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断片 できること、するべきこととその力

 音楽を聴きながら、じ、と考えていた。いま何ができるのか、何をするべきなのか。結論は簡単なもので、たぶん私にはいま何もできないだろうということと、するべきことがあるとしたら、それは小説の腕を磨くということになる。何もできない点についてはもうアイディアがない。外国人部隊に入って現地で応戦するとかいっても訓練されてないから足手まとい、送金募金も貧乏ゆえにできず、ただの市民ゆえマスメディアで訴えかけることもできない、抗議の断食くらいはできても注目はされないし、じゃあ焼身自殺による抗議、途中で消されて火傷で終わる。いったい何ができるというのか。効果のあることは。

 承前。いますぐに、直接的には何もできないが、長い目で見るとするべきことはあるのかもしれない。それが小説の腕を磨くことだ、というだけでは意味不明だろうので詳らかに書く。昔、どこかの強制収容所で、捕らえられていた人々が本を貸し借りしたり、覚えている小説を語り合ったりしたという話を聞いたことがある。過酷な状況下、それが大きな楽しみになったらしい。そこで読まれたり語られたりした作品、きっとすばらしいものだったはずなのだ。そういうものを書けばいいんじゃないのか。つまり小説による救いをひとときでも届けることはできるんじゃないのか。いまの状況に関する限り、そういったことがたぶん私のするべきこと、目指すべきこととなりはしないか。昔の強制収容所だけが地獄ではない。いま町が地獄になっている。銃撃砲撃が止んだあとのこと、瓦礫の片づけが始まった頃、手元にすばらしい本があってそれによって誰かを勇気づけられるとしたら、その本を書いた作家は英雄のひとりである。

 承前。お前は英雄になりたいのか? と訊かれるとちょっと違う。今回のことを前提としてするべきことを考えたら、そういうすばらしい小説の執筆に向けて努力することくらいなんじゃないか、というだけだ。できることだとはいわない。能力も努力も全部足りないかもしれない。ただしこれはするべきこと、目指すべきこととなりはしないか。どっかの妙な東洋人が書いた一冊の本。それが訳されて読まれていくかどうかはわからん。活字よりは漫画のほうが読まれるかもしれない。ただ小説を書くことはいま少しくらいはできる。この力を強く強く高めていくのが、もしかしたらいつか、痛めつけられた誰かの助けになるかもしれないというお話。あれこれの音楽を聴きつつ、夜更けにそんなことを考えていた。夢物語か。争いが終わったら忘れるようなことだろうか。そう思うには今回のことはつらい。この先のうのうと生きるのは申しわけがない。

 とある集まりで、ショスタコーヴィチがいま聴かれていたりする。私はこの作曲家についてはほぼ何も知らなくて、交響曲全集を持っていてもまだ封を切っていない。ただ圧政の下で音楽の戦いをした人、ということを知るのみで、さていまこうして聴き直され、振り返られるというのは、世がそんな状況にあるというのはいったいどういうことなのか。ついこないだまでオリンピックで楽しいことがあったはずなのだが、すっかりかすんでしまったね。ただ音楽は祈ることへの力にはなる。ヒルデガルドの時代から祈るための音楽があり、または音楽が自然と祈らせることがある。この間のベルリンフィルの声明もそういうことを踏まえてはいなかっただろうか。

 二月は思うようには読めなかった。三月はたくさん読もう。読めば読むほどいいぞ、とは重々承知しているところ。部屋の環境も整ったところで、さて新しい本を。



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