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集団のためのエチカ(倫理)について

幸せになる方法って、あるんだろうか。

そもそも幸せって何だろうか。

私は生まれてからずーーーっと、幸せになりたいと願って生きている。

ちなみに僕は、幸せになる方法なんてずっと分からなかった。
強烈な生きづらさを感じる日々が続いた。
そこから這いあがろうとして、強烈な痛みを伴い続けた。

でも、確かにその先に、見えたものはある。
この記事は、それを学問ベースで整理する試みだ。
かつ、下記のリンクを更に詳細に記述する試みでもある。

おそらく、かなりの長文になると思う(およそ8600文字)。
それでも、読みたい人にだけ読んでもらえたら、嬉しい。
生きづらさを抱えている人には、必ず刺さる内容になると思う。

加えて、私はサークルなど様々な組織運営において「みんなが好きなことをすることが、結果的に公共的になる状態」を目指してきた。下記の内容は、そのためのエチカ(倫理、心の持ちよう)でもある。


「生きづらさ」の正体

生きづらさと「幻想」

私たちはあらゆる生きづらさを抱えて生きていて、人の数だけ悩みはある。

でも私たちの悩みには共通点があり、それらを遡ると同じところに行き着く。

その正体の呼び名は人によって異なるが、私はそれを「幻想」と呼ぶ。

視点によっては「虚構」だとか「ドミナント・ストーリー」と呼ばれている。

「虚構」は人類学的なアプローチ(サピエンス全史:人類は虚構を生み出した)、「ドミナント・ストーリー」は臨床心理学におけるナラティブ・アプローチで用いられる呼称である。

私の場合は、戦後社会論の巨匠・吉本隆明「共同幻想論」から引用している。
ここでは全て同義のものとして「幻想」として扱う。

また、ここで記される内容は、吉本が用いた「幻想」の用法と異なる部分がある。
あくまで後述のアドラーの内容を分かりやすく対置させるための道具として捉えてほしい。

「幻想」の具体例

生きづらさの正体は、なぜ「幻想」なのか。そもそも「幻想」とは何なのか。

僕らはいろいろな幻想に苛まれて生きている。
吉本隆明は著書「共同幻想論」において,幻想を3つに分類した。「自己幻想」「対幻想」「共同幻想」だ。

これらは英文法みたいに,それぞれ「1人称」「2人称」「3人称」の関係性にある。

たとえば自己幻想は,自分に対する幻想。「もっとイケメンだったらいいのに」とか「お金持ちになりたい」とかだったりする。

対幻想は,目の前の人に対する幻想。人が交際相手に求める条件みたいなものもそれにあたる。

そして共同幻想は,共同体に対する幻想。自分が所属する組織だとか,国家に対するイデオロギーのようなもの。

こういった幻想を持つことの,何が問題なのか?
小学校でも「夢を持て」と教えられるじゃないか,と思うかもしれない。

その副作用を,次章で詳しくみていく。

幻想から生じる「義務感」

幻想を抱くと生まれるものに「義務感」がある。

幻想では,いまの状態よりもより良い状態がイメージされている。

現実の自分たちは,それには遠く及ばない。

すると,その状態に近づこうとするあまりに強く「こうあるべき」「これをやらなきゃ」と思ってしまう。義務感を覚えるような「べき論」が展開される。

不思議なもので,人は義務感が増えると現実の自分と大きく乖離して,やる気がでなくなってしまう。

義務感の例

現実における,幻想から生じる義務感を覚えさせるものは何があるだろうか。

それは自己幻想なのか,対幻想なのか,共同幻想なのかによって分類されたりする。

最近わたしにターゲティングしてくる広告は「脱毛しろ」「マッチングアプリしろ」「投資しろ」みたいなものが多い。これらは全て自己幻想に該当する。脱毛しなきゃ!と義務感を覚えさせる。

そして男同士・女同士の会話でよくある「あの男性・あの女性いいよね,嫌よね」みたいな会話は,対幻想に該当する。それを聞いた相手は,モテるために脱毛しようと努力する。

そして共同幻想は,現代日本においては吉本隆明のおかげで(せいで)目に見える部分はかなり失われた。安保闘争時代の大学生たちを自己幻想・対幻想に移行させたのが吉本隆明なのだ。

でも,いまも幻想は残っている。大学生であれば,意識高い系が典型例だ。

別に僕は意識高い系のことは嫌いじゃない。
自分もその1人だったし,「勉強」とは意識が高くなっては挫折しての繰り返しだと思っている。

ただ,意識高い人というのは,何かに対して「こうあるべき」という強い理想を掲げている。

ある程度のところまでは行くかもしれない。
でも,理想と心の乖離が著しいため,いずれ体が動かなくなる。

問題は,幻想による義務感が,時に周囲の人間にまで悪影響を与えることだ。

「こうあるべき」「やらなきゃ」が先行し過ぎて,結果的に周囲の人に何かを強制したり,周囲の人のやりたいことを阻害することがある。

幻想と義務感に苛まれている当の本人も,それを続けると自分が本当にやりたいことが分からなくなってしまう。

そう,幻想と義務感が肥大化した状態は,誰も幸せにしなかったりする。

難しいところだが,幻想や義務感を僕は否定しない。重要なのはバランスだと考えている。

宮崎駿の名言で締めて,次の章に移ろう。
「理想を失わない,現実主義者にならないといけないんです」

生きづらさを,幸せに大逆転させよう

前章では,幻想とそこから生じる義務感がもたらす人間疎外について論じた。

ここでは幻想と対になる概念を知ることで,幸せとは何かを考えていく。

もちろん,幸せだって人の数だけあるし,教祖になる気もまったくない。

今から述べる文章を知ったところで,いきなり幸せにはなれないと思う。

今から述べるのは,知るだけで幸せになれる気がする小手先のスマホアプリのようなものではない。

むしろ,スマホのOSそのものを変えるような内容だと思う。

アドラーに見る,幸福の条件

アルフレッド・アドラーという心理学者がいる。「嫌われる勇気」という本は聞いたことがあると思う。

彼が人間の幸福の正体として述べているのは,「共同体感覚」だ。人は人といることが快く感じなければ幸せにはなれないらしい。

僕たちの所属する組織でも,共同体感覚を育てることは最優先事項に含んでいいのかもしれない。

そして,共同体感覚が生まれる3つの条件として,「自己受容」「他者信頼」「他者貢献」が挙げられている。

鋭い人はこの時点で気づくかもしれない。
吉本隆明の3つの幻想と,アドラーの幸福の条件は対になっている部分がある。

吉本隆明とアドラーの関係性

吉本は幻想について「感情が逆立(ぎゃくりつ)」した状態だと述べている。
次の章から,3つそれぞれを紐解いていく。

「(自己)幻想」から「自己受容」へ

幻想に縛られている人間は,色々な相対評価の中で生きている。

彼ら彼女らは,幻想による義務感によって,色々な分野で頑張れる人も多い(それは長くは続かないのだが)。

逆に,相対評価で低い数値を出してしまうと,絶望してしまう。生きる意味が分からなくなってしまう。

というか,日本ではかなりの割合の人間が,相対評価(幻想)からくる義務感や絶望に苛まれていると思う。システム社会が1番の原因だと思うが,それについては割愛する。

重要なのは,学校や社会で押し付けられる相対的な指標が,私たちを生きづらくしている状態が問題だということだ。

通知表やGPAで高評価を取れとか,落単はするなとか,大企業に就職しろだとか,学生団体に入れだとか,インターンしろだとか,あいつは顔がいい,ブスだ,とか。

これらの評価は社会からは恐らく消えないだろう。現状の社会は,数値による評価制度があるからこそ回る,大きな機械のようなものだ。

ただ,こういった相対評価(幻想)から距離を置くことで,義務感に苛まれる状態から距離を置くことはできる。

幻想を発する大元のシステムは、資本主義や行政官僚制(学校も含む)だと個人的には思っている。

幻想を発するものを知った上で、それらから距離を置くといいかもしれない。
時にはSNSも見ずに、本を読んだり、アニメを見たり、植物の世話をしたり。

社会から必要とされる義務感から離れてみると、自分が心に蓋をしていたことに気づく。本当にやりたいことすら、分かっていなかったことに気づける。

そして、自分が(社会の幻想とか関係なく)本当にやりたいことが、いつか見つかる時が来る。調子が悪い時に失敗してしまったりする自分を、受け入れられるようになる時が来る。

それまでかかる時間について、アドラーは人生の3分の1の時間がかかるとも言っているけど。

行動自体は今日からできる。

時には「意識低く」生きてみるのも必要なのかもしれない。

「対幻想」から「他者信頼」へ

私たちは幻想に苛まれているが、それは自分に対してだけではない。

目の前の人に対しても、私たちは幻想を見ている。
そしてその幻想は、相手にも伝わってしまう。広がってしまう。

相手に幻想を抱けば「期待」をしてしまう。

期待を裏切られれば、その人に対するイメージは悪くなる。自分がイライラしてしまう。

自己受容ができれば、他者信頼も自然とできるようになると私は考えている。
自分に対する幻想を解消し受け入れることができれば、他者に対する幻想も消えるからだ。

でもそれは、多くの人にとって非常に難しい。
どうやって他者を「信頼」すればよいのか?という問題が生じる。

よってここでは「信頼」の問題を扱う必要がある。

「分人主義」について

幻想を他者に押し付けると、極論を言えば常に他者を「採点」し、期待を裏切られれば「減点」していくしかない。

これは言うまでもなくディストピアである。

しかし現実として、この「減点方式」に近い考えを持つ人が多いのは確かだ。

他者に幻想や期待を抱かずに、どうやって人を信頼するのか?

結論を述べる前に紹介したいのが「分人(dividual)」という概念だ。

現在は芥川賞選考委員も務める、小説家・平野啓一郎が提唱する概念である。
ざっくり説明する。

「分人(dividual)」は「個人(individual)」に抵抗する概念だ。
デカルトが17世紀に「我思う、故に我あり」と説いた時から、個人の自我という考えが主流になった。

そして現在は、社会の最小単位を個人とすることで成り立っている。
ここでいう社会とは、法律や資本主義のことだ。

なぜなら、法や資本主義は個人の自由意志を前提とする。
個人の自由意志を認めなければ、その人に「責任」は問えないのだ。

しかし現実の社会において、個人の自由意志なんてものは存在するのだろうか。

例えば、ある殺人犯がいたとする。殺人を犯したことは、個人の自由意志に基づいた罪に問われる。しかし犯人が罪を犯した背景は、複雑なものだ。同情されるような理由があるかもしれない。

仕事で信用していた同僚が、ミスばかりするようになったとする。個人の自由意志に基けば、仕事には責任が生じるため、その人は降格になるかもしれない。でも、もしかしたらその人はプライベートで何らかの構造的な問題を抱えているかもしれない。

そう、社会では「責任」が求められるが、現実の人間は周囲の人間関係であったり、表面的な行動の背景にある「構造」によって顔(ユングにおける「ペルソナ」)が変わる。

このように、人間の行動は背景や構造によって変わるし、人に幻想や期待を抱いて100%その人を信頼するというようなことは不可能なのだ。

人には様々な顔があり、周囲の人や構造によって顔が変わる。
「本来の自分(自由意志)」なんて存在しない。これが分人主義の考えだ。

人に思い通りの働きを期待することは、人を「機械」として扱うようなものだ。
人に信頼を置くことは、極めて思い上がりな行為かもしれない。

他者の感情に寄り添う

人に信頼を置いてはいけない。

分人主義の伏線から結論を述べる。
私たちが信頼を置きたいのは「人の感情とその背景」だ。

この動画と書籍(チョンキンマンションのボスは知っている)も説明が分かりやすいので、参考にしてほしい。

目の前の人を安易に信頼するのではなく、その人が今どのような感情を抱いていて、その感情はどのような背景によるものなのかを分析する必要がある。

その背景は、「プリンを兄弟に食べられてしまった」ような小さな悲しみから、私たちが縛られている社会の構造や幻想まで、様々なスケールがある。

大切な人は、あなたのすぐそばにいる。
「その瞬間の、その人」を信頼するために。
人の状態(感情とその背景)を毎日気にかけることが、何よりも大切なのだ。

そして目の前にいる人の背景を分析するために、私たちは様々な経験や勉強をする必要がある。

これらが満たされて初めて、人の状態に信頼を置くことができる。
むやみやたらに人を信頼し、期待を裏切られて病むことはなくなる。

個人としての他者に幻想を抱かないこと。
そのときたまたま「状態」が良い人を信頼すること。

これが私の思う「他者信頼」である。

「共同幻想」から「他者貢献」へ

自己受容と他者信頼に続いて、「他者貢献」まで体現することができれば、あなたが所属する集団への「共同体感覚」が育まれ、それが幸福と同義であるとアドラーは述べた。

正直、自己受容と他者信頼を体現することができれば、他者貢献もできるようになると考えている。

アドラーは共同体感覚の3要件、自己受容・他者信頼・他者貢献について、円環的・相互的に作用し合う関係性にあると述べている。

3つのうち2つを体現すれば、残り1つも自然とできるようになる。
私の場合は他者信頼と他者貢献ができて、自己受容も自然とできるようになった感覚がある。

例えば、信頼を置く対象を「他者」から「状態」に置き換えることができれば、私に対しての自信も「私」ではなく「状態」に置くことができる。調子が悪い時の自分も受容することができる。

ただ、ここではあくまで共同幻想も絡めて記していきたい。

共同幻想について改めて確認すると・・・

人間が集団を形成するときに生み出される幻想。 特に、家族・社会・国家・民族など個人を超える集団の秩序やそれへの帰属を理解するための観念をいう。

吉本が著書「共同幻想論」を出版した時代は、安保闘争の真っ盛りだった。

学生たちは、国家に対する共同幻想に苛まれていた。

「共同幻想論」は、彼らの共同幻想を「感情が逆立」している状態と指摘し、自己幻想と対幻想への移行を促すことで、学生運動の沈静化と、大量消費社会へ移行した歴史がある。

では、21世紀を生きる私たちは共同幻想に苛まれていないのだろうか?

残念ながら、それは違うと考える。国家に対する共同幻想は失われたが、幻想を見せる装置は私たちの身の回りの至る所にある。

20世紀の幻想を抱かせる装置は、テレビやラジオや映画などのマスメディアだった。ナチスドイツが映画やラジオで大衆を動員したのはご存知の方は多いと思う。

では、21世紀の幻想を抱かせる装置とは何か?

それはSNSだ。Twitterが最も分かりやすい。
ツイートは自己幻想、DMやリプライは対幻想、タイムラインやトレンドは共同幻想を機能させる。

SNSのような幻想を見せる装置は、私たちにエコーチェンバー的な心性(見たくないものを見ない)を想起させる。エコーチェンバー現象が、米国ではトランプ大統領や様々な陰謀論を生み出したことは記憶に新しい。

少なくとも日本に限っては、多くの人にとって、「国家」に対するイデオロギーは確かに失われた。しかし、共同幻想が「国家」ではなく、あなたの目の前の集団、組織、共同体に潜んではいないだろうか。

例えば、所属するサークルに対して「こうあるべき」と主張するものがいたとする。このような「べき論」は幻想のひとつであり集団に対してのイデオロギーだ。他者に対して義務感を抱かせる。

私たちはこのような場面にしばしば出会う。
しかしイデオロギーの存在は、必ず対立を生む。

対立の先に往々にしてあるのは、カール・シュミットの「友敵図式」だ。

上層部の考え方と合わない人間を排除し叩くことで、内輪での仲間意識を強固にする。小学校でのイジメと何ら変わらないし、ナチスのユダヤ人に対する行いとも見分けがつかない。

だが大人になっても、友敵図式は至るところに現れる。
私たちの中にある共同幻想は、国家から目の前の集団や世間に移っただけで、消えてはいない。

そしてその時代の流れとともに、共同体や家族は解体され、個人が社会に対してむき出しになった。

かつては自分の所属する共同体の損得で行動選択をしていた。
しかし現代においては、個人の損得で行動が選択されてしまう。

共同体に包摂されず、行動基準が幻想と個人の損得である「クズ」は、
他者に貢献したいと心から思える感情を抱くことはない。
自由のためのエチカ(倫理)、ウェーバーの価値理念は存在しえない。
友敵図式に流されて、いじめ・対立に加担するか、傍観者になるかのどちらかだ。

だから、幻想から離れよう。エチカを抱きしめよう。
この文章は、そのために書かれている。

幻想から距離をとる集団のカタチ

「やりたいことをやる」ことが、結果的に公共的になる世界

私はこれまで散々「幻想」についてdisってきたが、その存在そのものを否定はしたくない。

人間は生きる限り何らかの幻想を感じるし、幻想から生じる義務感があるから頑張れる時もある。幻想を強化した法と資本主義によって、私たちが便利で豊かな生活ができていることは認めなければならない。

おそらく、大事なのは「バランス」だ。
吉本的なものとアドラー的なものについて、バランスをどう取っていくか。
過剰な幻想の副作用を抑えていくには、どうしたらいいのか。

自己幻想に限った上でのひとつの解は、TwitterやInstagramなど、幻想を見せてくる装置から極力距離を取ることだ。

しかし、集団の共同幻想はそれ以上に強い。

私たちは組織や集団において、決まった役割を求められる。
例えそれがやりたくないこと、義務感を覚えることだったとしても、責任を押し付けられる。

義務感を覚えず、いや仮に義務感を覚えていたとしても、自発的な心のベクトルと義務感のベクトルを、同じ方向に持っていく組織構造や人間関係のカタチが必要だ。

五条悟の、虚式・茈(むらさき)みたいな感じ。伝われ〜!

そのカタチは色々あるが、ふたつの例がある。
ちょっと書くのに義務感を感じてしまうので、リンクで勘弁してほしい汗

就労支援施設「ムジナの庭」と、エビ工場「パプアニューギニア海産」だ。

どちらも共通している点がある。
それは「やりたいことをやり、やりたくないことはやらない」ことだ。

就労支援施設と工場。
どちらも納期までに納品しなければならない。

しかし、人間に対するルールなどの管理なしに、それを実現している。
いや、正確にはルールはあるのだが、「これはしてはいけない」というよりは「これはしていいよ」に近いものだ。

これも幻想(イデオロギー)だと言われればそれまでだが、
義務感とうまく付き合う組織運営を、実現している例だ。

ここで答えを書いてしまうと長くなってしまうし、
「こんな感じだよ!」というのが伝わるのを願っている。

あなたの所属集団にあったカタチを、探してほしい。

終わりに

組織論の小難しい各論について、ここでは書くつもりはない。

だけど「私たちの集団はこうあるべき!」という共同幻想で、
誰かが悲しむ姿はもう、見たくない。

誰かが悲しまない空間づくりは、簡単に見えて実は難易度が極めて高い。
私もかなり悩んで、色々な組織でもがいてきた。

弊サークルにおいても、写真ガチ勢vsエンジョイ勢の争いというのが何年も続いてきた。その問題を解決しようとしてきた。

問題発見・問題解決能力というのは、大学のAO入試においても重視される能力で、当たり前のように皆がその鍛錬に励んでいる。

でも、問題を解決したら、次の新たな問題が発生すると思う。

例えば、外来種のブラックバスが日本で繁殖してしまったから、かつていた種が絶滅寸前である場合。ブラックバスを取り除けば問題が解決するのかと言えば、それは違う。ブラックバスもまた、長い年月をかけて日本の生態系の一部になった。それを駆除すれば、生態系のバランスが崩れる。

同じように、ガチ勢とエンジョイ勢のどちらかを駆逐したところで、それは誰かが我慢することになる。そしてカール・シュミットの友敵図式は、また次の年に同じ構図で繰り返される。

むしろ、問題を「解消」するようなイメージを持ちたい。
どちらも共に楽しく生きるあり方を、模索したい。

属人的なトップダウンの組織を、僕は好まない。
優れたリーダーが現れるとは限らない。
だからと言って、システム化された組織も、僕は好めない。
システムに人は依存して、義務感を覚え、やる気を失くす性質がある。

むしろ、ひとりひとりの「幻想」に向き合い、寄り添う。
私が目指すのは、できるだけ多くの人が幻想から逃れて、
共同体感覚を体現している、フラットな共同体なのかもしれない。

たった1人のカリスマに責任を押し付けるような属人的なあり方ではなく、
むしろ全員の属人性を極めた状態、とでも言えばいいのだろうか。

ここまででようやく、みんながやりたいことに熱中しつつ、それが公共的になる空間につながる。

そう私の直感がそう囁いてくる。




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