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続・断片 3 幸せになるつもりはあるのか

 かつて誰かに訊かれた。人生の意味は、と訊かれた。あたくしは、幸せになるためだ、と答えた。その問答から二十年以上経ち、あのときの即座の答えにいまも揺らぎはない。幸せになる以外に生きる意味や意義や意図はない。では幸せとは何かね。メディアはいう。ステキな彼女/彼氏をゲットしてラヴい感じになろう、という。他の連中よりも上手に儲けて一歩先のライフスタイルへ行こう、という。さて。それでその追従者たちが幸せになるならば特段いうことはない。ラヴい感じだろうが一歩先のライフスタイルだろうが勝手にしてればいい。覚えておいてもらいたいのは、それは人、人物、人間、存在としての価値ではないのだということだ。キリストは童貞だった(諸説あり)。仏陀は乞食だった。おわかりか。いま現在語られている世の価値観など、真実や本質からは程遠く、わずか表層のものでしかない。ラヴいだの儲けるだのはつまらぬ。

 と、いうのも、あたくし自身がアセクシュアルに寄っていることと、貧乏をこじらせていることとの結果の考えであって、そんな個人的なところへキリストだ仏陀だと持ち込んでくるのも関係各所に迷惑な話なのだけれど。でもねえ。持ち込みたくもなるようなことよねこれ。ラヴについてはどうにも語ることはない。あたくしには語れないのだ。愛したり愛されたりということがいくらかあったにせよ、それが本物だったとしても、語れるほどの自信はない。おおげさにいえばあたくしには愛の概念がはっきりとはわからんのであった。ここで一般にいわれる幸せの条件がひとつ失われる。あとはカネによって成就される何かであるが、カネの使い道なんぞ通常の勤め人をやってても十分足りることでしか夢を見ていない。書庫が欲しい。安くて高性能のスピーカーが欲しい。カメラが欲しい。そんなもんである。別に一等地に家などいらんのだ。

 タイトルからいうと幸せの意味をまず定義づけなけばならないが、簡単にイメージされるところの、苦痛なく朗らかで明るめの気分の日々を送ること、というように定義すれば、まあまあ誰にでもそのチャンスはあるだろう。やってやれ。がんばれ。あなたにはあなたの幸せがある。まだわからなくてもいずれわかる。夕方に買ってきたキュウリを縦に切ってみればやたら瑞々しくて、マヨネをつけて食ってみたらばメッチャうまかった、たとえばそんな小さなことさえも幸せのうちよ。あとなんでもいいよ。パンでもコーヒーでもいいからそこに幸せを感じなさいよ。サブスクでいい番組やらいい音楽やらを見つけたらガンガン消費しなさいよ。そんな日常の楽しみに飽きたら旅にでも出ればいいのだ。海外は未だ難しいが国内のどっかに行けばいいんじゃね。

 前回に引き続き、なんか説教くさくなってるんだけど、どうしたの金井。説教癖なの? あれだな、楽しみだとか幸福論だとかについては何かいいたいんだろう。お前らの幸せなど本物じゃねえよって、一ブロック目のその部分は脳内の仮想の、架空の敵にいってることなのだ。ここまで読まされてさぞかし近所迷惑であろうこと。すみません。これを読んでいるあなたは敵ではないのです。むしろ、きっと味方なのです。

 四ブロック目と前後して音楽の話。といって何が語れるでもないが、ディノ・チアーニのピアノをあなたは聴いたか。いま彼のベートーヴェンのピアノソナタ全集を崩しているが、これはちょっと大業物ですよ。いままでバックハウス、ケンプ、ポリーニ、仲道郁代、HJ リム、バドゥラ=スコダ、だいたいそのあたりで全集を聴いてきたけれども、それらの誰のものとも違う個性、つまり孤独、孤高の演奏。誰々みたい、などとは決していえないこの演奏をですね、聴いちゃってるね。チアーニ。すんげぇ。


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