推し活における偶像と実像の区別について

誰もがミュージシャンや俳優、アイドルに憧れを抱きながら応援する、という推し活の認知度が上がってきて数年が経っている昨今。

推し活自体は名前を変えて、はるか昔から存在している。アイドルという語源にも関係するが、そもそも宗教自体が偶像崇拝の対象であった。

現代の特に日本においては宗教は割と薄く存在しているので、多くの人は初詣に拝む程度、如来と菩薩の違いについて詳しく理解している場合の方が少ないが、かつての日本人は曼荼羅を描き、仏像を掘り崇めていたという点では、生写真を買いアクリルスタンドを集めるという行動はだいたい同じように思える。

そうした偶像、つまり理想的な姿形をしたものを崇めること自体は古くからあるのだけど、今はその対象が生身の人間になっているということでさまざまな問題が生じているように思う。

例えば音楽作品、歌詞なんかはあくまで作品であるため、たとえ本人の趣味嗜好が入っていたとしても100%本人が共感できるかと言えばそうでもない。だが素晴らしい歌によって、あたかも本人の説法のように聞こえてくる。たとえ作詞を別の人がしていたとしても、である。

また映像作品、ドラマでの演技やセリフでは100%言わされているものである。それでも、理想的な容姿とともに「本当にそう言っている」と錯覚してしまう素晴らしい演技によって、あたかも本人が思っていて言っていることのように思ってしまうことが多々ある。(「あの役みたいなことありますか?」と聞かれてNOと答えるとな〜んだ、という空気になるのも不思議)

そうした作品を通してメディアに見せる姿は、「偶像」の側面であると思わなければならない。役として、作品として仕事を全うしていただけであり、本人のプライベート「実像」とは近いか遠いかは別の話なのである。

ただ本人に会ったことのない側からしてみれば、画面を通して見せられる偶像の情報しかないため、そういう人だと思い込んでしまうのかもしれない。「いい人だと思ってたのに」「おとなしい人だと思ってたのに」という、偶像だけでジャッジしたイメージとそぐわない場面に出会した時、大きな戸惑いとなってそこに現れてしまうことがよくある。

作品を通してならまだ区別はできるが、YouTubeやTikTok、SNSの登場により日常を切り売りできるようになってから、その境目はより曖昧になってきている。「理想的な実像」を作り出すことで、より親近感を高めるという商売が始まっているのである。

だがよく考えてみてほしい。朝起き上がるシーンから始まるモーニングルーティーン、前日の夜からカメラを仕込んでいないと不可能である。8時間ほど回しっぱなしとは考えにくい。一旦起きて、録画スタートし、布団に入り、起きる演技をしている。この時点で実像ではないのである。

こうしたことは特にタレントに限ったことでもない。例えば怒られたくない場面でハキハキと話すことなど、自分をよく見せる意図的な行為すべてが偶像(自分の理想)に通ずると言える。誰でも持っている二面性、多面性なのだ。

つまりはメディアに対峙するとき、常にこれは「偶像」なのだと言い聞かせなければならない。「実像」は家族や近しい友人のみぞ知る存在であることを理解しておく必要がある。

自分にとっての理想になってくれている、演じてくれている、そして大衆の前に出てきてくれている。そのことに感謝をすれば、自然な推し活を進めることができるではないだろうか。



そういえば鬼レンチャンで華原朋美が出るたびに「無理しないで」という言葉が多々見られるが、「本人がそもそもそういう元気な人」という可能性をこれまで見てきた偶像を元に排除しているのではと感じる。

「もともとそういう人」ではあるが、理想の自分ではないので蓋をしてしまうことは多々ある。特に学生はほとんどそう。大学生になれば金髪にするし派手な服装を好む場合もある。あの大人しかった人が…はよくある話。その時、その場の環境に適応するために出さない側面というのは、誰にでも存在しているものだと思う。

とは言え華原朋美の実像は本当に全く知らないので、「本当に元気な人」とも言いきれないのも事実。ただしその可能性はいつだって存在しているのだと、心のどこかに留めておかなければあらゆる変化に対応しきれない。逆にそう思っておくと、そんな一面もあるんだねと印象を拡張することもできる。

偶像=理想とかけ離れてしまったとき、偶像を押し付けてしまうのか実像と区別するのかで心持ちが変わってくる。あのブログ、ツイートすら偶像だということを、我々は決して忘れてはいけないのである。


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