目的への抵抗
「サークルの目的って、なに?」
サークルに所属していると、目的について考えることが、きっと誰しもあるのだと思う。
弊写真部もそうだ。というか、写真が1人でも撮れるものだという特性上、むしろ他の文化サークルよりもこの目的性に悩まされることが多い。
目的、たしかに大事なものなんだと思う。でも、とっても怖いもの、とも思う。
むつかしいことは僕にもわからない。
けど目的って、資本主義における生産性が前提だったりする。
かつ,いろんな曖昧なものを限定してしまうもの。
僕たちは資本主義のために生きている訳でも,曖昧なものをわざわざ言語化して明確にするために生きている訳ではない。
目的が先行した世界に、何が待ち構えているのか。先日こんなツイートを見た。
彼は私がとてもお世話になっている方なのだけど、特にこのツイートは何度も頷いてしまった。
渋谷という街は、かつては「渋谷系」というように若者文化の中心だった。
しかしすっかりビジネスの街になった。渋谷に文化が生まれる匂いはない。バズりたいYouTuberとか、観光客にすっかり「消費」される街になってしまった。
ビジネスの合理性に支配された街に、人の愛着は生まれない。文化も生まれない。
これって、大学のサークルとか、色々な組織も同じなんだろうな、と思う。
全てに合理的な目的が見出された世界には、きっとその目的が残そうとしたものすら、残ることはない。
そこから私が考えるのは、「合理的な目的を超えた、サークルの存在意義」についてだ。
写真部が存在する意義は「写真を上達させるため」なのか。
それも大事だ。でも、きっとそれだけでは無い。
私が考えているのは、写真やカメラという道具が、部員をイキイキとさせる媒介となり得るケアの要素だ。
そこで、ジャン=ウリの「コレクティフ」という概念を紹介したい。
大学は高校までと違い、誰しもがクラスのような共同体の中で包摂されるわけではない。意識的に人のつながりを作らなければ、あっという間に孤独が待っている。そんな状況で1人で悩めば、生きている意味なんてわからなくなってしまう。
そんな中で、大学生たちは人とのつながりを求めてサークルに入る。
サークルには何より「ケアの場」に近い意義が求められている。
だが、私たちは時にそれを忘れる。
上記のリンクにおいて、「コレクティフ」は次のように紹介されている(以下引用)。
目的を含め、自由意志や責任などの二元論を前提としたサルトルまでの実存主義哲学と、(ポスト)構造主義哲学の自由意志の否定・二元論の脱構築を目指したジャン=ウリの時代思想との対比が読み取れる。目的や二元論からは漏れ出てしまう「何か」を、すくいとることに私たちは苦心するのだ。
サークルで忘れてしまいがちな視点は、他にもさまざまに存在する。
戦後社会論の巨人・吉本隆明は、著書「共同幻想論」において日本人を「義務感によって感情が逆立ちした状態」と表現した。
「こうあるべき」「こうだったらもっと幸せ」に代表されるような、社会的自己実現に向けた「義務感」「べき論」が、戦後の日本社会を覆っている。
つい目的とか合理性ばかりに目が眩んだり、、、
上手な写真を撮って社会的な自己実現をしたい!ということもあるけれど。
組織をまとめるために、様々なルールを用いて「義務感」を増やすことばかり考えてしまいがちだけど。
私たちが心身ともに健康でいることが、何より1番だいじなんだと思う。
みんなが自己を受容し、他者を信頼し、他者に貢献したい!と思える場所。
これが共同体感覚の条件であると、アドラーはいう。
ルールや義務感、損得勘定による目的性のなかで、共同体感覚は生まれることはない。文化が生まれることはない。
それは現代の渋谷が教えてくれた。
その上で少なくとも言えるのは、サークルにおいて組織(共同体感覚)が必要条件、事業活動が十分条件であることだ。
必要条件単体でもサークルは成立する。
しかし,十分条件である事業活動は必要条件なしには存在し得ないのだ。
そして、事業活動が目的的になったとき、つまり義務的なものとなった時、組織がガラガラと音を立てて崩れ去ることがある。
むしろ、徹底的に組織のつながりを強くすること。ここにしか事業活動が“自発的”に花開く可能性は存在しえない。必要条件なしに,十分条件が花開くことはあり得ない。
カオスな状況を安易な二元論で判断せず、
一旦カオスを受け止め受容すること。
「ケアのまなざし」を持ちながら、
「個人の感情に寄り添う」こと。
そして「人を活かすための道具(conviviality)」について考えること。
これが大事、と言おうと思ったけれど、目的になるから言わない。