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断片 これで終わりにしよう。

 タイトルはカウビのサントラ、三枚目の帯から。手元にはないがこう書かれてあったはず。カウビいいよねカウビ。さてこうした断片が三十回目となり、毎日一回の投稿をやっていたものだったが、いったんここで終了ということにします。一回で一四〇〇文字くらい書いてたんで、全体で四万字くらいのもの。原稿用紙換算なら百枚以上。つまり月産百枚、これは別段多い枚数ではないが、私にしては少なくはない。いいトレーニングになった。以後つぶやきでもしていくが、それで物足りなくなったらまたぽつぽつ書くかもしれない。書くことにどっぷりハマっていた三十日間でした。楽しかったね。

 人が生きるというそのときに、どう生きてもいいという原則があるという。この話はどう考えても覆せない。世にあるのは、こうあるべきだという姿、そのような誰のものとも知れぬ漠然としたイメージだけで、本当にその理想や希望が正しいのだとは証明ができない。ただの世のノリや雰囲気だ。そんなふわふわしたものを定義することはできないし、ことさら従う必要もない。死ななければそれでひとまずいいのではないか。一個の者としてどういう生き方をしていくのかを考えて、そこでやりたいことが出てくればいいんじゃないの。そういうとやりたいことがないという人もいるのだが、それ嘘でしょ。焼き肉とか食いたいでしょ。その焼き肉のために労働するということもある。じゃあそれでいいじゃんって話。納得しなさいよ焼き肉の幸せに。上カルビの油っこさに。そしてハラミの柔らかさに。タン塩の旨みに。ミノの歯ごたえに。腹へってきたよ。

 バレンタインデーですね。この日はモテだの非モテだのとわいわい、世の浮ついた感じが全面展開されるのだが、モテってなんですかね。人々にキャーキャーいわれるのがモテなんですかね。果たしてモテとは人気者になることであろうか。そこで私としてはやはり何度でも思い出すことがあり、それは壇蜜さんの言葉、「モテてもおつきあいするのはひとりなのに」という真っ当すぎるお話。殿様じゃねえんだから大奥だのハーレムだのはあり得ないのだ。モテ。これはあるいは好かれたいということだろうか。それならちょっとわかるんだけども。

 ディスクがまた届いている。CDを買ってばかりいる。趣味とはいえ、楽しいとはいえあんまりこういうことをやっていてはいかん。趣味のみに生きるものではない。薔薇を求めるのもいいがパンも必要だ。あるいはパンあってこその薔薇。さて最近は何を聴いているか、というとジュリアス・カッチェンのブラームスを引っ張り出していたりする。いいですねー、カッチェン。名演集のボックスをポチった関係で聴き直していて、いやはやこのピアノ、透明感のある響きに陶然となることしばしば。音色が違うわ音色が。一音ずつの連なりによってこれほどのものが描けるということ。音楽は魔法です。今後もハマり込んでいくのでしょう。カネの続く限り。カネの続く限りは。

 断片をやめることの主たる理由として、これを書いていては読書ができないのだ、ということがある。この三十日間ろくろく読めていない。で、ばっさりとやめてみて、やめるからには本当にガツガツと読むぞ。本職の小説家はいったいどうやって読書をしているのだろうか。そこがわからない。書きながら読むスキルは今回とうとう身につかなかった。いずれ本職になったとしたらこんなことではいけない。原稿を書いて、平行して本も読んでとやるその生活、いずれはそのように生きたいものだが。ま、がんばりましょう。本職への可能性としてはあれですよ、noteの創作大賞。あれに期待しているけれども。某文学新人賞のほうは敗戦処理だ。来月の雑誌で中間発表がある。一次くらいは通っていればなかなか救われるけれども。最後に一次通過したのが八年前やて。そこから鳴かず飛ばずだ。何やってるんだろうな。

 では、三十回お疲れさまでした。けっこうがんばった。またよろしくお願いします。



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