフィリピンに渡ってプロになれるかも分からない。

自分には急には辞められない地元クラブコーチのアルバイトがある。

親父にもあれこれ航空券が送られて来てとか伊藤壇さんが大友慧さんがダイスケがとか色々話した後に、、、

「お前はそんな所でいいのか?」

「そのレベルで満足なのか?」

かなり反対されました

それでもやっぱり転がって来たチャンス

無駄にはしたくない。

変なプライドを捨て、

自分はコーチのアルバイトで貯めていた10万円と

土で使っていたインドアシューズと

大学学生中使っていた芝用のスパイクと

ちょっとした生活必需品(歯ブラシを忘れ歯磨き粉を持ってくる。)

服とかその他諸々

キャリーバックにぶち込んで、、、

地元クラブの監督スタッフ子供達に事情を説明し頭を下げて辞めさせて頂きました。

未知不安要素盛り沢山なフィリピン行き片道航空券を握りしめ

母さんと親父に(親父は最後に折れて背中を押してくれました。)

「行ってきます。」

とだけ言ってフィリピンへと向かいました。

自分は何もかも捨ててフィリピンへ行きました。

この後の続きまだまだ書きたいんですが、、、

そう!

これ以上ここで書いてしまったら、、、

「もう書くことなくなっちゃうんじゃね?」

と思うのでこれで終わります。

あれ?

伊藤壇さん大友慧さんの件り前回の投稿と同じ事書いてたよね?

と思ってた人いるかもしれませんが、、、

すみませんでした。彼らの件りは自分にとって特別だしこの記事を書くのに必要不可欠だと思ったので再び書かせて頂きました。

長々と本当にすみませんでした。

最後に、、、

変な固定概念、プライドがあるなら捨てて

広い視野も持って自分の可能性は自分で広げてください。

歯磨き粉じゃなくて歯ブラシを持ってこう。

と言う事です。笑

長々すみませんでした。これで以上です。

                        つづく


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仙台大学サッカー部インカレvs明治大学

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サッカークリニック


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コーチ時代の教え子達

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