見出し画像

あの日のこと

広島と聞くと私はまず1番に大好きなポルノグラフィティのお2人の顔が浮かぶけれど、次に浮かぶことは1945年の今日起こったことである。

私の母校の女子校は、それは熱心に平和教育をしていた学校だけど、今思うと学ぶ機会があって本当に良かったなと感じる。

関東は8月に入り漸く梅雨が明け、ギラギラと夏の太陽が青空の下を焦がしている。
あの日もそんなふうに雲ひとつない青空だったらしい。

そんな暑い日にもっと灼熱で恐ろしい一弾が撃ち込まれて、人命や街や生活を奪っていった。

この世には耐え難く恐ろしいことも沢山起こり、その都度我々は離散を経験せねばならない。そしてそれは今も変わらず起こっている。

早くも少し前のことになってしまったけれど、東日本大震災であるとか、台風や集中豪雨だとか、今なお渦中のコロナウイルスなど。
それでもあの日の恐ろしいのは、人為的で作為的な行為であったことだと思う。

人間は今も尚、自然に逆らうことは出来ないから、それはもうとにかくガムシャラに皆で良い方向に進むしかない。
でも、起こさぬように出来たはずの人の手の加わった出来事には、どうしていいか分からなくなる。

巻き込まれた自分の人生を呪うべきなのか、起こした相手を憎むべきなのか……
私があの日に生きていた人だったら、多分立ち直れずに死を選んでいたと思う。

広島や長崎の人の凄かったところは、起こした相手への辛い気持ち以上に、街の復興を考えたこと。これ以上悲惨な世の中にしないように、人々に呼びかける方法を考えたことだと思う。

少なくとも、そんなふうに考えてくださった先人達のお陰で、私は平和という視点から、過去を振り返り学ぶことが出来ている。
呪ったり、憎む心では絶対に今の時間は手に出来ていない筈だし、今も尚戦いが続いていた可能性だってある。

勿論まだまだ終わらない戦いは沢山あるし、この記憶については、終わらせてはならない戦いであるとも思う。
そもそも多分、後世を生きる私たちが終わりを決めていい問題ではない…

そんな今の私たちに出来ることは、当時の人の気持ちになって思いを馳せること。
なぜ戦争はいけないのかを、追体験しながら考えて心に刻むことなのではないかと思う。

未来の人が今を振り返った時に、少なくとも人為的な争いが起きていない世の中であって欲しい。
そして未来の人も、過去に想いを馳せられるくらいには平和な時を過ごしていて欲しい。

本当に必死で辛い時は、今を見る時間しかなくなってしまうから。
過去を“教訓”に出来る今こそ、この時間を大切にしていきたい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?